ドイツの国防相、フォン・デア・ライエンが女性初のEU委員長に
7月16日火曜日の夜7時過ぎ、ヨーロッパ中の注目がフランス・ストラスブールの欧州議会に集まったと言っても言い過ぎではなかった。わずか2週間前に欧州理事会によって突如次期欧州委員会委員長候補に指名されたウルズラ・フォン・デア・ライエンを欧州議会が承認するかしないか、1時間前に始まった議員の投票結果が7時過ぎ、いよいよ発表されることになっていたからである。私自身も固唾を飲んで発表を待った。5月末に行われた欧州議会選挙で筆頭候補ではなかった彼女を、欧州理事会が次期委員長候補に選んだことに対する欧州議会議員の反発が強く、拒否される可能性があったのだ。
欧州理事会というのは、欧州連合(EU)の政治レベルの最高協議機関で、加盟各国の首脳、EUの大統領に相当する欧州理事会常任議長、欧州委員会委員長によって構成される。現在のEU加盟国は、英国を含め28カ国。
現在60歳のウルズラ・フォン・デア・ライエンは、父親が若い時にEUの前身、欧州石炭鉄鋼共同体で働いていた時にブリュッセルで生まれ、ヨーロッパ学校に通った自他共に認めるヨーロッパ人である。つまり、EU本部のあるブリュッセルは、彼女の生まれ故郷なのだ。イギリスに留学し、アメリカで暮らしたこともあり、フランス語、英語を流暢に話す。医師の資格を持ち、7人の子供の母親でもある。政治活動に入ったのは遅かったが、すでにドイツで、連邦家庭・高齢者・女性・青少年相、労働・社会相、国防相を歴任している。ドイツの与党、保守のキリスト教民主同盟党員で、一時はメルケル首相の後継者とみなされていた女性である。こうした経歴から見れば、EUをまとめていくにふさわしい生い立ちと政治的経験を積んだ人物のように見える。
しかし、欧州議会の秘密投票の結果は、賛成が383票、反対327票、保留22票、無効1票というものだった。賛成は当選ラインの374票をわずか9票超えたに過ぎなかった。当日朝9時からフォン・デア・ライエンが欧州議会議員を前に行ったヨーロッパ人としての情熱的な演説がポジティブに影響し、反対票を投ずることを表明していた議員の中にも賛成に変わる人がいるのではないかとも見られていただけに、ギリギリの承認は、予想外に厳しいものと受け取られた。その背景には、2014年以降、欧州議会の各会派の筆頭候補の中からEU委員長を選ぶことにしていた欧州議会の決定をEU理事会が覆し、一方的にフォン・デア・ライエンを候補者に指名したプロセスに対する怒りや反発が強かったことがある。また、彼女が当日の演説でEU強化を目指す緑の党や社会民主党などの左派系の議員に受け入れられるような政策を発表したため、本来彼女が所属する保守派の議員たちの中にも反対に回った人が出たとも見られている。しかし、秘密投票なので、誰が反対票を投じたかはわからない。彼女が委員長就任を拒否された場合には、さらにEU内の対立と混乱が強まることが危惧されていた。
フォン・デア・ライエン自身は、投票結果が発表された後、胸に手を当て「民主主義では、わずかでも多数は多数」とホッとした表情を見せ、欧州議員たちに建設的な協力を呼びかけていた。女性がEUの委員長に就任するのは初めてで、ドイツ人の委員長は、1958年から1967年まで欧州経済共同体(EEC)の初代欧州委員会委員長を務めたハルシュタイン氏以来52年ぶりである。10月31 日で任期の切れるユンケル委員長の後任として、11 月1日に就任する。任期は5年間だ。
投票当日の朝フォン・デア・ライエンが欧州議会で反EU派やEU懐疑派を含めた議員全員を前に、渾身の力を込めて行った演説に、私自身は感動した。日本のメディアではあまり紹介されなかったと思うので、少し詳しくお伝えしたいと思う。
彼女はまず「シモーヌ・ヴェイユさんが欧州議会の初の女性議長に就任したのは約40年前のことでした。今、私は初の女性としてEU委員長に立候補することを誇りに思います」と語ったが、それはフランス語だった(注:シモーヌ・ヴェイユは、ユダヤ系のフランスの法律家・政治家で、ナチのホロコーストの生還者として知られたが、政治家としては、女性の権利向上やヨーロッパ統合の理念の推進に貢献した。2010年にはフランス人が最も敬愛する女性に選ばれたが、2016年に89歳で亡くなった)。フォン・デア・ライエンはその2分後に今度はドイツ語で、「こんにち約5億人のヨーロッパ人は繁栄と自由の中で暮らしていますが、その一方で社会のデジタル化、高齢化、気候変動など多くの問題を抱えています。こうした市民の心配事に対して保護主義や権威主義によって応えるのではなく、結束によって対応していかなければなりません。私たちが内部で結束していれば、外部の誰も私たちを分断させる事はできません」などと語った。その後、今後の重点政策の各テーマに移ったが、その後のスピーチの大部分は英語だった。
今後5年間に重点を置く政策として彼女はまず、気候変動対策をあげ、2050年までにヨーロッパを最初のカーボン・ニュートラルな大陸にしたいなどと語った。カーボン・ニュートラルとは、排出されるCO2の量と植物などが吸収するCO2の量が同じ状態を意味する。環境中のCO2の変化量がプラス・マイナス、ゼロの状態を指す。
フォン・デア・ライエンのスピーチでは随所に「ヨーロッパ人」としての視点が強調されており、そこには、個人的な背景や経験も盛り込まれていた。例えば、7人の子どもの母親として子供の教育、健康問題に無関心ではいられないと強調した部分や父親について話したくだりなどだ。スピーチの後半で英語からまたドイツ語に戻り、「ドイツがヨーロッパに死と廃墟、追放と破壊をもたらした第二次世界大戦が終わった時、私の父親は15歳でした。彼はのちにヨーロッパの経済協力を目指す『ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体』で働いたため、私はブリュッセルで生まれました」と述べ、「欧州を弱体化し、分断しようとする者、あるいは欧州の価値を認めない者たちにとって、私は手強い敵になるでしょう」と断固とした態度を示した。欧州議会の中の反EU派やEU懐疑派の議員の票をあてにしていないことを、はっきりさせたのだ。
最後はヨーロッパに栄光あれ!といった意味の言葉、Es lebe Europa, vive l’Europa, long live Europeと独仏英の3ヶ国語で呼びかけて演説を締めくくった。その瞬間多くの議員が、拍手とスタンディングオーベーションで 応えたのだった。しかし、その感動は票にはつながらなかったようだ。
欧州議会議員の中のヨーロッパ支持派の議員の票を獲得するため、緑の党や左派、あるいはリベラルな議員に受け入れられやすい約束をいろいろしたと批判もされているが、彼女のスピーチで特に私の印象に残ったことが3つあった。気候温暖化防止に力を入れていくこと、28人のEU委員会の委員の人事を完全に男女同数にすること、今回のようなEU理事会と欧州議会の権限をめぐる対立を避けるため、欧州議会の権限を高め、密室協議をなくす方向で問題を解決したいと述べたことだ。
今回、フォン・デア・ライエンを委員長候補に提案したのは、フランスのマクロン大統領だが、彼女の名前を最初に理事会に持ち出したのは、実はドイツのメルケル首相だったという。もっとも、委員長候補としてではなく、ドイツからの委員の候補者としてではあったが。 現行のEUの法律、リスボン条約では委員長候補を提案できるのはEU理事会で、欧州議会の承認が必要だとしか決められていない。しかし、近年欧州議会側の不満が高まったため、前回2014 年の欧州議会選挙では、欧州議会の各派が筆頭候補を立てて選挙戦を闘い、第1党になった会派の筆頭候補が委員長候補になるという方法が適用された。今回も議会側はその方針を踏襲したが、欧州理事会の首脳たちがそれを無視し、いわば密室で、一方的にEU委員長候補を決めたことに軋轢の原因があった。
この問題に関して欧州議会の権限を強化するというフォン・デア・ライエン自身の考えは、欧州議会議員たちにとって魅力があるはずだ。ミュンヘンで発行されている全国新聞、南ドイツ新聞の翌7月17日の社説が「権力と無力」というタイトルで、この問題を取り上げていた。同社説はフォン・デア・ライエンの短期間の健闘をたたえ、今回の混乱にも、多くの人の目をEUの抱える問題に向けさせたというプラス面があったと述べた後、次のように論じていた。
現行法の規定ではEUがなかなか前に進めないことが明らかになった。加盟28カ国の首脳たちからなる欧州理事会では、各国のナショナルな国益がせめぎあう。そのため欧州理事会では、ヨーロパにとって最善の道が決定されず、最小の共通点でまとめざるを得ないということが、しばしば起こる。したがって、加盟国の市民を、騒然とした世界から守るようなEUにしたいと望む者は、EUの権力を欧州理事会から欧州議会に移さなければならないと考える。国籍の異なる議員たちが、それぞれの政党グループを構成している欧州議会の方が、ヨーロッパ全体の公共の福利を推進していくのに適した状態にある。欧州議会は、EU委員長の決定権を含め完全な議会としての権限を与えられるべきである。そして加盟各国の市民の票が平等に評価されるようにしなければならない。欧州議会の権限強化に努力すると発表したフォン・デア・ライエンが、それに成功することを願う。
私自身が、欧州議会の権限を強める以外にないと思った一つの理由は、ドイツの社会民主党(SPD)の欧州議員たちの投票態度によってだった。「ドイツ人が50年ぶりに委員長候補になったのに、ドイツ人でありながら反対するなんて」という保守派の批判やSPD幹部からの圧力にもかかわらず、彼らは原則を守るという態度を頑なまでに崩さず、最後まで反対の姿勢を貫いた。そうした彼女、彼らの態度を見て、EU加盟各国の首脳たちのエゴがぶつかり合う欧州理事会より、各国の議員が国籍を離れ、思想信条によってそれぞれ統一会派を組む欧州議会を強化することによって、ヨーロッパの理想に近づくことができるのではないか、私はその兆しをここに見たような気がしたのだった。
7月24日の南ドイツ新聞は、投票段階でフォン・デア・ライエンに票を入れなかった欧州議会の緑の党の議員たちが、その後の話し合いを通じて彼女に協力する姿勢を示したという喜ばしいニュースを伝えた。誠実な女性が加われば、政治も一味違ったものになるのではないかと、女性である私に密かな希望も生まれた。今後のEUの動きに注目したい。