壁崩壊30周年を迎えたベルリンの表情

永井 潤子 / 2019年11月10日

ドイツはきのう11月9日、ベルリンの壁崩壊から30周年の記念日を迎えた。ベルリンの壁崩壊と言われるものの、それはベルリンだけの出来事ではなかった。東西ドイツの間を40年間(壁が作られてからは28年間)分断してきた1378キロメートルにわたる境界線の全ての壁が思いがけなく開いたのだが、それは1989年11月9日のことだった。統一ドイツの首都ベルリンでは、この歴史的な大事件、壁崩壊30年を記念するイベントが1週間にわたって200以上行われてきた。世界中からの観光客も多数訪れて、街は賑わった。新聞やラジオ・テレビは、しばらく前から連日、壁が崩壊した当時のことを思い起こし、体験者のルポや現在の東西のドイツ人の意識の差などについて報道してきた。

壁崩壊30周年記念イベントの目玉、”Vision in Motion” というインスタレーション

かつてはドイツ分断の象徴であり、壁崩壊後はドイツ統一の象徴となったベルリンのブランデンブルク門の西側には、今、目の覚めるようなカラフルな色が広がっている。さまざまな色の多数の短冊が風に揺れ、まるで川面で色彩豊かな巨大な波が揺れ動いているような印象を与えるインスタレーションで、人々の注目を集めている。これは壁崩壊の記念アートで、短冊のそれぞれには3万人の夢や希望のメッセージが書かれているという。日本の七夕を思い起こすようなアイディアだ。

アレキサンダー広場の建物の壁面に映し出されたベルリンの壁崩壊当時の映像。

ベルリンの壁崩壊の記念行事は、今回は旧東ドイツ市民の「平和革命」ゆかりの場所、7箇所を中心に、7日間にわたって行われている。記念行事のオープニングは、旧東ベルリンの中心広場、アレクサンダー広場で11月4日に行われた。ここは30年前の11月4日、旧東ドイツの改革を求める市民の抗議集会が開催され、旧東独史上最大の100万人近くが参加したところである。旧東独指導層の改革派なども含めて真剣に国の将来が話し合われたこの集会は、「平和革命」の上で、重要な役割を果たしたと見られている。このアレクサンダー広場には今、壁の崩壊から統一までの過程を示す映像が3Dで、建物の壁面に映し出されている。

当時、東ドイツの人が押し寄せたクーダムの広場で行われている屋外展示。悪天候にもかかわらず、熱心に読みふける人が多かった。

記念のイベントが行われている7箇所には、旧東独時代、反体制派の拠点となっていた東側のゲッセマネ教会や反体制派の市民が占拠したシュタージ(秘密警察)の本部、あるいは壁の絵がアートとして有名になったイーストサイドギャラリーなどと並んで、西側の目抜き通り、クーダムも含まれている。クーダムが選ばれたのは、壁が事実上崩壊した直後、大勢の東ベルリン市民が長年の憧れの的だったクーダムを訪れ、西側市民の歓迎を受けたことを記念したものだ。7箇所ではそれそれ、朗読会、コンサート、芝居、パーフォーマンス、ワークショップなど様々な催し物が行われてきたが、クーダムに面したヨーロッパセンターでは、「平和革命に果たした西側メディアの役割」についての対話集会なども催された。

壁崩壊30年の記念日当日は、あいにく冷たい小雨が降る陰鬱なお天気だったが、記念行事はまず午前10時半、ベルナウアー通りの壁記念館での中央記念式典で始まった。この中央記念式典にはドイツのシュタインマイヤー連邦大統領やメルケル連邦首相のほか、チェコ、スロヴァキア、ポーランド、ハンガリーの4カ国の大統領も出席した。東欧4カ国の大統領はシュタインマイヤー大統領が招いたもので、同大統領は「ポーランドなど東欧諸国で民主化運動が始まったことが、旧東独の平和革命、そしてドイツ統一に貢献した」と感謝の意を表した。そのあと、各國の大統領やメルケル首相は、現存する壁の隙間にそれぞれ一輪のバラの花を挿した。

メルケル首相は正午過ぎ、ベルナウアー通りの礼拝堂で行ったスピーチで、「11月9日は、ドイツの歴史上特別な日で、東独市民の勇気ある平和革命によって壁が開放された喜びの日であると同時に1938年の(ナチによる組織的なユダヤ人迫害が始まった日という)恐るべき日を思い起こす日である」と述べ、国民に対し、憎悪と人種差別、反ユダヤ主義に断固として反対し、将来にわたって自由と民主主義を守るために闘うよう、呼びかけた。メルケル首相はまた、「人々を分断させ、自由を制限する壁がどんなに高くても、壊されない壁はない」とも述べて、困難に当たって勇気を失わないよう、警告した。このあとメルケル首相は、壁の犠牲者を追悼して壁の記念碑の前にローソクを捧げた。

夕方からはブランデンブルク門前に設けられた舞台で、壁崩壊30年を祝う大規模な記念のイベントが行われ、シュタインマイヤー連邦大統領やミュラー・ベルリン市長の挨拶のあと、旧東独の反体制運動家の体験談の紹介やドイツ内外の芸術家・音楽家が参加するショーが夜遅くまで繰り広げられた。クラシック音楽ではバレンボイム指揮、ベルリン・シュターツカペレにより、ベートーベンの交響曲「運命」が演奏されたほか、内外の人気バンド多数が参加した。

いつまでもベルリンは自由な街であって欲しいという願いを書いたベルリンのミュラー市長

ベルリン市の記念のイベントが観光客を中心に盛り上がりを見せる一方で、肝心のベルリン市民の反応はかなり複雑だ。テレビのインタビューなどを見ていても、特に東部ベルリン市民の反応には30年前の壁が解放され、東西の行き来が自由になった時の感激は今ではあまり感じられない。もちろん当時の喜びを強調する人たちもいるが、「当時の期待と希望が少なからず失望に変わった、だから壁の崩壊をことさら祝う気になれない、記念のイベントを訪れる気にもなれない」という人も結構いる。東部ドイツ市民に愛読されている雑誌「スーパー・イル」の最新号の調査では、旧東独市民の67%が西部市民に比べて差別されていると感じており、「そういうことを言っても西の人には理解されない」と感じているという。

一方、メルケル首相が、壁崩壊30周年の記念のスピーチで触れていたように、11月9日は壁崩壊の記念日であると同時にその51年前、ナチスドイツによるユダヤ人への組織的な迫害が始まった1938年の「水晶の夜」という負の歴史の日でもある。最近のドイツで反ユダヤ主義や外国人排斥の傾向が強まり、東部ドイツのハレではシナゴーグ襲撃事件まで起こった。こうした風潮に抗議する大掛かりな集会とデモも11月9日にベルリン市内で行われた。その一つは午前11時、州立オペラの隣の「ベーベル広場」で行われた「世界に開かれた、寛容なベルリン」という組織が主催した多数の市民団体が参加する抗議集会で、これには「おばあちゃんたちの抗議」というグループも参加した。もう一つのグループは、17時にユダヤ人犠牲者の追悼記念碑前に集まって抗議集会を開いた後、ベルリンのユダヤ人がアウシュビッツ強制収容所などに送られたヴェストハーフェン駅までデモ行進した。そのほか数箇所でも抗議集会やデモが行われた。

こうした喜び一辺倒ではない雰囲気が伝えられる中で、ドイツ人たちの幸福度に関する調査結果が発表された。これはドイチェポスト社が毎年行っている通称「幸福アトラス」と呼ばれているもので、今年の初夏に実施された調査の結果が壁崩壊の記念行事が始まった11月4日に発表された。その結果は意外にもドイツ人の幸福度は、これまでになく高いというものだった。10点までの評価で、ドイツ人の幸福度は平均して、7.14 点で、去年の7.05 点からわずかながら上がっており、これまでの最高となった。全体に西部ドイツの方が幸福度は高いが、統一後の不満が高いとみられる東部ドイツ5州 も、これまでになく高い平均7.0 点になったという。特にテューリンゲン州とザクセン州で、幸福度が上がっているという現象が見られた。ドイチェポスト社の依頼で調査に当たったフライブルク大学のベルント・ラッフェルヒューシェン教授は、今年幸福度がこれまでになく高かった原因について「失業率が低いという労働環境、それぞれの収入がここ数年来増えていること、それに、マスメディアの悲観的な報道に惑わされない市民の堅実さ」をあげていた。地域は16州の中に二つに分けられた州もあるため、全体で19地域に分けられたが、トップは西部の北にある小さな州、シュレスヴィッヒ=ホルシュタイン州の7.44点で、最低はベルリンを取り巻く州、東のブランデンブルク州の6.76点だった。首都ベルリンはというと、6.93点で、東部ドイツの平均7.0より低く、19地区中16位という低さだった。調査に当たった教授は、ベルリンでは今なお失業が多いためと見ているが、この幸福度の低さが壁崩壊30周年の記念日に対するベルリン市民の冷ややかな反応にも現れているのかもしれない。

 

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