脱原発、ドイツの歩み3)
「30年戦争の終わり」、歴史的な連邦議会の決定
「脱原発は、原子力利用をめぐる30年にわたる激しい議論の末の成果であり、これからの世代にまたがる大規模で重要な国家的プロジェクトである」と熱を込めて語るのは、レトゲン連邦環境相、2011年6月30日、ドイツ連邦議会でのことだ。この日の連邦議会ではメルケル政権が6月6日の閣議で決めた脱原発の政策と関連法案の審議が行なわれたのだが、環境相は政府を代表して脱原発の具体的な行程表について説明するうちに徐々にエスカレート。「ドイツほど自然エネルギー促進に野心的だった工業国はない」と鼻高々で述べ、「脱原発を実現することのできる国があるとすれば、それはドイツ」とさらに調子が高くなっていった。
一方、野党側は、最初から反原発の立場に立っていたような口調で与党側の成果を強調する環境相に猛反発。10年ほど前、シュレーダー政権の時に一度脱原発を決めた社会民主党や緑の党の代表たちは、「長年脱原発を掲げて闘ってきたのは自分たちである」ことをアッピールして、激しい論戦が続いた。社会民主党のガブリエル党首は「我々原発反対派は長年にわたって推進派の悪意に満ちた中傷にさらされてきた。我々はきょう確信に満ちて脱原発の決定を行なうが、メルケル首相の場合は権力を維持するため、まったくの日和見主義からの決定に過ぎない」と厳しく批判した。「メルケル首相は去年秋の原発運転期間の延長決定で、国に大きなダメージを与えた」と述べた社会民主党党首は、メルケル首相に向かって「首相をおやめなさい。それが我が国にとって最も良い再出発になります」と、こちらもエスカレート。脱原発という基本姿勢ではおおむね意見が一致していると見られていた与野党の意外にも激しい論戦だった。
午後の採決の結果は620人の議員のうち、賛成513票、反対79票、棄権8票(20人が欠席または採決不参加)で政府の提案が承認された。もっと早い時期の脱原発を要求してきた最大野党の社会民主党や結党以来一貫して反原発を掲げて来た緑の党の議員の大多数が、保守・リベラルのメルケル政権の脱原発、エネルギー政策転換の方針に賛成票を投じたのだ。ドイツ国内を二分した原発賛成派と反対派の30年以上にわたる長い激しい闘いが終わった歴史的な瞬間だった。翌日のフランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング(FAZ, Frankfurter Allgemeine Zeitung) は「30年戦争の終わり」という見出しの記事を1面に載せた。社会民主党や緑の党の指導層は、メルケル政権の脱原発の方針は時間がかかりすぎると批判する一般議員が反対票を投じて、脱原発そのものが拒否されるのではないかと心配していたのだが、その心配は杞憂に終わった。これにより、現在17基ある原発のうち福島第一原発の事故直後運転を中止した7基と事故続きで運転を中止していた1基、計8基の原発の操業再開は行なわず、そのまま閉鎖、残り9基も段階的に廃止し、2022年にはすべての原発から撤退するという政府の行程表が、連邦議会の大多数の承認を得て確定したことになる。福島の原発事故から3ヶ月あまりの急テンポの展開だった。(注:この段階では、冬の電力不足に備える予備基として7基のうちの1基を2013年まで残すかどうか、9月までに結論を出すことになっていたが、8月末、残す必要はないという結論が出された)
反対票の79票のほとんどは野党の左翼党(左派党ともいう)の議員の票だが、彼らも脱原発そのものには賛成なのだ。左翼党は脱原発をドイツの憲法である連邦基本法に明記するよう求め、それが受け入れられなかったため、政府の脱原発案に反対票を投じたのだった。反対票にはさまざまな立場が反映されている。社会民主党や緑の党の議員の反対票や棄権は、脱原発には賛成だが政府案の脱原発のプロセスが長過ぎること、つまりこれからまだ11年も原子力を使い続けることへの批判票である。これに反して連立与党、キリスト教民主・社会両同盟及び自由民主党の少なくとも7人の議員の反対票は、脱原発そのものへの反対であった。保守リベラル連立の第2次メルケル政権は、シュレーダー政権時代に、2020年頃までにすべての原発の運転を停止することを電力会社に義務づけた「脱原発法」(施行は2002年)を2010年9月5日に改正し、原発の運転期間の平均12年延長を決めたばかり。保守陣営の一部には、福島の原発事故後のメルケル首相の急激なエネルギー政策転換への不満がくすぶっているとも伝えられる。保守のある大物政治家は、メルケル首相への抗議の意志をあらわして採決に参加しなかった。
この日、脱原発への原子力法や再生エネルギー法の改正案の他、合わせて8つの関連法案が賛成多数で議会を通過した。当時、ドイツの電力供給に占める原子力エネルギーの割合は約23パーセントだったが、今後は風力や太陽エネルギーなど再生可能な自然エネルギーの普及促進に力を入れ、約17パーセントの再生可能なエネルギーの割合を2020年までに少なくとも35パーセントに引き上げること、海上のオフショア風力発電に力を入れ、2030年までに2万5000メガワット(大規模発電所20基分に相当)の電力を生み出すことなどが目標に掲げられている。このほか、原発に代わるガスなどの化石燃料による新しい発電所の建設、オフショア風力エネルギー、北海やバルト海など北ドイツの海上に設置された風車からの発電を電力の需要の多い南ドイツまで運ぶ送電網の建設・整備などが努力目標として掲げられている。脱原発により予想される電力価格の一時的な値上げに際しての中小企業への金融支援策なども決定されたという。石炭・石油・ガスなど化石燃料発電所の温暖化対策や効率化、あるいは、電力と熱を同時に供給するコジェネレーションの強化にも努める。電力供給側のさまざまな問題の解決策と同時に公共建築物や一般の住宅を断熱効果の高いエコ建築に変えて行くことなどによる省エネ、社会をあげての節電などで、2020年までに電力消費量を10パーセント削減することも目標となっている。原子力に関しては、これまでなおざりにされてきた使用済み核燃料の最終処理場にふさわしい場所を探す努力をすることが明記された。こうした法案を見るだけでも脱原発の課題の大きさがうかがえる。6月30日の連邦議会に続き、7月8日、連邦参議院もメルケル内閣の脱原発の方針を承認した。
もともと核分裂発祥の地はベルリンである。そのベルリンで、ドイツが世界に先駆けて脱原発の長期計画を決定したことに、私は感慨無量だった。ナチ時代の1938年12月15日、オットー・ハーンらによって世界最初の核分裂の実験が行なわれたのは、ベルリンのカイザー・ヴィルヘルム科学研究所(現ベルリン自由大学、化学・生化学研究所)で、この現象に「核分裂」という名前を付けたのは共同研究者の女性実験物理学者、リーゼ・マイトナーだった。マイトナーはナチを逃れてその直前に北欧に亡命、「核分裂」の命名はスウェーデンからオットー・ハーン宛の手紙で伝えたというドラマがある。ハーンは第二次大戦後の1946年になってから1944年度のノーベル化学賞を受賞、核分裂の発見者としての名誉を長い間独り占めしてきた。これに反し、ユダヤ人であり、女性であるマイトナーの功績は、かなり最近まで正当に評価されてこなかった。彼女の功績を公式に認めるよう運動したのは1970年代以降の西ドイツのウーマンリブの女性たちだった。ベルリン自由大学、化学・生化学研究所の建物には「かつてカイザー・ヴィルヘルム科学研究所だったこの建物で、オットー・ハーンとフリッツ・シュトラースマンがウランの分裂を発見した」と書かれた記念プレートがつけられている。これは1950年に設置されたものだが、その下にもうひとつ、新しい記念の銘板がある。「この建物で、核分裂の共同発見者、リーゼ・マイトナーが1913年から1938年にかけて仕事をしていた。分子遺伝学の先駆者の1人であるマックス・デルブリュックが、1932年から1937年にかけて彼女の助手をしていた」と記された第2のプレートがつけられたのは、それから50年後の2000年のことだった。今ではハーンは「核分裂の発見者」、マイトナーは「核分裂の概念の確立者」という見方が定着しているようである。そうしたベルリンでの世界最初の核分裂をめぐる歴史やドラマをあれこれ思い浮かべていると、「脱原発を実現する国があるとすれば、それはドイツ」という冒頭のレトゲン連邦環境相の発言が、何やら重みを持ってくるような気がした。しかもドイツは初の女性首相、物理学博士のメルケル首相のもとで脱原発に踏み切ったのだ。(注:2010年10月26日、化学・生化学研究所が入る建物が、これまでの「オットー・ハーン会館」から「ハーン・マイトナー会館」に名前を変え、その記念式典が行われた)
脱原発法案への反対票が1割ちょっとで、そのほとんどが
「脱原発のスピードが遅すぎる」というもの、というのは
驚きです。
日本では、経団連、電事連、電力関係の会社の労働組合
(支持政党は民主党?)、原発に利権のある大手メーカー、
建設会社などが、今も原発推進を支持しているようです。
ドイツでも当然、原発を推進しておいたほうが都合がいい
人達や団体もいると思うのですが、彼らの動きは
どうなってるのでしょうか。
その辺りも知りたいです。
実際に大事故が起こって、被害が出ている日本では
まだ推進派が力を持っているのに、事故が起こっていない
ドイツでは、こんなにいっぺんに脱原発に舵を切っている…
その違いが、どこから来るのか、頭を悩ませています。
「歩み4)」も期待してます!
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