ドイツ人とマスク、その一

永井 潤子 / 2020年7月26日

私たち日本人にとっては、マスクはなじみ深いものである。風邪をひいた時や花粉症に悩む時、マスクをすることに何の抵抗もない。だから新型コロナウイルスが流行り始めた時、誰もが自発的にマスクをつけたのではないだろうか。韓国など他のアジアの人たちも、マスクに対して似たような感覚を持っているようだ。ところが、一般のドイツ人はこれまでマスクをする習慣がなかったし、マスクに対する従来のイメージは、非常に悪いものであった。

ドイツでは、マスクは結核などの伝染病を連想させるもののようだ。そのため、これまではマスクをしている人には、重い伝染病にかかった人というイメージがつきまとってきた。もっとも、このようなイメージは欧米人に共通のもののようなのだが、そのために新型コロナウイルスが流行し始めた頃、ヨーロッパで白いマスクをしていたアジア人の中には、子どもたちから「コロナ!」などとはやしたてられた不愉快な経験をした人も少なくなかった。ドイツの全州で、コロナ危機対策のために公共交通機関や商店の中でマスクが義務付けられたのは、4月末だったが、それまでには紆余曲折があった。

ジュネーブに本部を置く世界保健機関(WHO)やドイツの代表的な医学者たちは当初、マスクの効用を認めていなかった。WHOは、3月末の記者会見で「一般的なマスク着用に何か効果があるという証拠はない」という見解を明らかにしていた。また、ドイツ政府に助言する立場にあって、当時毎日コロナ感染者数などについて記者会見していたベルリンのロベルト・コッホ研究所のローター・ヴィーラー所長も3月中旬まではマスク着用を勧めず、「もしあなたがマスクをつけて公の場に出るようなことがあっても、それはコロナから身を守れると思っているだけで、効果があるという証拠は何もありません」などと語っていた。その頃テレビで、疫病学者の一人が「アジアのように狭いところに大勢の人が暮らす場合には、マスクは必要かもしれないが、ドイツではその必要がない」などと語っていて、その、上から目線の喋り方に私は反発したこともあった。

2月末から早々と公共放送の北ドイツ放送で、新型コロナについて視聴者に解説し続けてきたベルリンのウイルス学の権威クリスチャン・ドロステン教授も最初のうちは、「普通の環境で一般人のマスク着用については、防止効果へのエヴィデンスはありません。今マスクは手に入りません。そしてマスクは医療機関で必要なものです。病院内で、看護師など直接患者との接触がある場合、患者が目の前で咳をした時には、大きな飛沫ブロックができますから、マスクで感染確率を減少できるかもしれません。現在の問題は、医療機関もマスクを入手することが困難になっているということです。そのような状況の時に、一般の人たちもマスクをしようとネットや薬局で買い始めたら、大変なことになります」などと語っていた。同教授はのちにはマスクの効用について別の考え方をするようになるのだが。

#maskeaufというキャンペーンでマスクの重要性を訴えたエッカート・フォン・ヒルシュハウゼン氏

そんななか、いち早くマスクの効用に気づき、#maskeauf(マスクをつけよう)というユーモラスな動画を作って、YouTubeでキャンペーンを始めたのは、人気テレビタレントでコメディアンのエッカート・フォン・ヒルシュハウゼン氏だ。同氏はもともと医師で、医学ジャーナリストとしても活躍しており、その基本的な考え方は次のようなものだ。「新型コロナウイルスに感染していながら症状が出ない人も、他の人に感染させる可能性はある。我々もそのウイルス感染者の一人かもしれない。もし我々全員がマスクをすれば、他の人に感染させることを防ぐことができる。しかし、医療用マスクは医療従事者のためのもの、自分たちは自分でマスクを作ろう。布がなければコーヒーや掃除機のフィルターを使ってでもマスクはできる」。こう、ユーモラスに訴えるこのキャンペーンは大きな反響を呼んだ。

当初医療用のマスク不足に慌てたドイツだったが、時間が経つにつれて、個人が自分のために思い思いのマスクを作るようになった。洋服の色に合わせたマスクを着用するおしゃれな人もいれば、自分の政治的なメッセージを込めたマスクを作る人も出てきた。また各州の首相は、例えばバイエルン州のマルクス・ゼーダー首相は、バイエリン州のシンボルカラーであるブルーと白の菱形模様のマスクを着用し、緑の党所属の唯一の州首相であるバーデン・ビュルテンベルク州のヴィンフリート・クレッチュマー首相は、緑のマスクをするなど、個性的なマスクが目立つようになった。ベルリンとブランデンブルク州の公共放送であるRBBは、赤と白の2種類の放送局独自のマスクを作り、希望者にプレゼントした。長いこと公の場でマスク姿を見せなかったメルケル首相が初めてマスクをして現れたのは、7月3日のことだった。ドイツは7月1日からEUの議長国になったのだが、メルケル首相のマスクには、ドイツのEU議長国のロゴであるメビウスの帯がプリントされていた。

7月3日連邦参議院にEU議長国のロゴ入りのマスク姿で登場したメルケル首相©️Bundesrat/ Steffen Kugler

そんなドイツだが、マスクの効用については未だに議論が絶えない。ドイツで最初にマスク着用を義務付けた町は、東部ドイツ、テューリンゲン州の大学都市イエナだった。イエナ市のトーマス・ニーチェ市長は3月末に、4月6日から公共交通機関を利用するときと商店に入るときにマスク着用を市民に義務付けた。そのときはその決定を馬鹿にする人もいたが、その効果は決定的だった。イエナ市ではその後感染者はほとんど増えなかったのに反し、同じ規模の近くの町、ゲラなどでは感染者が増え続けたのだ。こうした実例があるにもかかわらず、マスクの義務を解除するよう求める声は今もなおある。特に小売業会などは、マスクの義務がショッピングの楽しさを損なうとして、早期の解除を求めている。また感染者数がもともと少ない東部の州では、義務の早期解除を望んでいる州もあるが、これまでのところは維持されている。

しかし、疫病学専門の医師で社会民主党(SPD)の連邦議会議員であるカール・ラウターバッハ氏は、そうしたマスク義務解除の動きに強く警告する。SPDの医療スポークスマンである同氏は、早くからマスクの効用を認め、マスクをつけるよう人々に勧めていたが、ミュンヘンで発行されている全国新聞「南ドイツ新聞」とのインタビューで「マスクがウイルス感染の広がりを抑える上で大きな効果があることは、何年も前の幾つかの調査で明らかになっている。もしドイツで早い段階でマスク着用が義務付けられていたら、死者の数を減らすことができたのではないかと推測している」などと語っていた。

ドイツ公共第一テレビ(ARD)は7月10日のニュース番組で「マスクはウイルス感染の広がりを妨げる効果があるか」というテーマを取り上げていた。それによると、カナダのマクマスター大学の保健リサーチ・メソッド科の責任者であるホルガー・シューネマン教授(ドイツ出身)を中心とする国際的なチームは、今年5月WHOの依頼で、SARS (重症急性呼吸器症候群)、MERS (中東呼吸器症候群)、Covid-19(新型コロナウイルス感染症)におけるマスクの効果に関する29の研究をチェックしたところ、マスクの驚くべき効果が確認されたという。研究チームはその結果を6月初め学術雑誌「ランセット」に発表したが、シューネマン教授は、「これらの研究結果を調査したところ、我々はマスク着用がウイルスの感染を80%防ぐ効果があるという結論に達した」と語っていた。この調査結果が発表された数日後、WHOはマスクの効用に対する見解を改めた。「もし世界的にマスクの着用が早い段階で義務付けられていたら、死者数を大幅に削減することができたかもしれない」とシューネマン教授は見る。

ベルリン・フンボルト大学の疫学教授ディルク・ブロックマン教授は、「このシューネマン教授らの調査結果は、説得力のあるものであり、早い段階でマスク着用が導入されていたら新型コロナウイルスの感染拡大を少なくとも50%減らすことができたかもしれない。新型コロナウイルス感染症の特徴として、感染者の多くが症状が出る前に、他人に感染させていることがわかってきた。ドイツ肺炎学会はそのため、布製の簡単なマスクでも、感染者が他人に感染させることを防ぐ効果があることは証明されているし、また、自らの感染を防ぐ効果もおそらくあるだろうという見解を発表した」と語っている。

前述のラウターバッハ連邦議会議員は、ロベルト・コッホ研究所が、マスクの効用を認めたにもかかわらず未だに、「マスクは自らの感染予防には効果がない」と付け加えていることを批判し、「簡単なマスクでさえ空気中のエアゾールの多くをストップする効果があること」を認めるよう求めている。

ちなみに東部ドイツのエアフルト大学とロベルト・コッホ研究所が共同で7月10日に発表したアンケート調査によると、マスク着用義務の維持に賛成の人は75%で、反対の人は18%という結果になっている。

新型コロナウイルスについてはまだわからないことがいろいろあるが、マスクをする文化を持っていた日本人を含むアジア人は、ラッキーだったのかもしれないという気がしてくる。

10 Responses to ドイツ人とマスク、その一

  1. みづ says:

    ドイツで、マスクにそんな悪いイメージがあるとは知らなかったので、
    今回のコロナ禍で、マスクを嫌うドイツ人が多いことを知り、
    驚きました。
    「私はマスクをしたくない。自由でいたいんだ」みたいな
    反政府デモを見て、「めんどくさいな。。マスクくらい
    しとけばいいじゃん」と思ってしまいましたが。。

    「欧米では口元で喜怒哀楽を表すが、日本人は目を重視する」
    という説があり、そのせいで口元を覆うものを欧州の人は嫌う…
    という話を聞いたことがありますが、それもあるのでしょうかねえ?

    確かに、日本には「サングラス=怖い人」というイメージが
    ちょっとありますし、日本製アニメは目がやたらに大きいですね。

    • 永井 潤子 says:

      コメントをありがとうございました。ドイツ人はなぜマスクがこんなにも嫌いなのか、原稿には書くのを忘れましたが、旧東ドイツ出身の女性が、マスク着用を強いられると、言論の自由がなかった時代を思い出すと話していたのを思い出しました。彼女にとっては、マスクは独裁者が市民の自由な発言を封じるシンボルに見えるようです。それにしても、8月1日の土曜日、コロナ危機による連邦政府や各州政府の規制に抗議するためにドイツ全土からベルリンに集まってきた2万人とも言われる人たちが、距離を置くこともマスクをつけることも拒否して、ベルリンの中心街でデモをし、必死でコロナと闘う政治家やウイルス学者を非難し、警官に負傷者が出たというニュースに私はショックを受けました。デモ参加者の中には極右やネオナチのグループも含まれていたようです。言論の自由とデモをする権利は守られなければならないにしても、自分たちがマスクをしないことによって、他の人たちを危険に晒すのは、立派な犯罪ではないかと私には思えます。

  2. 弘美 says:

    Hiromi です
    文化の違いでしょうが、他者を思いやることが欠落しちゃったのかな
    余裕が無くなっているのでしょうか
    日本人には普通だけどマスクは苦手な人もいますし、肌荒れしている人も多いし【息子もですが】

  3. 永井 潤子 says:

    弘美さま、コメント、ありがとうございました。他者を思いやることが欠如しちゃったのかなというご指摘、そういう面は元々あまりないのかもしれません。夏休みが終わった後、学校でマスク着用を義務付けるかどうかで、また議論が起こっています。

  4. 緑子 says:

    バイエルン州の田舎町に暮らしている者です。この頃ではスーパーでもマスクを買えるようになりました。どこのお店でも二種類おいてあり、使い捨て用の物は中国産、高温の洗濯で何度でも使える物はドイツ産、そして手縫いのファッション性も加わった感じの物などは普通の衣料店で売るようになりました。車のフロントミラーにマスクがブラ下がっているのも頻繁に見かけます。文句を言う人もいるようですが、全くマスクの存在などが話されなかった頃と比べると、マスクの地位は上がってるように思うこのごろです。

  5. 永井 潤子 says:

    緑子さま、マスクについてのご意見をありがとうございました。そうですね、確かにマスクのことなどが話題にものぼらなかったころに比べると、マスクはドイツ人の日常生活に欠かせなくなっていますね。でも商店から出たり、駅に着いたりした後すぐにマスクをはずす人が多いですが、そのはずしたマスクの扱い方が無頓着なのは心配になります。コロナウイルスがもし付いていたらどうするのだろうかと。最近鹿児島の友人から紬マスクをプレゼントされましたが、それと同時に携帯用マスク入れというのもいただいて、驚きました。そのマスク入れは鹿児島産竹炭を練り込んだ”抗菌”と”脱臭”効果がある高機能性繊維で作られていると効能書きにあります。さすが日本だと感心しました。

  6. 緑子 says:

    ご返事、頂きありがとうございます。日本ではマスク入れがあるとは、知りませんでした。ドイツではマスクの扱い方が無頓着とのご指摘。確かにその通りで、テーマとしては環境汚染、教育の違いになるかもしれませんが、至る所でマスクが落ちています、タバコの吸い殻や空き箱、吐き出したチューインガム、軽食の使い捨て食器類、ビンや空き缶類、等々。マスク投げ捨てについては、ドイツではマスコミなどで取り上げているでしょうか。

  7. 古賀昭良 says:

    お久しぶりです。マスク談義、興味深く閲覧いたしました。japanischマスクの話題は、貴姉には既に伝わっているものと思いますが、安倍総理大臣推奨のマスクは、大臣の施策として、国民ひとり一人に届くように配布されました。しかし、「不評」で未使用のまま状態で書く家庭に眠ったままでどうしようもない始末です。同じお金を使うのであれば、コロナ対応の検査充実にお金を使って欲しいものだ…と、国民からのブーイングが絶えません。昨今の日本の政治は奈落の底に入りつつあります。しっかりして欲しいものです。安倍内閣解散の声もかなり出ています。
    (PS)憶えておられますでしょうか。旧聞になりましたが、かつて奈良新聞社の会議室で「Deutsche Welleファンの集い」を開催した時のことが懐かしいですね。

  8. 永井 潤子 says:

    古賀昭良さま、懐かしい方からのコメント、とても嬉しく思いました。お元気で、何よりです。奈良新聞の女性の方と古賀さんたちが「ドイチェヴェレのファンの集い」を開いてくださって、一時帰国した私を招いてくださったこと、よく覚えています。もう30年から40年前のことですね。正確な年がいつだったか、私にはもうわからなくなりましたが。あのような形でファンの集まりを開いてくださったのは、後にも先にも奈良の方だけだったような気がします。女性のお名前は残念ながら失念しましたが、お元気でしょうか?まだコンタクトがおありでしたら、どうぞよろしくお伝えください。なお、きょうアップした記事に田島記者の名前が出てきますので、こちらもお読みいただけると嬉しいです。

  9. 古賀昭良 says:

    いやぁ~、早速、レスポンスが届くなんて嬉しい限りです。DWファンの仲間から、みどりこさんと僕の二人揃ってコメント欄にデビューするなんてラッキーでした。処で、ご紹介のありました「田島記者」の文面は、これから探します…。
    話は一変しますが、僕が卒業した「大阪外国語大学」は、国立大学編成の見直しにかかり、今は「大阪大学(外国語学部)」として統合されました。かつて、日本には国立大学としては、「東京外大と大阪外大」が競いあっていた時代があったことを振り返りますと、寂しい限りです。