ベートーベンの「第九」の初演と杉原千畝

永井 潤子 / 2018年6月17日

最近ベルリンで日本に関係のある催し物が二つ続いた。このサイトの中心テーマであるエネルギー転換には関係無いが、日本人についていろいろ考えさせられたので、紹介することにする。

2018年6月1日は、日本で初めてベートーベンの交響曲第9番(第九)が徳島県・鳴門の坂東俘虜収容所のドイツ人捕虜達によって初演されてから100年の記念すべき日にあたったという。日本ではこのことが大きな出来事として祝われたようだが、珍しいことに、ここベルリンでも6月1日のお昼、在ドイツ日本大使館で記念式典と「日独友好コンサート」が行われた。八木毅大使の第九をきっかけにした日独100年の友好関係を強調する挨拶に続いてドイツ連邦軍参謀軍楽隊の隊長であるラインハルト・キアウカ中佐が、ベートーベンの音楽のすばらしさしさなどについて熱のこもったスピーチをした。コンサートでは、ドイツ連邦軍参謀軍楽隊と日本の陸上自衛隊中央音楽隊のブラスバンドが合同で、この日のメインテーマである第九の「歓喜の歌」を演奏した。ソロは、ソプラノの松永美智子陸士長が歌った。それぞれの楽団の演奏も別個に披露されたが、連邦軍側が、軍楽隊につきもののマーチなどは一曲もなく、モダンで楽しい曲ばかり、しかも高度な技術を必要とする曲を見事に演奏したのには驚かされた。日本側は、1964年のオリンピックマーチや日本人なら誰でも歌える小学唱歌「ふるさと」の懐かしいメロディーなどを演奏した。

日独両国の軍楽隊の第九の演奏を聴きながら私の気持ちは少し、複雑だった。「第九の初演100年を祝うのは結構なことだが、なぜ今自衛隊の音楽隊がドイツまで来て、華々しく宣伝するのか」と違和感を覚えたのである。「日独の友好関係を深めるのはいいことに違いないが、ドイツ連邦軍と自衛隊の協力というのはどういうことなのだろうか」と落ち着かない気持ちにもなった。自衛隊ブラスバンドの第九の演奏にアンビヴァレントな思いをしていた私は、べートーベンの第九がこの100年の間、日本の軍隊ではなく市民たちの間で、守られ、愛されてきたことに気づき、それを今更のように、すばらしいことだと感じた。ドイツ語の読めない多くの日本の市民が歌詞にカタカナを振って年末に歌い続けてきたのである。

日本の自衛隊のブラスバンドは、すでにデュッセルドルフ、ポツダムその他で演奏してきたが、ベルリンではベルリン市内を流れるシュプレー川をドイツ連邦海軍の船に乗って日の丸を掲げて演奏したり、ベルリン中央駅でドイツ連邦軍と合同演奏したりした。この日、地元の公共テレビRBBの夕方のニュースや夜遅くのドイツ公共第一テレビARDの番組でも報道された。

この記念式典には第一次世界大戦中中国の青島(チンタオ)で日本軍の捕虜となり、鳴門の坂東俘虜収容所に収容されていたドイツ兵士の子孫も招かれていて、100年前の第九の演奏にビオラ奏者として参加したヘルマン・ハーケ氏の子息、ブルーノ・ハーケ博士が息子さん一家を連れて参加していた。実は私は、もう20 年以上前のことになるが、ドイツの公共国際放送、ドイチェ・ヴェレの放送記者時代に鳴門の「ドイツ館」を訪れて取材したことがあり、当時「ここでベートーベンの第九が日本で初めて演奏された」と知って、強い印象を受けた。第一次世界大戦で日本軍の捕虜となり、日本に連れてこられたドイツ人捕虜は約5000人にのぼったが、そのうちの約1000人がこの坂東俘虜収容所に収容された。ここの捕虜たちが人権を尊重され、自主的な生活を営むことができたのは、ひとえに松江豊寿(とよひさ)所長(当時大佐)の人柄と方針によるもので、捕虜たちはここで野菜を作り、パンやチーズ、ハムも作り、音楽を演奏したり、芝居をしたりすることも許されていたという。

それというのも松江所長は、明治維新後の戊辰戦争で旧幕府側につき、薩摩藩や長州藩を中心とする新政府軍と戦って敗北した会津藩出身だったことが大きく影響していたという。新政府から「朝敵」や「賊軍」と見なされた会津藩の藩士は子供にいたるまでひどい扱いを受けたため、松江所長は敗者の悲しみを骨身にしみて知っていた。また、松江所長は、薩長の勢力の強い陸軍の中で会津藩出身として肩身がせまい思いもしていた。そういう松江所長だったからこそ、坂東俘虜収容所では捕虜たちを国際法に従って人道的に扱うよう尽力したといわれる。日本のすべての収容所が坂東のように捕虜に対して人道的な扱いをしたわけではない。坂東は特別なケースだったのだが、坂東に来たドイツ兵士たちが職業軍人ではなく、民間出身で、さまざまな職業に従事していた人たちだったことも影響したようだ。彼らは収容所の中で創意工夫し、新聞も作り、地元の日本人たちもコンサートや芝居に招くなどして交流した。

私は、2003年にドイツ北部、ブラウンシュヴァイクで行われた「第九の里帰り公演(鳴門の市民合唱団のドイツでの公演)」を取材したこともある。その時にすばらしい挨拶をしたハーケ博士に今回日本大使館で思いがけなく再会できたことは、喜ばしいことだった。ハーケ博士は「父は収容所から母に60通の手紙を出し、坂東での生活について報告していました。実は、オークションハウスで手に入れた他のドイツ兵士の日記を私はきょう八木大使に寄贈したところです」などと話してくれた。ハーケ博士の娘、スザンネ・ハーケさんが、初演の地、鳴門で地元の人たちと「歓喜の歌」を合唱するため、招かれて日本に行っているということも、この時知った。ハーケ博士に会って私は、2003年の第九の里帰り公演での博士の挨拶を思い出した。その中で博士は、第九が1918年6月1日に初演された翌日、この坂東収容所で発行されていた雑誌、「ディー・バラッケ」に掲載された文章を紹介したのだ。「ベートーベンの第9は極めてドイツ的であるにもかかわらず、全人類の財産である。この曲は先を見通すことができない時代に、明るい星のように人々の行く道を照らす。全ての芸術は来るべきものについての夢であり、夢の実現であり、人間の心の中に生まれる歴史なのである」。ハーケ博士は、ドイツ人捕虜の言葉を引用した後、「当時のドイツ人捕虜と日本人の交流の歴史から、現代の人々も教訓をくみ取るべきである」という言葉で、このスピーチを締めくくったのだった。

またしても、6月1日なのだが、この日、ドイツとオーストリアの90以上の映画館で1日だけ日本映画「杉原千畝」(ドイツ語のタイトル『Persona Non Grata(好ましくない人物)』(2015年)が上映された。映画配給会社のダニエル・オットー氏によると、今年はじめから1ヶ月に1回こういう形で日本、韓国などアジアの映画を取り上げることにしており、日本映画ではこれまでアニメ映画が中心だったという。

ASIA  NIGHT2018(https://www.kaze-online.de/asia-night/)。

今ではほとんどの日本人が杉浦千畝の名前と物語を知っていると思うが、実はこの杉原千畝について最初に取り上げた日本人ジャーナリストは私だったと自負している。もう何も記録が残っていないので放送日も定かではないが、1979年の終わりか1980年だったと思う。1969年から1981年までドイツ公共第2テレビZDFの東アジア特派員(東京・香港駐在)だったゲアハルト・ダンプマン氏が、1979年に『25mal Japan』(邦題『孤立する大国ニッポン』TBSブリタニカ、1981)という本を書いたが、その本は杉原千畝に捧げられていた。ダンプマン氏は、第二次世界大戦中にリトアニア・カウナス領事館の領事代理だった杉原千畝が本省の許可を得ずに、ナチに迫害され、外国に逃れようとするユダヤ人難民に日本通過のヴィザを発給し続けたことを、日本の外務省が戦後になって問題視し、戦後日本に戻って来た杉原氏を辞めさせたと怒りを込めて書いていた。この本を紹介した私もそういう視点で取り上げたが、放送した当時は何の反響もなかった。 その後フジテレビをはじめテレビ各局が番組を作ったようだが、一気に一般の日本人にも知られるようになったのは、1990年代にTBSのスター演出家、大山勝美氏が「命のビザ、6000人のユダヤ人を救った外交官」というテレビドラマを作ってからだったのではないだろうか。外務省が杉原千畝の名誉回復の意向を示したのは、1986年に氏が亡くなった後の1991年で、外交史料館に顕彰プレートが設けられ、河野洋平外相の名前で正式に名誉回復されたのは2000年になってからだった。

さて、たった1日だけドイツとオーストリアで一般公開されたこの映画、実は6月1日に先立って、日本大使館でベルリンのユダヤ人組織の関係者やホロコーストのサバイバーなどを招待して特別上映会が開かれた。この映画は2015年に作られているので、ご覧になった方も多いと思うが、監督はチェリン・グラック。私は知らなかったが、アメリカ人の父親と日系アメリカ人の母親の長男として和歌山で生まれた人だという。主役の杉原千畝役は唐沢寿明、夫人の幸子役は小雪など、日本の有名俳優や性格俳優多数が出演、ユダヤ人難民やリトアニア人にはポーランドの俳優多数が協力し、主としてポーランドで撮影されたということである。国際的な政治情勢を背景にした複雑な話の映画化は大変な作業だったに違いないし、お金もかかっただろうと思う。ドイツのある学者はこの映画を「ハリウッド的」と評したが、確かに良くも悪くもハリウッド的な映画ではあった。私がこの映画で最も関心があったのは、外務省が戦後になってから杉原千畝に辞職を迫ったことをどういう風に取り上げているかだった。だが、私は肩透かしを食った。全然取り上げられていなかったのだ。「ユダヤ人を救った日本人」に焦点が置かれた結果としてナチスドイツの悪行が強調されたが、この映画を見た一般のユダヤ人やドイツ人はどう思っただろうか。

第一次世界大戦で捕虜になったドイツ兵を人道的に扱った松江豊寿氏も第二次世界大戦中、ナチに迫害されたユダヤ人に外務省本省の指令をまたずに人道的見地から日本への通過ヴィザを発給し続けた杉原千畝氏も、誇るべき日本人であるにちがいないが、この二人の本当の偉さは、上司の意向や組織内の雰囲気、あるいは一般的な風潮に逆らってでも、一人の人間として、自分が本当に正しいと思うことを実行した点にあると思う。官邸の意向を忖度して公文書まで書き換えたりカットしたりする現在の高級官僚の実態が明らかになった今、特にそのことを感じた6月1日のベルリンの出来事だった。

 

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