話題を呼んだ気候変動に関するテレビ映画「Ökozid」

永井 潤子 / 2020年12月13日

ドイツにはNHKのような公共テレビ放送が二つある。各地の9局で構成される放送網である公共第一テレビ(ARD)とラインラント・プファルツ州のマインツにある公共第二テレビ(ZDF)の二つだ。その一つのARDが11月18日の20時15分から、つまりニュースの後のゴールデンアワーに放映した映画「Ökozid」 の前評判が高かったので、私も1時間半のこの映画を覗いてみた。

まず、映画の題名だが、Ökozidを独和辞典で引いても載ってはいない。ドイツ人も初めて聞く名前のはずだ。Öko はエコ、環境を意味し、zidツィッドは殺すという意味の形容詞や名詞を作る言葉で、エコを殺す、つまり環境破壊とか生態系破壊とかいう意味の造語である。古代ギリシャ語に基づく言葉で、もともとは「自分の家を壊す」という意味だそうである。そこから環境破壊という意味になるわけだが、アンドレス・ファイエル(Andres Veiel)監督が殺すという意味のzidをこの映画の名前につけた意味が、見終わった後に分かったような気がした。つまり単なる環境破壊ではなく、気候変動のために世界で何百万人という人の生活基盤が崩され、人々が死に追いやられるという厳しい現実を示唆する命名だと分かったのである。

ファイエル監督は、綿密な調査のもとに事実に基づくドキュメンタリー映画やセミドキュメンタリーのテレビ番組を作る監督として知られ、数々の賞も得ている人である。今回はドキュメンタリーではなく、気候変動の影響を示すさまざまな映像を駆使しながら、法廷ドラマという形をとった。時は今から14年後の2034年、気候変動による干ばつや森林火災、暴風雨や洪水などの被害が今よりずっと増えて、その影響で壊滅的な打撃を受けたバングラデシュやハイチ、モザンビークなど南側の31カ国が、気候変動の元凶は先進工業国であるとし、その代表であるドイツを国際司法裁判所に訴え、毎年600億ユーロ(約7兆5600億円)という多額の補償を求めた。本来オランダのデン・ハーグにあるべき国際司法裁判所自体も、建物が3度の洪水の影響を受けて機能しなくなったため、ベルリンのテーゲル空港跡に作られた仮設の建物に移って裁判が行われるという設定だ。

気候変動を防止するために十分な対策を講じてこなかったという理由で、国家が訴えられるというのは、世界で初めてのことで、こうした裁判がそもそも国際法上成り立つかどうか、疑問視する声もあり、その結果は先例を作ることになるため、冒頭で裁判の重要性がテレビニュースで強調された。そのニュースを伝えるのは、実際に今ARDのテレビニュースのキャスターを務めるインゴ・ツァンペローニ氏。今から14年後なので頭には白いものが混じる。

裁判を取り仕切るスイス人の裁判長、31カ国の原告を代表する二人のドイツ人の女性弁護士、被告であるドイツ政府の男性弁護士などの役は、ドイツで著名な俳優や女優が演じている。この裁判劇の中では、ドイツやヨーロッパの政界や経済界などを代表するさまざまな証人の証言が続くが、その一人としてこの時80歳になったメルケル元首相も登場する。もちろんメルケル役の女優が演じるのだが。メルケル首相の前任者、シュレーダー元首相は90歳で、体調が悪く、ロシアで療養中のため欠席するという弁護士の説明に、ちょっと笑わせられる。シュレーダー元首相がロシアのプーティン大統領と男同士の友情で結ばれていることは、有名な話だからである。

ファイエル監督は、この番組の中で、1997年に気候変動に関する京都条約が締結された直後の1998年から2020年までのドイツ連邦政府の気候変動政策を検証することに焦点を当てている。1998年から2005年まで首相の地位にあった社会民主党のシュレーダー氏については、気候変動の防止よりも雇用の維持に関心があり、二酸化炭素の排出量の多い褐炭の鉱山を訪れて、鉱山労働者に連帯を示す元首相の映像が示されるくらいで、批判は主にメルケル首相に向けられている。

例えば、京都議定書で、先進国は2012年までに1990年比で、温室効果ガスの5%削減を義務付けられたが、当時連邦環境・自然保護相だった若き日のメルケル氏が「2012年までというのは遅すぎる」と厳しく批判する映像が映し出される。当時の彼女には環境保護問題に率先して取り組む政治家という印象があった。しかし、2005年に首相に就任した後のメルケル氏は、実際には環境保護に熱心でなかったことが、特にかつて気候変動防止のアクティヴィストだったという若い女性弁護士によって鋭く追及されていく。また、2007年にメルケル首相は当時のガブリエル環境相とともにグリーンランドの氷山が溶ける現場を訪れ、気候変動防止がいかに喫緊の課題かを強調した。しかし、その直後、メルケル首相は、自動車の排出量について厳しい規制を実施しようとした欧州連合(EU)の意向に反し、CO2の排出量の多いSUV(大型のスポーツ用多目的車)のCO2排出量の計算方法を車の重量との比較で行うように変え、結果的にSUVを「環境に優しい車」としたことなどが、当時の事情を知るEU関係者の証言などで次々に暴かれてゆく。これはメルケル首相が、SUVメーカーであるBMW やダイムラー・ベンツなど、ドイツの自動車産業の意向に押された結果だった。

こうした南側の31カ国の追及に対して、ドイツ政府の利益を代表する弁護士は、「ドイツ政府はこれらのことを全て民主的な方法で、法律にのっとって行った。法律に違反することは何もしていない」と、時には感情的になりながら、ドイツ政府を必死に弁護する。南側の国の一つ、バングラデシュの代表は、ドイツ政府の援助で地元に大規模な火力発電所が建設されたおかげで、周辺の環境は破壊され、住民の生活基盤が失われ、温暖化の影響で漁業が成り立たなくなったことなども批判する。一方、ドイツ政府の弁護士は、環境破壊の影響は南の国々だけではなく、ドイツ自身も大きな影響を受けていると主張して、被害の面も強調する。この場面では、気候変動の影響で大きな被害を被ったドイツの農民も証言台に立ち、酪農家の牛が干ばつと飼料不足で次々に死んでいく映像が紹介される。こうした原告と被告の証言合戦に、さらに南の国々を代表する二人の女性弁護士の間の考え方の違い、対立が絡んで番組は展開していった。もう一つ、裁判の状況を伝えるソーシャルメディアの記者が、フェイクニュース並みの刺激的な報道をして、人々を興奮させるということも加わって、話を複雑にする。

映画を見始めた最初から、私は「なぜドイツだけが被告席に立たされるのか、もっと大量にCO2を排出しているアメリカや中国がなぜ糾弾されないのか」という疑問を抱き続けたが、その疑問は途中で解消した。「アメリカや中国は、この国際司法裁判所の存在に反対し、加盟もしていないから、裁判にかけられないのだ」という説明があったからだ。ただし、これは映画の中でのことで、実際の状況とは違うことに注意しなければならないかもしれない。現実の世界では、アメリカや中国、さらにロシアも加盟していないのは、同じくデン・ハーグに本拠を置く国際刑事裁判所の方であって、国際司法裁判所ではない。何しろフィクションであるため、国際司法裁判所をそういう設定にしたのではないだろうか。

この映画を見終わった時の私の率直な感想は「次から次に提示される数字や統計、様々な証言を聞くだけで頭が痛くなったけれど、心に響くものがなかった。気候変動の危機的に重要な意味について警告する上では意味があったけれど、あまりにも“頭デッカチ”で、人々の感情に訴えるものではなく、法廷劇としてのドラマ性に欠けた番組だった」という結構厳しいものだった。ところが友人たちの中には、最後のメルケル元首相の発言に感動したという人が何人かいたのだ。ドイツ人ジャーナリストの友人は「とてもいい番組だった」と言い、私に対して「少なくとも最後の10分ほどをもう1度見るべきだ」とアドヴァイスする。最後の方は、集中力がなくなっていたのも確かだった。それで彼のアドヴァイスに従って、もう1度この映画を見ることにした。それが可能なのは、ドイツの公共放送の主な番組は一定期間、インターネットで無料で提供されているからだ。わからないところは止めて、もう1度聞き直すこともできる。ちなみにこの「Ökozid」は2021年2月18日まで見ることができる。

もう1度映画を見た結果、私はメルケル元首相が、判決を前にして証人としてではなく、「かつて責任のあった政治家として発言したい」と申し出た、その発言内容をきちんと理解していなかったことに気づかされた。普通映画や本を紹介する場合、「ネタバレ」は避けるべきだが、これはドイツ語であるし、この発言を紹介しないと、この映画の良さもわからないと思うので、あえて紹介することにする。裁判の開始以降、首相時代の自分が気候変動の重要性を認識して、意欲的なことを言いながら、その実エネルギー業界や自動車業界の意向を受けて、いかに効果的な政策を取ってこなかったか、あるいは巧妙なやり方で気候変動防止策を妨害さえしたか、事実に基づいて槍玉に挙げられるのをずっと黙って聞いていたメルケル元首相は、ドイツの利益を代表する弁護士の意表をついて、裁判長に向かって次のような内容の発言をしたのだ。

私は旧東ドイツで物理学を学びました。そのため自然の法則は客観的な真実であり、この法則は政治の世界にも当てはまると考えていました。2011年に原発から撤退すると決心した時も、2015年に多くの難民受け入れを決めた時も、そうした気持ちからでした。しかし、この自然の法則は政治の世界では、常に受け入れられるものではありませんでした。もし私が国民に犠牲を強いる政策を、自然の法則に基づくからといって強行したならば、選挙で敗れるリスクを負うことになります。厳しいCO2 の削減は自動車業界に大きな負担となり、自動車産業に従事する人たちの不興を買い、長期政権を維持することは難しかったと思われます。しかし、政治においての最大のリスクは、真のリスクに正面から向き合わないことです。この裁判が始まった時、私の役割は、証人として自分のしてきたことをただ説明すればいいのだと思っていました。でも、今の私は、気候変動が南の人々の生活基盤を破壊し、そのため生存権を脅かされる人々が出てくることを考えて、この問題に果敢に挑戦すべきではなかったかと思ようになったのです。

こう述べたメルケル元首相は、過激な追及でドイツ国民の反発を買っていた若い方の女性弁護士に向かって、「あなたの言うことは理解できます。部分的に同意する点もあります」と述べた上、裁判長に向かって「今となっては自然のバランスを取り戻せるかどうかはわかりませんが、せめて社会的なバランスを取り戻す一歩を踏み出して欲しいと思います。ドイツは気候変動に対処できますが、生活の基盤を破壊された原告の国々は、対処できないのですから。もしもこの裁判が和解に終われば、20年後、あなたは今の私と同じように『なぜあの時行動しなかったのか』とその責任を問われるでしょう」と訴えた。

メルケル元首相を演じたのは、これまでもメルケル役を演じたことのある女優だったが、その発言は、あたかも本当に80歳になったメルケル氏の誠実な言葉であるかのような説得力を持っていた。だからこの発言に感動した人は多かったのだが、批評家の中にはこの映画の中のメルケル元首相の扱い方について、さまざまな反応を示す人がいた。裁判の大部分が首相当時のメルケル氏の環境政策の野心的な目標と実際の成果についての間の大きな亀裂をやり玉に挙げていたことに対し、ある人はメルケル首相に対する隠れた非難中傷の番組だと批判し、ある人は逆に最後のメルケル元首相の発言を「メルケル氏を持ち上げるキッチュな場面だ」と反発した。

話を番組に戻すと、メルケル元首相の発言の後休憩を挟んで再開された法廷は、裁判官全員一致の判決として、国連憲章に認められている人間の基本的な生活権と自然保護の義務を守らなかったとして、被告のドイツ連邦共和国に有罪判決を下し、南の国々に、毎年600億ユーロの補償金を支払うよう命じたのだった。裁判長は直前まで、裁判を中止し、和解を勧める方向に傾いていたと思われたのだが。この判決が発表されると、ドイツ各地では、判決に反対する人たちの騒ぎも起こる。しかし、国連憲章に基づく判決なので、ドイツ以上に大量の二酸化炭素を排出するアメリカや中国、ロシアなども今後は責任を問われる可能性が生まれたという、気候変動防止にとって少し明るい見通しで映画は終わったのだった。

ファイエル監督によると、この映画はコロナ危機の最中にわずか19日間で、撮影されたという。以下にこの映画に対する新聞批評を2、3ご紹介する。

アンドレス・ファイエル氏は、綿密な調査によるドキュメンタリー・フィルムで知られるが、今回はジャンルを変えて、未来に時を移した劇映画を制作した。この番組の本来の主役は「事実」と「論拠」であり、そのことによってこの作品は、勇気ある芸術作品になった。その「事実」と「論拠」によって、ドイツがこの30年間一貫して、すべての環境保護政策を妨害し、失敗に追い込んだことを実証したのである。—ミュンヘン発行の「南ドイツ新聞」—

この映画は、電力会社のRWEやファッテンファル、BMW やダイムラー・ベンツなどの自動車産業の企業を名指しにすることを恐れず、(政治に影響を与える)ロビー活動を主題として扱っている。—ベルリンで発行されている「デア・ターゲスシュピーゲル」—

これほど重要なテレビ映画は、ほとんどあり得ないだろう。現在の決定的に重要な問題を、映画の中で解明しなければならないからだ。「国家を気候変動の罪で、告訴することができるかどうか」という問題である。—「ヴェーザー・クリーエ」

ほとんどが映画の意図を評価する内容だが、一つだけ私自身の意見に近いと思われる批評があった。テレビ番組の批評を専門とする「ティーテルバッハtv」の批評だ。

未来の視点から現在の状況を振り返るというのは、興味深いアイディアである。現在の気候変動に関する議論が未来迄続くわけだが、しかし、フィクション映画の演出はぎこちないものだった。映画の中でさまざまな気候変動による壊滅的な状況が示されるにも関わらず、そして第1級の俳優陣にもかかわらず、この映画には人々の感情を揺さぶる中心的な話が欠けていた。1998年から2020年までのドイツの気候変動政策を徹底的に追求しようというアンドレス・ファイエル監督の意図はもちろん賞賛に値するが、しかし、フィクションの劇映画ではなく、ドキュメンタリー映画の方が良かったのではないか。

この映画がきっかけで、いろいろ考えさせられた人は少なくなかったようだ。私自身も気候変動防止のために自分に何ができるか、考えさせられた。現在世界が直面している重大な問題が凝縮しているこのような硬派の映画が、ドイツの公共放送によって夜のゴールデンアワーに放映されたという事実、それに続く番組でも、「Ökozid」で提起された問題について議論が行われたという事実、そのことに私は1番感動したと言えるかもしれない。今メルケル首相はコロナ対策で必死だが、この映画についての彼女の感想を聞いてみたいものだとも思った。

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One Response to 話題を呼んだ気候変動に関するテレビ映画「Ökozid」

  1. Kazuko Suetsugu says:

    Ökozidの記事大変興味深く読みました。
    私もこの映画を見ましたので以下私の感想を述べてみたいと思います。
    まず環境保護を目指すと思ってきたメルケル首相の政策が、ドイツ自動車業界の利益を優先するためにEU法案の切り崩しだったということにショックを受けました。だがこの法案切り崩しは民主的なプロセスを経ており、「持続可能な経済成長」を支持するドイツ国民の承認を得ていることにもっと大きなショックを受けました。人間は食べていかねば死んでしまう動物です。息をしなければ死んでしまう動物です。地球に拘束された存在の動物です。
    気候変動により生活基盤を奪われ死においやられてゆく人々を目の前にして、「ドイツ政府はこれらのことを民主的な方法で法律にのっとって行った。法律に違反することは何もしていない」と主張するドイツ政府の弁護士の意見を聞きながら、まるで彼は「丸いい三角がある」と言っているように思えるのでした。愚か者とはこういうことを意味するのだろうとも思いました、お金は食べれないと考えたことは無かったに違いないとも思いました。
    地球環境が破壊されてゆく。人間の生存基盤が失しなわれてゆく。生存の基本的恐怖に駆られた人々は難民となり、ヨーロッパをめざして大挙して押し寄せてくる。この破局的事態を避けねば人類は種として生き延びることは難しいと思われます。私達は今や全く新しい経済理論を必要としています。それは環境破壊をくい止め、気候変動を阻止するための理論です、そしてまったく新しい人間を必要としています。お金は食べれない、地球の環境が破壊されれば人間は存在できぬことを自覚している人間を。
    自覚を促す、これがこの映画の目的だと思いました。