バウハウス発祥の地ワイマールに新美術館開館

ツェルディック 野尻紘子 / 2019年4月21日

20世紀の世界の建築やデザインに大きな影響を与えた総合芸術学校バウハウスが、1919年4月に開設されてから今年で100年になる。それを機に、バウハウス発祥の地であるドイツ中部のワイマールに、この4月、新しい「バウハウス美術館」が誕生した。この美術館は、ナチ時代の官庁の建物と広場の隣に建てられており、同市の歴史を、負の部分も含めて総括的に示そうという努力が見られる。

美術館のミース=ファン=デル=ローエの展示コーナー Andrew Alberts, ©️heike hanada laboratory of art and architecture 2019

 

バウハウスを開設したのは、後にアメリカに渡り、シカゴで「ニュー・バウハウス」としてバウハウスの精神を世界に広めたワルター・グロピウス(1883〜1969)だが、バウハウスにはその前身がある。19世紀の末、ワイマールは大公国ザクセン・ワイマール・アイゼナッハの首都で、大公ウイルヘルム・エルンスト(1876〜1923)は芸術愛好家として知られていた。大公は、当時ヨーロッパの芸術に最も詳しいドイツ人とされた美術収集家で文芸奨励者であったハリー・ケスラー伯爵(1868〜1937)と親交があった。このケスラー伯爵の勧めで、ベルギー人のアール・ヌーヴォー芸術家、ヘンリー・ファン=デ=ヴェルデ(1863〜1957)は、公国の美術工芸の活性化と近代化のためにワイマールに招かれる。

ファン=デ=ヴェルデ設計の校舎 ©️Bauhaus-Universität Weimar, Fotograf:Tobias Adam

ファン=デ=ヴェルデは1902年、同公国立の美術工芸学校でセミナーを開講、その後1908年には同校の校長になる。ファン=デ=ヴェルデのもとで、生徒たちは芸術的な教育の他に、構内に設けられた木工、機織り、金属、印刷、製本工房などで手工業の訓練も受ける。1904年から1911年にかけて、ファン=デ=ヴェルデの設計に基づいて建設されたこの美術工芸学校の近代的な校舎は、「総合芸術の頂点は建築である」という同氏の哲学を具現化している。

ファン=デ=ヴエルデはこの美術工芸学校の発展に大きく貢献するのだが、1914年に第一次世界大戦が始まると敵国人と見なされ、1917年にはドイツを去らなくてはならなくなる。しかし同氏は、ベルリンの建築家ワルター・グロピウスを後任としてワイマールに招聘することに成功する。当時の伝統的だった建築を好まず、それに逆らっていたグロピウスは1918年、新しいチャンスを与えられ、喜んでワイマールに来たようだ。

グロピウスは「建築や彫刻、絵画は、その根源である手工芸に戻って、未来の建造物を創造するべきである。未来の建造物は芸術性の高い作品でなければならない」と唱え、翌1919年、国立美術工芸学校を「ワイマール国立バウハウス」と改名し、同校の新たなスタートを切る。バウハウスが誕生したのだ。

バウハウスに滞在した芸術家の絵画や木工作品の展示

グロピウスは、建築を最終的な教育の目標に据えたが、同氏にとってバウハウスは異なるジャンル、つまり絵画、彫刻、工芸、写真、舞台装置などの芸術分野を新しく統合する知的な実験室であった。そしてそのために、この学校では職人の親方(マイスター)が手工業の訓練を指導する傍ら、芸術家が教鞭を執った。バウハウスは、研究と実験を通し、教科の境を超えた総合美術の場で、その結果、高層建築から卵型の茶濾器までの多様な作品が生まれた。

しかし第一次世界大戦直後の変化の時期に、先進的かつ実験的な授業を続けるバウハウスに対して、ワイマールの政治家や住民は次第に懐疑的になっていった。そしてグロピウスが、1920年春に起こったワイマール共和国に対する反革命運動の犠牲者のための斬新な慰霊碑を考案したことから、同氏は住民の強い反感を買うことになる。ワイマールはバウハウスにとってだんだん居心地の悪い町となる。それが理由で、バウハウスは1925年にデッサウに移転してしまうのだ。

バウハウス美術館の外観 Foto:Andrew Alberts ©️heike hanada laboratory of art and architecture 2019

今回新築なったワイマールのバウハウス美術館は、日本にも研究滞在したことのある女性建築家、ハイケ・ハナダさんの設計による。この四角い薄グレーの建物は、地上4階、地下1階、展示面積は約2000平米で、中は白壁だ。隣にあるナチ時代の建物に対抗することを意図して設計されたそうだが、窓の少ない、コンクリートの防空壕のようだという批判もある。展示品の数は約1000点に及び、絵画や操り人形、木工製品や台所のモデルなどがある。この内の絨毯や陶器など168点は、グロピウスがデッサウに移る前に梱包して、近郊のお城に保管させたものだという。これらの作品の明細目録は、第二次世界大戦後の1955年に一応作られたのだが、当時の東独政府はバウハウスに興味がなく、これらはドイツ統一後の1995年になって初めて公開されることになる。

ワイマールは文化都市とされ、過去にはドイツの代表的な詩人であるゲーテやシラーもこの地に招かれて活躍した。たが他方、バウハウスを追いやり、ナチ時代にはこの地域の行政区の中心地で、近郊にはブーヘンヴァルト強制収容所などもあった。「そのことを忘れずに戒めとする意味で、この建物の立地が決められました」とオープニングの記者会見で発言した美術館の施主であるワイマール・クラッシック財団のヘルムート・ゼーマン氏は語った。そして「ワイマールは今までとは異なった新しい町になります。クラシックの町というだけでなく、19世紀と20世紀の知性の凝縮した町です」と付け加えた。

なお、グロピウスは、1925年にバウハウスがデッサウに移った後も校長を務めるが、1928年にはスイス人のハネス・マイヤー(1889年〜1954年)が、1930年からはルードウィック・ミース=ファン=デア=ローエ(1886年〜1969年)が校長となる。その後バウハウスはデッサウからも追われ、ベルリンに移るが、1933年にナチによって閉鎖される。結果的に14年しか存在しなかったバウハウスだが、その精神は、米国に渡ったグロピウスやファン=デア=ローエによって広められ、世界中に知られるようになる。

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