チェルノブイリで始まった新しい歴史
30年前の4月26日、チェルノブイリ原子力発電所の4号炉が爆発した。世界各国でもこの日を記念して多くの報道がなされただろう。ドイツでも多くのメディアが特集を組んだ。
事故が起こった直後、ソ連政府から対策のために急きょモスクワから送られたヴァレリー・レガソフ氏に焦点を当てた報道、立入り禁止地区で今も生活を続ける老人たち、チェルノブイリ事故による汚染の恐怖と闘いながら生き続けるノルウェーのサーミ人たち、あるいはチェルノブイリがドイツの反原発運動に与えた影響を描いた報道などがあった。
その中で一番強烈に印象に残ったのは、ドイツとフランスの公共放送であるアルテ(ARTE)が放送した番組の中で、「問題は原発事故が起きるかどうかではなく、いつ起きるかだ」と語るサーミ人女性の言葉だった。サーミ人というのは、ノルウェー北部のいわゆるラップランド地方に住む先住民族で、少数民族である。彼らは伝統的にトナカイの飼育で生計を立てている。原発のない国であるノルウェーがチェルノブイリ事故で西ヨーロッパ諸国の中で最も大きな影響を受け、その中でも少数民族であるサーミ人の経済的基盤であるトナカイの飼育が大きな打撃を受けた。この報道を見るまで、私は全くこういうことを知らなかったが、東京から離れた福島の人々と同様に、オスローから遠く離れた少数先住民が放射能による苦しみを強いられていることに胸を打たれた。
モスクワから緊急対策のために派遣されたヴァレリー・レガソフ氏に関するドイツ第二公共テレビ(ZDF)の報道から知ったことは、彼がチェルノブイリ事故後の状況をウィーンの国際原子力機関(IAEA)で発表したが、収束活動に関わったリクヴィダトールなどのガン発生についての詳細な報告は西側の圧力で発表できなかったことである。原発を推進している西側諸国にとって、チェルノブイリのガン発生増加は、「不都合な真実」だったのである。
チェルノブイリ事故が起きた日が近づくと、様々な角度からの報道を通じて、改めて原発事故の恐ろしさだけではなく、原発の背後にある政治的圧力を思い知らされる。放射能は、事故が起きた瞬間から休むことなく人々の生活や心に影を落とす。サーミ人の女性は、「原発事故の代価は政府や社会ではなく、被害を受けた人々一人一人が払い続けなければならないのです」と言う。
日刊紙「ディー・ターゲスツァイトゥング、taz」と同じ出版社が出している季刊誌「zeozwei」には「気候、文化、頭脳のための雑誌」という副題が付けられている(因みにツェー・オー・ツヴァイというのは、二酸化炭素のドイツ語読みを文字にしたもので、この雑誌の名前の由来である)。今回、この雑誌もチェルノブイリ事故30年と関連して「抵抗はこんな風だった」というタイトルで、ドイツの反原発運動、抵抗運動の歴史を特集した。この特集はドイツの反原発運動を概観するための貴重な資料である。1968年、ヴュルガッセンの原子炉建設に対して、ドイツで最初の反原発の抗議の声が上がり、以後ヴィール、ブロクドルフをはじめ、ゴアレーベンの核廃棄物処理場建設反対運動が大きく、また激しくなっていく。そして、1986年のチェルノブイリ事故は市民の反原発の意識を強めるうえで、大きな役割を果たした。その市民運動の指導者(抵抗者)が、アルファベット順に手短な説明とともにリストアップされている。
なぜかこのリストには菅直人元首相も入っていて、「遅れてやってきた脱原発者。フクシマの事故当時首相を務め退陣。原発の反対者になる」と記されている。メルケル首相も「原発推進者であり反対者。最初、原発の運転期間を延長したが、脱原発を決定し、その結果ドイツのすべての政党を原発反対に変えた」として、このリストに加えられている。メルケル首相を原発反対派に入れることに違和感を覚えるドイツ人は多いかもしれないが、「フクシマは核エネルギーに対する私の態度を変えさせた」という同首相の連邦議会での簡潔な文章がドイツのエネルギー転換を確実なものにしたことは確かだ。
同誌の特集では、去年のノーベル文学賞を受賞したスヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチも取り上げている。「チェルノブイリは新しい歴史の始まりであるが、人間は知的にも感情的にもまだ古い時代に生きている」とアレクシエーヴィッチは言う。今までの戦争とは違って、見えない、聞こえない、臭わない放射能の恐怖が、新しい歴史を測る尺度になっていることに私たちはまだ気づいていないということだろうか。『チェルノブイリの祈り、未来の物語』で描かれる一人一人の苦悩が、私たちが生きている世界の今後を示す「未来の物語」になるのだろうか。もはや無くすことはできないとしても、放射能の恐怖を最小限に抑える世界を未来に残していくのか。
スリーマイル、チェルノブイリ、福島 - 世界はもう十分すぎる原発事故を見てきた。それでも原発は稼働し続けている。震度7の地震が起きた熊本からわずか120キロメートル近くにある川内原発さえも稼働している。放射能の汚染に身をさらす「未来の物語」か、それとも自然エネルギーによる、少しでも希望の持てる「未来の物語」を選ぶかという問いが私たちに投げかけられている。
「1993年、ドイツの原子力産業は『太陽、水、風は我々の電力需要のたかだか4%しかカバーできない』という連続広告で最後のおとぎ話の時間を終えた」とzeozwei誌は書いている。原子力産業、原子力ムラが描く「おとぎ話」に対抗する「未来の物語」を書き続ける必要がある。
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伝えていただいた、ラップランド地方に住む先住民族、サーミ人女性が語った「問題は原発事故が起きるかどうかではなく、いつ起きるかだ」という言葉は、啓示のようですね。偽りの文明に、「先進」国ほど毒されていないような先住民族の言うことには、そのような言葉が少なからずあるようです。
私が今年になって初めてユーチューブで見て知った、1990年頃ドイツで制作された『TODES ZONE』という原発事故シミュレーションビデオは、事故の恐ろしさをリアルに伝えようとして、驚きでした。シミュレーションされているのは、75年にドイツで運転開始されたビブリス原子力発電所でした。そのナレーションとアナウンスの最後に、サーミ人女性の言葉と重なるものがありました。
〈最悪の事故が起こる確率は、最新の調査によれば、33000年に一度であると予測されている。だが、これは事故発生まで33000年猶予があるという意味ではない。事故はいつでも起こり得る。さらに翌日、別の原子炉で起こることがないとも言い切れないのである。
1990年に開かれたドイツ内務省の研究会では、放射能が非常に早く放出された場合、災害対策としては、住民に警告を出すことと、正確な情報を提供すること以外に援助方法はないと結論付けられている。〉
本当にその通りだと思います。現在での「最新の調査」なら、おそらく33000年よりも、ずっと短いだろうと思えます。まして去年強引に再稼働された鹿児島の川内原発は、地震がまだ収まらない熊本県境から30キロほどしかありません。多くの停止要請や反対行動にも、止めようとせず、すぐにでも事故を起こす可能性があります。愚かとしか言いようがありません。
5月2日の東京新聞(日本の新聞では、原発問題を含めて、最も私たちの知る権利に応えようとしている新聞だと思います。関東圏内だけの部数は、60~70万部だと思います)に、ドイツの皆さんはご存じかと思いますが、シェーナウ電力会社から菅元首相に「脱原発勇敢賞」が贈られた、との記事がありました。理由として、福島の事故後に、脱原発と再生可能エネルギーの普及に努めているとし、役員のセバスティアン・スラーデク氏が「(菅元首相への授与は)日本の反原発運動への連帯の気持ちを示した」と語ったとありました。福島の佐藤弥右衛門さんに、シェーナウ電力会社から「環境賞」が贈られ、それがきっかけとなって、「ふくしま自然エネルギー基金」が設立されましたが、それに続いての、ありがたい出来事でした。
東京新聞の発行部数を補足訂正させていただきます。ウィキペディアによると、こうありました。〈中日新聞東京本社が発行する日刊一般新聞(一般紙)。関東地方もしくは東京都のブロック紙だが、同じ中日新聞社が発行する中日新聞・北陸中日新聞・日刊県民福井の関東版と見なすこともでき、全国紙のような面もあわせ持つ。販売部数(日本ABC協会調査・朝刊)は517,000部(2014年上半期)であるが、実際の紙面では中日新聞社発行各紙と主要記事を共有しており、それら全体の発行部数3,300,000部の一部分と見なすことが出来、全国紙の日本経済新聞・産経新聞をも上回る。全国ニュースを主体とする紙面構成となっている。〉