ベルリンの壁崩壊から30年、なぜ東西間の心の壁はなくならないのか

ツェルディック 野尻紘子 / 2019年11月10日

1990年、まだ残っていた壁の前で記念写真を撮る子供

30年というのは長い年月のようで長くないのかも知れない。ドイツを東西二つの国に分断していたベルリンの壁が崩壊してから、この11月9日で30年が過ぎた。そして1990年10月3日に旧東西両ドイツが統一してからも29年が過ぎている。壁が崩壊した当時、多くの人たちは「一世代も経てば、東西両ドイツ間の差はなくなり、両国の住民は 一つになっているだろう」と考えていた。一世代とは約25年だから、旧東西ドイツの差はそろそろ無くなっても良いはずの時期にきている。しかし実際には30年が過ぎた今も、東西間の差は消えていない。それどころか、心の壁は広がりつつあるようにも見える。どうしてだろうか。

ドイツ統一は、ドイツ民主共和国(旧東独)最後の議会が、既存のドイツ連邦共和国(旧西独)に編入することを決定した結果遂行された。従って統一後のドイツの正式名は今もドイツ連邦共和国だ。旧西独に編入するということは、旧東独という国が消滅すると同時に、同地域の政治、行政、司法、経済機構など、生活のほぼ全ての分野でシステムが旧西独と同じになることを意味した。

旧東独時代からの省庁や役所、裁判所は全てドイツ連邦共和国の法律や規則に従ったものに変更されなければならず、そのために西側ドイツから大勢の役人や専門家、裁判官などが同地に出向した。旧東独地域には、統一後に適用されることになったシステムに精通している人たちがいなかったからだ。出向した人たちの中にはベテランも大勢いたが、若くてやる気のある新人も多かった。彼らの一部は役所などの構築が済むと、西ドイツに戻った。しかし若い人たちの中にはその後も同地に残り、出世して省庁のトップになっている人たちも多い。

経済の面では、まず統一前の1990年7月に当時の西独の貨幣であったドイツマルクが旧東独地域にも導入された。これは、ベルリンの壁が崩壊してから旧東独の市民が旧西ベルリンや旧西ドイツを訪ねたりした際に、旧東独の弱い貨幣ではろくなものも買えず、彼らもドイツマルクが欲しくなったからだ。彼らは「ドイツマルクが我々のところに来ないなら、我々はドイツマルクのあるところに行く」とシュプレヒコールを唱え、 旧東独と旧西独の首脳たちを震え上がらせた。

統一後もしばらくは、東部ドイツの路上では、東ドイツ製のトラバントやワルトブルクが並んでいた。

なぜなら、そもそもベルリンの壁が崩壊したのは、旧東独政府が市民に旅行の自由、特に旧西独への旅行の自由を与えていなかったことが大きな理由だった。そこで西ドイツに行くための数少ない残された可能性の一つとして、市民たちは行くことを許されていた社会主義圏の同胞国であるチェコスロバキアの首都プラハの旧西独大使館などに駆け込んだ。彼らは、旧西独と旧東独の政府が話し合いをし、彼らを旧西独に移住させることに合意するまでそこに居座った。壁が崩壊する直前の数週間に、このような方法で自由を勝ち獲った旧東独市民、つまり旧東独を去った市民の数は、毎日1000人以上だったと記憶している。こういう背景があったために、1990年の夏に市民が唱えたシュプレヒコールは、「ドイツマルクが導入されないなら、我々は、また旧東独を後にするよ」という意味で、非常に現実味を帯びていたのだ。

ただ、ドイツマルクの導入は旧東独経済にとっては大変なことを意味した。それまでのドイツマルクと東独マルクの正式な交換レートは1対4だった。そして闇レートでは1対10、時には1対12などということもあった。それにも関わらず、ドイツマルクと東独マルクとの交換の比率は1対1に設定された。当時約800東独マルク前後と言われていた市民の給料が、200ドイツマルクになってしまうことを避けるために考慮された、苦心の案だったのだ。しかしドイツマルクの導入後、東独の製品の価格は一挙に4倍に跳ね上がった。そのため、ソ連などの東欧圏の顧客は一斉に東独の製品を買わなくなってしまった。また、西独の顧客も東独の製品の購入をやめたはずだ。さらに東独市民自身ももっぱら西独の製品を買い求め、自国の製品を省みもしなかった。これでは、東独の企業が倒産状態に陥っても不思議ではなかった。

ベルリンの壁が崩壊した当時、旧西独に憧れたり、すぐに旧西独との統一を望まなかったりした旧東独の人たちも多くいた。彼らは、新しい社会主義の国、あるいは旧東独と旧西独の良いところを取り入れた新しい国を作りたいと望み、円卓会議を続けた。そこで、それまでほとんど全てが国有だった旧東独の企業を民営・活性化し、売却金は市民一人一人に分配しようというアイデアが生まれた。この構想は、1990年3月に、旧東独最初で最後の自由な選挙が行われ、同地に民主主義に則った政府が誕生した後に実現に移された。現在まで多くの批判の対象となっている「ドイツ信託公社」が誕生し、活動を始めたのだ。

壁が崩壊した頃の東ドイツは、街全体が灰色で、家屋も手入れされていなかった。

旧東独企業の売却というのは生易しい仕事ではなかった。大所帯の企業が多く、中には託児所や理髪店、スーパーまでも抱えているところが沢山あった。売却のためには、それらの付属の分野を切り離す必要があった。また、機械や設備が著しく老朽化していたり、環境保護対策が施されていなかったりした企業がほとんどだった。私も当時新聞記者として、信託公社から依頼されていくつかの旧東独企業を見に行ったが、汚染が酷く、町中の家々の屋根が化学工場から出たピンク色の埃をかぶっていたところもあった。古い機械が並ぶ工場に買い手がつかないだろうということは、一目瞭然だった。信託公社発足当時は旧東独の役人などが責任を取り、売却の作業が進められていたが、ドイツが統一されてからは旧西独出身の人材が音頭をとるようになった。買い手を探すのに、彼らの方が有利だと判断されたからだ。

約1万2000社あったとされる旧東独地域の国有企業のうち、売却されたのは約3800社で、残りの企業は整理された。旧東独の企業を購入した人たちは、主に旧西独出身だったり外国人だったりし、旧東独出身者は少なかった。また、売却された企業では、それまでの従業員の数が極端に縮小された。 買い手のない倒産寸前の企業の解体は急がれた。その結果、旧東独地域には失業者が溢れた。今までに経験したことのない失業ということは、旧東独地域の住民を大きく傷つけ、戸惑わらせた。そしてその心の傷は現在まで残っている。

旧東独地域に住むドイツ人の中には今、自身をあたかも「二級ドイツ人」であるかのように感じており、そのことに苛立っている人たちが多い。ベルリンの壁崩壊から30年も経っているのに、政治的主要ポストも行政や司法のトップも、経済界や文化面のリーダーでさえ、ドイツ全国的に見ても、旧東独地域だけに絞って見ても、ほとんど全てを旧西独出身者が占めているというのだ。また、旧東独の企業は十分に生き残ることのできる状態にあったのにも関わらず、旧西独から来た生意気な厚かましい若者が、旧西独の企業に有利なために閉鎖してしまったという”伝説”もなかなか消えない。彼らのせいで失業という目に遭ったと感じている人も多い。住んでいる村や町で過疎化が進み、小学校や病院が閉鎖されてしまい、バスも1日に朝晩1本ずつしか来ない。自分たちは「二級国民扱いされている」と主張するのだ。

非常に難しいテーマだ。彼らの主張が正しい場合もある。ただ、彼らが忘れていることもある。まず、ドイツ統一時に人口の割合が大まかに言って、西の4に対し東の1だったことがある。だから全ての分野で東西ドイツの同数の人材がトップの座を占める必要はないのだ。国を司る連邦政府内の重要ポストに旧東独出身者の数が少ないことは事実だ。しかし過去14年間連邦首相の座に就いているのは旧東独出身のアンゲラ・メルケル氏だ。また、2012年から2017年まで連邦大統領を務めたヨアヒム・ガウク氏も旧東独出身だ。ドイツ統一後に旧東独地域に新しく誕生した五つの州の州首相は、初めは旧西独出身者が多かった。しかし現在の5人の州首相のうち、西部ドイツで生まれ育った人物は一人に減っている。司法や経済の分野でも人材は入れ替わっている。また、旧東独地域にありながら、その分野で世界的な企業に成長し、活躍している会社もある。

さらに例えば、文化都市ワイマールのクラシック財団のトップは、この秋に旧西独出身者から若い旧東独出身者にバトンタッチされた。また、現在開館を前に準備を整えているベルリンの真ん中に登場する大きなフンボルト・フォーラムの総監督も旧東独出身者だ。このフォーラムは 、戦前そこにあったのだが旧東独政府により壊されてしまったお城の外見を再現した大きな文化施設になる。

もう一つ、東部ドイツに関して問題があるのは人口の減少だ。ドイツ統一当時約1600万人と言われた旧東独の人口の中には、統一の直前に旧東独地域を去ってしまっていた人たちも含まれる。それから30年、特に若くて実力もやる気もある人たちの大勢が同地域を後にしている。その数は200万人とも400万人とも言われる。西部ドイツから東部ドイツに移り住んだ人たちもいる。しかし、ミュンヘンの Ifo 経済研究所は、同地の現在の人口を1360万人としている。ハレにあるライプニッツ経済研究所(IWH)の発表によると、同地の人口はベルリン抜きで約1250万人だという。人口の減少は、過疎化を進める一方、種々人材を他地域に求めなければならないというジレンマも生む。

旧東独地域に住む住民の苛立ちや彼らの心理を上手く利用して、ここ数年来急激な伸びを示しているのが右翼ポピュリズムの政党である「ドイツのための選択肢(AfD)」だ。つい先ごろ行われたブランデンブルグ州、ザクセン州とテューリンゲン州の州議会選挙で、同党はそれぞれ23.5%、27.5%、23.4%という非常に高い得票率を獲得するなど大きく躍進した。しかしAfDの人たちが唱えることは、苛立ちや不満を高めるだけで、建設的ではない。AfDを支持する有権者はただ、彼らの声が聞かれていると感じて、いくらかの満足感を味わっているだけだ。公共ラジオであるドイチュラントラジオのシュテファン・ラウエ会長は、ライプツィヒに住み、旧東独地域の人たちとのコンタクトが多い。同氏は「AfDは、旧東独地域の住民にとり、他人に何かを伝える道具の役割をしている」と語る。そして彼らは「我々の声を聞いてくれと言っているのだ」と解釈する。

ベルリンの壁がなくなって以来、旧東独地域の町は綺麗になり、そこに住む人たちの生活は以前に比べて確かにずっと豊かになっているのだが、彼らにはどこか不満や不安が残っている。旧東独時代に得た資格は無意味になり、持っていた地位もなくなり、多くの人たちは失業を経験した。彼らは、自分たちの給料や年金の平均が、未だに西ドイツの平均に比べて低いことや、西ドイツから来た人たちがまだ行政、司法、経済の分野で指導的ポジションの大半を占めていることを侮辱だと受け取っている。そして自分たちは、正当な評価を拒まれていると感じているのだ。昔と違うシステムや難民の増加などの目まぐるしい変化についていけず、置いてきぼりになってしまったと不安を感じている人たちもいる。

こうした不満や不安の穴を埋めるには対話が大切だ。メルケル首相は今年の恒例の夏のインタヴューで、「多くの旧東独企業が救えなかったのは信託公社のためでなく、旧東独の経済が壊滅的だからだ」と言明した。信託公社で働いていたある西ドイツ出身の女性は「私たちは、1社でも多くの企業の存続を達成しようと、毎日夜遅くまで努力した」と語っている。ブランデンブルグ州のディートマー・ヴォイトケ州首相は、「1990年に旧東独地域の全ての役所が新しくなったのは、旧東独住民が統一を望んだからだ」と記憶を呼び覚ましている。このような発言は不可欠だ。 旧東独出身の人たちが真面目に生きてきたことにも敬意を払う必要がある。彼らが不都合な立場に立たされてしまったのは、彼らの責任ではない。ドイツ連邦政府直属の東部ドイツ担当官、クリスチャン・ヒルテ氏の言葉を借りるなら、彼らは「不幸にして40年間、不当な立場に立たされていたからだ」。その彼らに思いやりを示すことも大切だ。ライプニッツ経済研究所のライント・グロップ所長は、「東部ドイツ出身者に与えられるチャンスが少ないということは最早なくなっている」と明言している。1日も早く、東部と西部ドイツ人の間の心の壁がなくなることを望む。

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