寒いベルリンでの脱原発デモ
3月9日の土曜日、東京で行われた「さようなら原発1000万人アクション」デモに1万5000人が参加したというが、この日、ドイツ各地でも脱原発デモが行われ、延べ3万人が参加した。ここベルリンのブランデンブルク門前では、東京のデモに呼応して「サヨナラ・ニュークス・ベルリン」(さよなら原子力ベルリン)の集会とデモが行われた。また、東日本大震災2周年にあたった11日には、「アンティ・アトム・ベルリン」主催の反原発デモが行なわれ、ベルリンの日本大使館前での抗議集会には、北ドイツ-ニーダーザクセン州の農民もトラクターで参加、原発事故の被害を受けた日本の農民への連帯の気持ちを表明した。
かつてはベルリンの壁の象徴だったブランデンブルク門、今はドイツ統一のシンボルとして観光客の人気のスポットとなっている。このブランデンブルク門前に3月9日のお昼ごろ、日本人を中心にドイツ人なども含めて170−180人ほどの人が集まった。この日の気温は氷点下3−4度程度。風が強いので、余計寒く感じた。この日の脱原発デモと集会はベルリン在住の若い日本人たちが中心になって企画したというので、どういう展開になるのか興味津々、子供連れのお母さんたちが気軽に参加できるようにしたいということだったが、寒さのためか、子供連れのお母さんたちの姿はそう多くはなかった。私たちベルリン在住のどちらかというと“年配“の女性たちの仲間は、ゼッケンに「サヨナラ原発!」「福島の子どもたちを守れ!」など思い思いの脱原発の言葉を書き付け、プラカードや横断幕を持って参加した。
突然寒空にプオー、プオーという低いヘンな音が鳴り響いた。リョー・ヒューマンエレクトロ・フジモトさんの演奏?で、それが集会の始まりの合図だった。私は知らなかったが、フジモト氏はヒューマンビートボックスという新しい音楽の分野で有名な人だという。体から出す音だけで音楽をつくるのだそうだ。デモの主催者代表の塚本晶子さんの司会で、福島第一原発から40キロ離れたところで理髪店を経営していて事故後ベルリンに移住してきた香川智之さん、ドイツ放射線防護協会の役員で専門誌、「放射線テレックス(Stralentelex)」 の発行人であるトーマス・デアゼーさんのスピーチが続く。香川さんは事故直後、どこからも放射線についての正確な情報が得られなかったため、地元の人たちが放射能汚染のひどい地域に避難し、被ばくしてしまったと訴えた。デアゼーさんは去年秋に日本を訪れ、被災地でドイツから持参した検定済みの測定器を使って放射線を測定したところ、ほとんどの場所で公式の測定値よりも高い数値が出たことを報告した。日本では当初アメリカ製放射線測定器を設置したところ高い数値が出たので、低い数値の出る日本製測定器に替えられたいきさつなども明らかにした。主催者からは震災2年目の被災者、被曝者たちの現状報告が日本語とドイツ語で行われた。
スピーチを聞くのに疲れる頃には歌やパフォーマンスが披露された。なかでも特に印象に残ったのは自称、“身体詩人“のカズマ・グレン・モトムラさんの寸劇とダンスだった。白衣を着たモトムラさんが、“原子力ムラ“の代表者に後ろで糸をひかれながら、今なお「原発はクリーンなエネルギーです」「内部被曝の影響はありません」などと主張する寸劇は、その反対の現実を浮かび上がらせる。
「日本人は過去の経験から教訓を学び取る能力があるかどうか」を問いかけたのは、ベルリン自由大学で長年教鞭をとってこられた福澤啓臣博士だ。寒さが堪え難くなったため、私はスピーチの内容をきちんと覚えていないのだが、「あれだけ過酷な福島原発の事故を起こした日本人が、去年12月の総選挙で長年原発を推進してきた自由民主党を圧勝させたため、日本人は過去から学ぶ能力がないのではないかという議論が外国人の間で起こった」という話をされた後、福澤氏は「それでも日本人は過去から学ぶ能力があると自分は信じる」という結論を述べられていたようだった。私もそう信じたいが、日本国内のその後の動きを見ていると絶望的な気持ちになることがある。
集会の後はポツダム広場までデモ行進、先頭に立ってシュプレヒコールをリードするのは、ベルリン自由大学で日本学を勉強する女子学生、イザベル・ピヒラーさんだ。このデモと集会を企画したのが若い日本人だけではないことを私は知った。ポツダム広場ではライプチヒ大学東アジア研究所の小林敏明教授の音頭で「原発反対!」「ふるさとを返せ!」「子供を守れ!」と声を限りに繰り返し叫んで、心にたまる思いを吐き出した。小林教授の友人の哲学者、ヴィルヘルム・シュミート教授の言葉に勇気づけられて、デモは散会した。シュミート教授は「きょうのデモで思い出したのは、40年前の自分たちの脱原発のデモだった。そのときもきょうと同じように参加者は少なかったが、ドイツでの40年後のデモの成果は明らかである。日本の40年後に期待する」という趣旨の挨拶をなさったのだ。
この日の集会とデモは、若い人たちの企画に”大人たち”が協力して、内容のあるいいものになったと思った。寒すぎたのはどうしようもなかったが……。デモ参加者たちはブランデンブルク門前で脱原発の署名集めもしたが、世界各国の人たちから短時間に予想外に沢山の署名が集まった。なかには「是非署名させて!」と自分の方から言う人もいて、関心の深さをうかがわせた。
東日本大震災2周年の3月11日、ベルリンは雪が降っていた。この日のデモと集会は、「アンティ・アトム・ベルリン」の主催で行われた。このグループに属する人たちは、3月9日に行なわれた北ドイツ・グローンデ原発を人間の鎖で取り囲むデモに参加したため、同日の在ベルリン日本人主催のデモには参加できなかったのだった。グローンデ原発は「ハーメルンの笛吹き男」で知られるハーメルンの近くにあるが、この原発を人間の鎖で取り囲むデモには2万人以上が参加、このデモは原発事故が起こったと想定した防災訓練も兼ねていたという。この人間の鎖のデモに参加した「アンティ・アトム・ベルリン」主催の11日のベルリンのデモには、そのお返しという形で、グローンデ原発近辺の農民たちもトラクター数台で参加した。グローンデはベルリンの西約300キロ、降りしきる雪のなかを20時間かけて走ってきたといい、抗議集会の開かれる日本大使館前には開始時間の1時間前に勢揃いした。トラクターでやってきたある男性は「暖房などないトラクターを夜通し運転するのは本当に大変だった」と話していた。
東日本大震災の犠牲者に対して黙祷を捧げた後、抗議集会は有機農家のウルフ・デットマンさんの司会で進行した。北ドイツの農家の女性がチェルノブイリの原発事故の後、自家産の農産物を廃棄しなければならなかった経験を痛恨の念をもって振り返り、ベラルーシの放射性廃棄物処理場のある町から来た女性は、ドイツを含む世界中の原発をなくさない限り、問題は解決しないと訴えた。このデモのためにわざわざ日本から来たという在日本歴40年のフランス人、ジャン=ポール・ルパップさんもドイツ語で挨拶、日本の現状を報告した。その間にはグローンデの人たちと一緒に来た若い日本人女性が美しい声で「さくらさくら」を歌った。
トラクターでやってきた北ドイツ・ゲッティンゲン近郊の年配の農民、ルードヴィヒ・パーペさんは「あした、地球が滅びるとも、きょう、リンゴの木を植える」という宗教改革者マルティン・ルターの言葉を引用しながら、自然の恵みを受けて農産物をつくる農民の喜びに言及し、原発事故によってその喜びを奪われた福島の農民への同情と連帯の気持ちを表明した。彼は、東日本大震災2周年にあたって桜の木の苗を日本大使館前の公園に植えることを希望したが、それは許されなかったという。パーペさんは「福島原発事故2周年にあたり、日本大使館を通じて日本人すべてに呼びかけるドイツの農民たちからのアピール」を大使館の人に渡したが、当初二人が大使館の中に入っていいと言われていたのに、直前になって一人しか駄目だと言われたという。交渉して再び二人にしてもらい、友人のフランス人で日本語のできるルパップさんと中に入ったが、出てきた時には頬を真っ赤にし、しょんぼりとして「私は疲労困憊してしまった」とつぶやき、そのうちに泣き出してしまった。「原発事故の被害にあった日本の農民への連帯」を示すアピールを渡すのに精魂尽き果てたという感じだった。無力感もあったのではないだろうか。
デモ参加者たちは、ピンクの紙のサクラの花や折り鶴をいっぱいつけた高さ2メートルほどの木を用意した。その木の下の方には黄色に黒で放射能の危険を示すシンボルが描かれた缶も沢山付けられていた。日本人のデモ参加者たちはその木のそばで「もしもし亀よ亀さんよ」の替え歌を歌い、ドイツ人たちから拍手喝采を浴びた。歌詞のドイツ語訳が書かれたプラカードは「アンティ・アトム・ベルリン」を通じてグローンデの農民 たちにプレゼントされたという。
なお、デモを取材された写真家の方たちから数々のすばらしい写真の提供をいただいたことに感謝する。
最後に「もしもし亀よ亀さんよ」のメロディーで歌う替え歌「もしもし東電、原発よ」の歌詞(作詞者:ベルリン在住アーティスト、磯益子)を記しておく。
もしもし東電、原発よ
世界のうちでお前こそ
地球をこわすものはない
どうして命を守らぬか
もしもし原発推進派
安全神話嘘っぱち
活断層の島なれば
今すぐ原発やめるべき
ふるさと追われた人々の
責任補償抜きにして
子供たちを守らずに
どうして未来を築けるか
山も海も生き物も
太陽の熱を恵み受け
豊かな自然があればこそ
経済発展ほんものよ
グーテンターク♪ドイツのみどりの党の黄色い旗を、友だちから買ってもらいました。ドイツ語の出来る人で、まとめて買ってドイツから直送して貰ったそうです。私は、デモの時いつもこの旗をもっていきます。一生懸命に降って振って空に空に、、、ドイツに続けと祈りながら、どうか、日本もバカな事はやめて、脱原発が実現するようにとこの旗に託しています。
ベルリンでの脱原発デモの記事をお読みくださって、ありがとうございました。グローンデ原発の近くから雪の降る寒いなか、夜通し走って日本の農民への同情と連帯を示しにベルリンまできたドイツの農民たちには感動しました。ドイツの人たちの脱原発デモの様子を見ていると、悲惨な原発事故が起こったのは日本ではなく、ドイツだったのではないかという錯覚が起こりそうです。何万年も続くものがある放射能の影響を過小評価してはいけないと思います。
はじめまして 井上と申します。
文章の中に出てきているジャンポールルパップさんですが、古い知り合いでして
もし消息をご存じならと思いご連絡しました。
まだ大阪にお住まいかどうかはご存じでしょうか?
井上さま、
お返事大変遅くなってすみません。コメント、見逃しておりました。
ジャン・ポ=ル・ルパップさんにベルリンのでもでお会いしましたが、日本の住所はうかがいませんでした。
多分まだ大阪にお住まいだと思います。
井上さま、
お返事大変遅くなってすみません。コメント、見逃しておりました。
ジャン・ポ=ル・ルパップさんにベルリンのでもでお会いしましたが、日本の住所はうかがいませんでした。
多分まだ大阪にお住まいだと思います。
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