基本法は共生のための前提
先日、長らく移民の子供たちの教育に携わってきた複数の教師や専門家と一同に会して話をする機会があった。話し始めてすぐに、ドイツにおけるこのところの難民をめぐる動向に話題が及んだ。
口火を切ったのは、ベルリンで宗教の授業を担当してきた元教員の女性だった。彼女は、ミュンヘンの市民が難民を歓迎する様子を見て、どれほど安堵したか、この気持ちは表現しがたいと語った。その場に居合わせた他の教師や専門家も、難民の受け入れを多くのドイツ人が支持していること、そして難民支援において市民社会が今回のように機能していることを、一様に大きな喜びをもって受け止めていた。
他方、「歓迎の文化(Willkommenskultur)」の盛り上がりの中に、一体どれほど自分たちと異なるものに対する繊細さがあるのだろうかと懸念を示す声も多く聞かれた。文化や宗教の異なる人々が共に暮らして行く上で、気をつけなければいけないことは、実際たくさんある。決して悪意から発せられたわけではない素朴な発言や行動が、誰かの心に土足で上がり込んで色々なことをめちゃくちゃにしてしまうことがある。思わぬことで、人々の間に不信の念が生まれ、抜き差しならない対立へと発展してしまうこともある。この日集まった面々は、そういう苦々しい経験を現場でたくさん繰り返しながら、試行錯誤してきた人たちだ。
彼らの談は続く。難民たちの多くは、ドイツに夢を抱きこそすれ、その実ドイツという国についてほとんど知らないままやって来ているように思う、と一人が発言すると、皆深く頷いた。難民がドイツの基本法の価値規範を正しく理解し、それを実践すること、これが共生していくための前提条件となる。そのために、難民の受け入れ施設は基本法の価値規範をいち早く難民に伝達する拠点となる必要があるという意見が続いた。
「基本法の価値規範」という言い回しは、移民、とりわけイスラーム圏出身の移民の社会への統合をめぐる議論において、近年頻出する言葉の一つだ。基本法が拠って立つ普遍的な政治価値(共和制や人権)をドイツ社会に住む全ての人々が共有すること、これをもって文化や宗教など背景の異なる人々が共に暮らす上での最低限のコンセンサスとする、というロジックで用いられる。1980年代末、日本でも有名な哲学者ユルゲン・ハーバーマスをはじめとしてリベラル派が好んで用いた「憲法愛国主義(Verfassungspatriotismus)」ともつながりの深い考え方だ。
私が参加した上述の話し合いだけでなく、このところの新聞や雑誌を読んでいると、この「基本法の価値規範」をめぐる話がたびたび出てくる。2015年9月27日付の「フランクフルター・アルゲマイネ」の難民のテーマを扱った記事には「私たちのところでは、基本法はコーランや聖書、その他のいかなる本よりも上位に位置する神聖なものだ」とある。この記事の中で、ミヒャエル・マルテンス記者が、目下ドイツへ大挙して押し寄せている難民たちが絶対に学ばなければならず、それができないのならばドイツを去るべきであるとまで主張するのは、特に以下のような点である。①ドイツでは、どのような信仰を持とうとも、あるいは何の信仰も持たずとも許されること、②男女は同等の権利を有すること、③父親や兄弟、夫が反対しようとも、女性は自らの人生を自由に歩むことができること、④同性愛者であることを公にしてよいこと、⑤宗教を風刺することが許されること。
なるほど、たしかにこれらは男女の同権や信教の自由、言論、表現の自由など、どれも基本法に定められた普遍主義的な政治の価値規範に基づいている。そして、どれもドイツに住むムスリムの移民たちが不十分にしか実践出来ていないとして社会から非難を受けている点である。
これだけたくさんの難民を受け入れるという事態の中で、同じ社会に住む人々が最低限共通した価値規範を持つ必要があるというロジックは理解できるし、賛成もするが、こういった類いの議論はよく気をつけていないと、いつの間にか排除のロジックにすりかわってしまうことが少なくない。大抵は「結局、彼らには、はなから同じ価値を共有することなんてできっこないのだ。彼らの出身国の歴史と現状を見てみれば分かる。われわれとは全く違う(野蛮な)メンタリティーなのだから」というような始まり方をして。
ドイツ社会の眼前に広がっている道は決して平坦ではない。時には、受け入れる側、受け入れられる側、互いにこんなはずではなかったと失望を繰り返すこともあるだろうと思う。骨がおれるばかりでこんな努力本当に意味があるのだろうかと、疲労感が心を占めてやりきれない時もあるだろうと思う。それでも、戦火におびえる多くの難民に門戸を開いたドイツの決断の正しさは、何度強調してもしすぎることはない。煉瓦を一つずつ積み重ねて家をつくっていくように、地道に人々が時間をかけて強固な信頼関係を築いていく事で、この困難な道を乗り切って行ってほしいと願う。