魔法使いの弟子
「人間は自分たちの力で制御できないものを作り出してしまった」福島第1原子力発電所の事故の後、私たちはその恐ろしさを痛感した。複数の原子炉での人類初ともいえる今回の大事故をきっかけに、科学技術の限界や人間のおごりについて思いをめぐらした人は少なくない。文豪ゲーテの詩「魔王」の中にその象徴的な意味を見出した独文学者については前回ご紹介したが、もうひとりの独文学者、仙台で東日本大震災を経験した佐々木克夫東北大学教授も、福島原発事故に同じゲーテのバラード「魔法使いの弟子」を思い浮かべた。
詩:ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ 日本語訳: 山口四郎
やれやれ魔法使いの老先生
やっとお出ましになったぞ!
さあ先生の手下の霊ども
今から俺の言う通り動くんだ
唱える呪文 結ぶ印
一部始終はとくと見ておいた
そこで念力を凝らし
俺だって奇跡を現じて見せよう
溢れよ 溢れよ
辺り一面
目途定めて
水よ流れよ
たっぷり漲れ
水浴びしようほど
さて そこでおまえだ 古箒!
その襤褸っ布を引っかぶれ
長いこと老先生の下僕だったが、
今度は俺の言いなりにするんだ!
二本脚でつっ立て
頭は上だ
それから急いで行くんだ
水瓶たずさえ!
(後略)
ゲーテの長いバラード「魔法使いの弟子」はドイツでは教科書にも取り上げられるため、ほとんどの人が知っているほど有名である。
魔法使いの老先生が用事で出かけ、留守の間にかめに水を汲んでおくよう弟子に言いつける。弟子は自分が働く代わりに習いたての魔法をつかって箒に水を運ぶよう命令する。箒は命令通り動き出して水を運び続けるが、弟子は大変なことに箒をもとの姿に戻す呪文を忘れていた! そのため家中水浸し。いくらやめるよう言ってもやめようとはしない。怒り狂った弟子が箒を手斧でまっぷたつに割るが、今度は2本に割れた箒のそれぞれが水を運び始める。大洪水に弟子が悲鳴を上げているところに魔法使いの老先生が帰ってくる。
隅に退け!
箒よ 箒!
汝ら本来 箒なり
なぜならば汝らを霊として呼び出し
その目的に供し得るのは
ただ練達の師あるのみなれば
この呪文でぴたりと元の箒の姿に戻した魔法使いの老先生は、人智を超えた神のような存在、そして魔法使いの弟子は、核廃棄物の最終処理の方法を知らないまま原発を推進してきた愚かな人間に見立てることができるのではないかと佐々木教授は考える。
ゲーテがこのバラードを書いたのは「魔王」の詩を書いた25年後の1797年、ワイマールで文豪シラーとの親交を深めた時代で、この時期ゲーテはバラードを沢山書いたため「バラードの時代」と呼ばれている。
このゲーテのバラードをもとにフランスの作曲家ポール・デュカス(1865—1935)が1897年に交響的スケルツォ(交響詩)「魔法使いの弟子」を作曲、この曲でデュカスは一躍有名になった。ファゴットが活躍することで知られるこの曲は、箒のテーマ、水のテーマ、魔法使いの弟子のテーマ、老先生のテーマとはっきりメロディーが決まっているので分かりやすい。さらに時代は下って20世紀前半、ディズニーが音楽映画「ファンタジー」の中で、この曲を取り上げ、魔法使いの弟子にミッキーマウスを登場させたため、さらに有名になった。
佐々木教授は「ゲーテは科学技術の進歩した20世紀、21世紀の世界をまったく知らない詩人であるにも関わらず、今回の原発事故を予感していたのではないかと錯覚してしまうほどである」と書いている。次に東京外国語大学ドイツ語学科の機関誌「ゲルマニア」に寄稿された佐々木克夫教授の『原子力発電所事故と「魔法使いの弟子」』を同教授の許可を得てご紹介する。
原子力発電所事故と「魔法使いの弟子」
佐々木 克夫
ウォルト・ディズニーの音楽映画「ファンタジア」は1940年に製作されたが、日本では第二次世界大戦後の1955年に紹介された。この映画を私が見たのは高校生の時だったと思う。これはバッハの「トッカータとフーガニ短調」からシューベルトの「アヴェマリア」までクラシック音楽八曲(ストコフスキー指揮、フィラデルフィア交響楽団による演奏)を映像で描くという画期的なものであった。
第3曲目にフランスの作曲家ポール・デュカスが1897年に作曲した交響的スケルッツォ(交響詩)「魔法使いの弟子」がある。ゲーテが1797年に作ったバラード”Der Zauberlehrling”「魔法使いの弟子」に触発されて音でそれを表現したものである。ディズニーはデュカスの音楽に合わせながら、ミッキーマウスを主人公にして、ゲーテの描く物語を動画でユーモラスに表現している。魔法使いのお師匠さんが用事で家を留守にすることになり、その間に弟子に甕に水を汲んでおくようにといいつける。弟子は楽をするために聞き覚えた呪文を唱えて、箒に自分の代わりに水を汲ませる。箒は命じられるままにせっせと甕に水運びをしてゆくが、いつの間にか甕は一杯になってしまう。慌てた弟子は止めさせようとするが、そのための呪文を知らなかったので、どうしようもできない。腹を立てた弟子は止めさせようと箒を割ってしまうが、今度は割られた箒がこれまで以上に水をせっせと運んでくるものだから、部屋中が水浸しになってしまった。途方に暮れているところにお師匠さんが帰ってきて、魔法を解く呪文を唱える。
手許にある『ゲーテ・シラー バラード選集』(Joseph Heuwes編、1906年版)によると、ゲーテ(1749~1832)はギリシャの風刺詩人ルキアノス(AD120~180)の「嘘の好きな人、または不信心者」をヴィーラントがドイツ語に翻訳したものを換骨奪胎して「魔法使いの弟子」を創作したようである。
このバラードに関係している部分は、主人公が勉学のためにエジプトに滞在中の出来事で、旅の途中で一緒になったパンクラーテスという人物と二人で宿に泊まる度に起こったこととして、次のように表されている:「この人物はドアの閂や、箒や或いはすりこぎを取って、それに衣類を着せ、二三の呪いをかけ、動くようにした。その物体は他の者にはまるで人間のように見えた。それは外に出て、水を運んで来る、買い物をする、食事の支度をする、給仕をする、そして手際よく我々の世話を焼くのである。さて、我々がその奉仕をもう要らないとなると、パンクラーテスは別の呪いを唱えて閂を再び閂に、すりこぎをすりこぎに戻した。私は努力してみたが、どのようにして彼からこの技を習得できるものか分からなかった。それというのも、彼は他の誰よりもこの世で最も危険な男であったのだが、それに関しては用心深かったからだ。ある日のこと、彼がそうとは知らずに、私は暗闇の中で彼の直ぐそばにいて、このわずか三音節の呪いを聞いた。その翌日、この男は市場に用事で出かけると、私はすりこぎを取って、衣類を着せ、上述の三音節の呪いを言って姿を変えさせ、水を運んでくるように命じた。直ちにすりこぎは大きな甕いっぱいの水を運んできた。「よし」と私は言った。「もう水を運ばなくてもよい。再びすりこぎに戻れ。」しかしこの変身した物体は私の言葉を無視して、水をどんどん運んできて、とうとう家中が水浸しになってしまった。私は不安になった。パンクラーテスは帰宅したら、実際何が起こったにせよ、怒るだろう。私はどうしようもなかったので、斧を掴んで、棒を二つに割った。すると困ったことになった。というのもそれぞれが容器を持って水を運んできて、水汲み人が一人ではなく二人もいたからだ。そうこうするうちにパンクラーテスも戻って来た。何が起こったのかに気づくと、このものらをその前の姿に戻した。彼自身はだが気づかれないように私のもとを去って、私は二度と再び彼の姿を見ることはなかった。」
魔法使いが弟子の不始末に決着をつける様子をゲーテはバラードの最後(93~98行)で次のように極めて簡潔に表している。
„In die Ecke,
Besen! Besen!
Seid’s gewesen!
Denn als Geister
Ruft euch nur, zu seinem Zwecke,
Erst hervor der alte Meister.“
「部屋の隅に行け。箒たちよ、箒たちよ。お前たちは最早精霊ではない。お前たちを使いたいから精霊として呼び出したのは魔法使いの老師だからだ。」と言って、魔法を解き、箒の水運びを終わらせるというものである。このバラードは起承転結がはっきりしていて、全体が短いながらも劇的な構成となっている。
さて、2011年3月11日に起きた東日本大震災後に福島県の原子力発電所が爆発事故を起こした。地震の直後に発生した津波により発電所が破壊して事故になったという見方と津波ではなく地震によるものだという見方もあり、最終的な結論はまだ分からないようである。前者の見方をする人たちにはこれが想定外だったと唱える向きがあるが、それに異を唱える専門家もいるらしい。後者の見方をする人たちには、発電所が地震の大きな揺れによって事故になったとみるようだ。例えば、発電所の複雑な装置の中にあるパイプを手でハンダ付けしているそうであるが、素人ながら果たしてそれで高温に耐えることができるのであろうか、或いは震度6強のような激しい揺れに耐えられるのであろうかなどと疑問に思われる。原子力発電所というパンドラの箱が天災であれ、人災であれ事故によって開いてしまった。その中から出てきた魑魅魍魎を如何にして始末するのだろうか。専門家、為政者たちに驕りはなかったのだろうか。原発が稼働中に放射能汚染物質が絶えず生成されて、その廃棄物の処理として地中に埋めるしか方策がないとなると、日本中がいずれ放射能汚染国となり、人が住めない国になってしまう。綺麗な住みよい国を未来の日本人に残さずに、これでよいのであろうか。ましてや爆発事故によって放射能は大気中に、地中に、そして海中に流れ出し、その放射能汚染の影響たるや想像の域を超えている。「水に流す」という綺麗ごとで済まないのが原発事故である。汚染された大気や海水は巡り巡って近隣諸国や遠く海外にまで累を及ぼす。最早我が国だけの問題ではなくなっている。
ゲーテの魔法使いの弟子は止めることを知らずに賢しら顔に半可通の呪文を用いて楽をしようとしたら、結果としてどういうことになったかが、バラードという詩の形で象徴的に示されている。自然の持つ本当の怖さを知ろうとせず、また科学技術を盲信してその制御の術を心得ていると過信した結果がどうなったのか。ルキアノスもゲーテも科学技術の進歩した20、21世紀の世界を全く知らない詩人たちであるが、とりわけゲーテはこのバラードの中で人知を超えた力を持つ自然への畏敬の念を欠き、知ったかぶりで得々として言動する人の傲慢さ、愚かさを風刺し、戒めているが、チェルノブイリと今回の原発事故を予見していたのではないかと錯覚してしまうほどである。
昨年の12月であったが、太平洋戦争開戦から70周年を記念するNHKの一連のテレビ番組の中で86歳?になる人の話があった。岡実さんは終戦直前に出兵して広島の近くで訓練を受けていたが、1945年8月6日の原爆投下で被爆し、郷里の福島でその後生活をしてきた。今度は原子力発電所の事故で二度目の被爆をしたことになる。その人の話した言葉が実に印象的であった。「止められないものを作ったのが人間のミスだ」と。正に至言である。
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事故も恐ろしいですが、事故以前の問題として、
放射性物質の処理方法が決まらないまま、原発を稼働させてしまった
というのは、よく考えれば、とてつもなく恐ろしいことですね。
すべてをあっというまに戻してくれる、魔法使いの師匠がいれば
いいですが、実際はそうではなく、これから先、ずっとこの汚染と
付き合っていかなければならないわけで…。
本題と関係ないですが、ドイツ語の詩の原文、面白いですね。
脚韻を踏んでいるようですが、どの行とどの行が対応するかが、
英詩のパターンとは違うようで、面白いなあと思いました。
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