子どもたちが“科学への誠実さ”の証人になる - 福島原発事故後の人々を描いた本

あきこ / 2014年3月30日

Brandner Buch2月半ば、新著のプレゼンテーションへの招待メールが送られてきた。読んでみると、このサイトでも紹介した『Japan レポート3.11』の著者ユディット・ブランドナーさんからのもので、彼女の最新作“Zuhause in Fukushima”をウィーン市内の各所で発表するという案内だった。『我が家は福島に』とでも訳せるだろうか。ウィーンまでは行けないが、早速ネットで注文。2週間後の3月上旬に出版されたばかりの本が届いた。ワクワクしながら読み始めた。

2011年9月の日本の訪問では「これから日本はどうなっていくのだろうか」という問いから『Japan レポート3.11』が書かれた。今回、ブランドナーさんは2013年3月から3カ月間日本に滞在し、福島、松本、京都、東京の各地を訪れ、それぞれの場所でのインタビューを『我が家は福島に』としてまとめた。福島の原発事故によって今までの人生を狂わされてしまった人たちだけではなく、今までの生き方を主体的に変えた人たちの記録でもある。取材の場所とインタビューを受けた人たちについて、目次では以下のように記されている。

福島

有機農場経営者 佐藤幸子
作曲家・指揮者 嶋津武仁
シュタイナー幼稚園園長 門間貞子
有機農業者 近藤恵
医療外交官 鈴木良平

松本

橋本家の人々

京都

新しい人生 西山祐子
環境活動家 アイリーン・美緒子・スミス

東京

覆面ジャーナリスト 桐島瞬
画家・芸術家 中川直人
ジャーナリスト 岩上安身
写真家 市川勝弘

Sachiko SatoSadako Monma

 

 

 

 

前作にも登場する人たちが何人かいるので、2年という年月がその人たちの生活環境や考え方に与えた影響を知ることができて興味深い。2013年3月福島への列車の中で、隣の席に置き忘れられた岩上安身氏の著書『百人百話』を偶然見かけたブランドナーさんは、まるで自分と申し合わせたかのように同じテーマで本を書いた日本人がいることを知って、岩上氏とのインタビューを実現させた。もちろん、ブランドナーさんはウィーンでも岩上氏が運営するIWJ (Independent Web Journal) を見ているため、日本の大手メディア以外のフリージャーナリストの情報収集には事欠かないという。ここではそれぞれのインタビュー内容には立ち入らないが、「福島への旅」と題する序言とエピローグから、著者の許可を得て抄訳しておく。

序言から:

PM2.5は、砂嵐が通り過ぎたあともずっとメディアの目玉テーマになるだろう。輸入された微小粒子は、自国製の放射能を意識の中から追い出すための格好の材料のように見える。(・・・)福島の植物は放射性廃棄物と化してしまった。黒い袋には旅先の至る所で出会った。それは沈みゆくテクノロジーへの警告であった。

福島県ではいくつかの地域が高齢化したり、荒廃してしまったりするので、政府と自治体は人々を仮設住宅から故郷へ戻そうと躍起になっている。そこで使われるのが除染という魔法の言葉なのだ。

ジャパン・タイムズが福島の人口統計を発表した。いまだに約15万人の人々が行き場を失って(displaced)おり、そのうちの3分の1が福島県外に住んでいる。このdisplacedという言葉は第二次世界大戦後のヨーロッパを連想させる。強制収容所から解放された人たちだ。かつての自分の故郷に戻れない、あるいは戻らない、世界には彼らのための場所がないため、どこにも属さない人たちを思い起こさせる。福島からの疎開者たちも、統計には把握されていない「自由意思」で福島を去った人たちも、故郷を離れた旅の途上にいるのだ。

1984年建設の福島県立美術館は一見しただけで、原子力発電所経営会社が地元の繁栄のために膨大な援助をしたことがわかる。(・・・)数日前、「福島には届かない絵」という新聞記事を読んだ。2012年、福島県立美術館はずっと前から企画されていた「ベン・シャーン回顧展」を開催しようとした。しかし、アメリカの美術館が福島には貸し出しをしなかった。絵画作品が放射能汚染されるかもしれないという不安からだった。よりによってベン・シャーンの作品が! 彼は「ラッキー・ドラゴンV」と題する一連の作品を描き、これらの作品の一部は福島にも所蔵されているのだ。この作品群はビキニ諸島でのアメリカの水爆実験の犠牲者に捧げられたものである。日本の漁船「第五福竜丸」の船員たちは1954年3月1日キャッスル作戦「ブラヴォー」によって被ばくし、久保山愛吉さんはその影響で7か月以内に亡くなったのである。

少し長くなるが、エピローグからも印象的な文章を抜粋する:

ウィーンに戻り、2013年6月1日9時のオーストリア放送ラジオ第一のニュースを聞いたが、福島への旅の経験からどうしても信じることはできなかった。「福島原子力発電所の事故で大気中に放出された放射能は、住民の健康には直接的影響を全く与えなかった。将来にわたっても過酷事故で放出された放射能による健康被害は起きないだろう。これは国連の原子放射線の影響に関する科学委員会 (UNSCEAR) による福島の報告である。80ヶ国の様々な分野の科学者80人による報告である」というのがニュースの要旨だ。さらに原発事故は作業員にも住民にも死者をださなかった。そして将来も放射線が原因で死ぬ人は誰もいないだろう。その理由は、事故に襲われた地域からの住民の疎開が早目に行われたからだ、と続いた。

このニュースを受けて、私は早速報告の責任者であるドイツの物理学者ヴォルガング・ヴァイス氏とアポを取り付けた。(・・・)(UNSCEARの報告を認めた上で)ヴァイス氏は誰でもガンを患うリスクが根本的にある。放射線がこのリスクの上にさらに上乗せすることは少なく、自然放射線の影響と区別できないと言うのだ。(・・・)それではどうして福島の母親たちが子どもを守ろうとして、福島を離れて他の地域に住むのかという疑問が頭をもたげる。(・・・)ふくしま共同診療所の杉井吉彦医師が医学的見地から見れば、子どもたちはどこかに逃がさなければならないとはっきりと言ったではないか。

UNSCEARの報告ができた経緯と、その背後に何かが隠されている可能性を説明してくれる専門家を探すうちに、バイエルン州の放射線医師エドムント・レングフェルダー氏に会った。彼はチェルノブイリの影響を研究している。レングフェルダー医師は危険な戯言について語り、過去のガンの原因についての研究が跡形もなくUNSCEARを通り過ぎたのでしょうか、と修辞的に問う。(・・・)「福島以前と以後でガン罹患率が同じだという説は、証明できないだけではなく、学術的知見とも相いれないし、それだけではなく、はっきり言って悪意の戯言です」と言う。(・・・)

この報告が原発ロビーに加勢し、日本の原発再稼働を有利にし、「自由意思」で避難した人たちへの賠償を不利にするのではないかという質問に対し、ヴァイス氏はインタビューで激しく反対した。「この報告は政治的な報告ではありません。誰にも拘束されるものではないのです。科学に対する誠実さ以外に」。私は福島から松本に避難した橋本家の伽耶のことを思う。福島での生活が危険すぎると両親が判断したために、大好きな故郷、友達から離れた伽耶はこのUNSCEARの科学者に対して何と言うのだろう。伽耶の両親や「自由意思」で避難した人たちは過剰なパニック反応を起こしたのだろうか。まもなく立入禁止地区に指定される地域以外から疎開していた人々は、このUNSCEARの報告と除染効果を信じて戻ってくるのだろうか。報告は答えではなく、より多くの疑問を投げかけている。そして「科学に対する誠実さ」が本当にどうなのかは、数年後に福島が示すだろう。伽耶とその他すべての子どもたちがその証人なのだ。

ブランドナーさんの旅に同行し、写真撮影を受け持った写真家の市川勝弘さんは、この記事のために佐藤幸子さんと門間直子さんの写真を提供してくださった。市川さんは二人の女性から学ぶことが多いという。また、2011年11月にベルリンで講演された橋本さんにも連絡を取ったところ、ベルリンから日本に戻った直後、福島から松本に移住、2年近くの準備期間を経て今年の4月からは親の事情に左右されることなく子どもたちが環境のよい場所で生活できるように、松本に子ども寮を作る事業を始めるということだった。

原発事故から3年、それぞれの場所でそれぞれの生き方を通して、事故がもたらした傷、苦しみ、怒り、悲しみ、そしてかすかな希望の光が浮かび上がってくると同時に、原発事故によって一層明らかになった経済、産業優先の日本社会を伝える本である。

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