変わりつつあるドイツの難民政策

ツェルディック 野尻紘子 / 2017年9月10日

ドイツのメルケル首相がベルリン在の新聞やテレビ記者を対象に毎年夏の終わりに行なう恒例の記者会見が、今年も8月29日にあった。 2年前の2015年に、押し寄せる難民の受け入れに関して「我々はやり遂げられます」と発言して有名になった記者会見だ。 その後、ドイツの難民問題はどうなっているのだろうか。メルケル首相の態度はどう変わっただろうか。順を追って見てみる。

2015年1年間にドイツに来た難民は約100万人に達した。特に夏以後は1日に数千人がドイツにたどり着いていた。彼らはシリアやイラクの内戦、アフガニスタンの騒乱を逃れて来た難民、アフリカなどの独裁国からの亡命者、より良い生活を求めてバルカン半島などから脱出して来た人たちだった。ドイツ人は当初、彼らを快く受け入れていた。しかし難民の数が日毎に増えるに従い、ドイツ人の間で次第に不安が増し、もうこれ以上の難民は受け入れられないという意見が定着していった。それが顕著になったのは、秋の終わり頃からだろうか、冬になってからだったかもしれない。

これほど大勢の難民がドイツを目指してやって来た理由はいくつかある。まず、ドイツには従来から政治的亡命者のために庇護権が用意されている。政治的な迫害を受ける人が享受できる権利だ。ドイツは、亡命者一人一人に亡命の理由を丁寧に聞き、その信憑性を丁寧に調べる。そしてその調査が続く間は、彼らに生活費を提供する。それは往往にして、彼らの祖国の正規雇用者が受け取る賃金よりずっと多い。 亡命の理由が正当だと認められた場合、彼らにはドイツ滞在の許可が出る。ドイツはまた、戦争犠牲者の保護のためのジュネーブ条約を堅守し、戦火を逃れてドイツにやって来た難民を戦地に送還することはしない。彼らにもドイツ滞在が許され、生活費が提供される。

2015年の夏以後、難民の数が 急増した最大の理由はシリアの内戦だったと見られる。あまりにも大勢のシリア人がトルコを経由してギリシャに渡り、そこからバルカン半島を北上してハンガリーに辿り着いた時、ハンガリー政府は欧州連合(EU)の決まりに従って彼らを登録することができず、また、彼らに十分な飲み物や食べ物、泊まる場所を与えることもできなかった。そこで彼らの一部は、徒歩でオーストリアやドイツの国境に行こうとハイウェーを歩き出したほどだった。

このことをニュースで知ったメルケル首相は、オーストリアのファイマン首相(当時)と電話で話し合い、シリア難民を救うために登録無しでドイツに入国させることを決めた。9月4日の晩のことだ。 9月5日、6日の週末にハンガリーからオーストリア経由で電車に乗ってドイツ南部のミュンヘンに到着した難民は、約2万人にも達している。そしてその後も、毎日千人単位でドイツに 押し寄せて来た難民はあとを絶たなかった。すぐにはチェックされないと知って、それまでは地中海を渡ってイタリア経由で欧州にやって来ていたチュニジア人やモロッコ人などの北アフリカ人も、その後はトルコに行き、 そこからバルカン半島経由でドイツに入国し、シリア人であるなどと偽ってドイツで庇護を申請し出した。

ドイツ住民の大勢が次第に、このままでは困る、これ以上の援助は出来ないと考え出していた。やって来た難民に衣食住を用意し、彼らを登録し、彼らにドイツ滞在の権利があるかどうかも調査しなくてはならない。しかも、ドイツに滞在が許された難民の大半は、将来ドイツに留まると予想されるから、彼らにドイツ語を教えたり彼らがドイツ社会に溶け込めるように援助したりしなくてはならない。大仕事だ。しかしメルケル首相は「我々はやり遂げられます」という同氏の8月末の記者会見の発言を繰り返すばかりで、むしろ「亡命者の庇護に上限はありません」とも言い続けた。上限を求める国民の声があったにもかかわらず、同氏は姿勢を崩さなかったのだ。また、難民問題は欧州全般の問題で、EUが協力して対処するべきだと発言していたが、難民を徹底的に受け入れない国も現れ、問題解決は非常な困難に陥った。

メルケル首相の態度が少し変わったのは2015年の大晦日・2016年の新年のケルン市の出来事だったかもしれない。例年のように新年を祝うために大勢の人たちが集まっていた同市の中央駅前広場で、北アフリア風の容貌をした若い男性たちが、そこに居た、あるいはそこを通り抜けようとした女性たちに性的嫌がらせをしたり、彼女らの携帯電話や財布を盗んだりしたのだ。捉えられた犯人の中にはドイツに庇護を申請していた”難民”も多く居た。この事件はドイツで大きな問題になった。

一方、同じく難民問題に直面していたファイマン・オーストリア首相は、難民が国内を通過することを嫌っていたバルカン半島の国々の首相と2016年2月にウィーンで会議を持った。難民がトルコから船で到着するギリシャと、そこから難民がバルカン半島を北上する時にまず通過するマケドニアとの間の国境を封鎖することを 決めたのだ。これで、 西ヨーロッパに来る難民の数は劇的に減った。

その後、メルケル首相はEUの承諾を得て、トルコ政府と交渉し、3月にトルコと協定を結んだ。内容は、トルコは、トルコを通過して欧州にやって来る難民、特にシリア人やアフガニスタン人が、難民斡旋業者に大金を支払い、業者が仕立てる危うげな船で不法にギリシャに渡らないようにはからう。その見返りにEUは2018年までにトルコに60億ユーロ(約7800億円)の大金を支払い、トルコはその資金で国内に滞在している200〜300万人のシリアからの難民の生活条件の向上をはかるというものだ。

この協定が来独する難民数の減少にどれほど影響しているかはよく分からない。ただ、その頃からドイツに来る難民は明らかに減っている。しかし昨年夏には難民の関わるテロ行為がヴュルツブルクとアンスバッハで発生、12月にはベルリンのクリスマス市場が狙われ、11人が死亡、55人が怪我を負い、難民問題は再び大きくクローズアップされるようになった。

今年に入ってからだろうか、いつの間にか、メルケル首相が「我々はやり遂げられます」を連発しないようになった。政府は、ドイツに滞在する権利のない人たち、つまり安全な国から来ているのに難民になりすましていたり、経済的目的が来独の理由だったりする人たちの祖国への返還に力を入れ出した。難民の家族呼び寄せの条件も厳しくしている。シェンゲン協定で撤廃が決まっていたEU域内の国境検査を、特別条項を適用して再度導入したりもしている。いつの間にか、「2015年のような状態は決して再び起こってはならない」が決まり文句になってきた。メルケル首相の近辺からもそう聞こえてくる。同氏が、トルコと結んだと同じような協定をリビアやチュニジアと結ぼうと考えていることも伝わってくる。

今回8月29日の記者会見の冒頭で、メルケル首相は会見の前日にパリで開かれた難民小会議について長く話した。その会議に招待したのはマクロン仏大統領で、集まったのは欧州からドイツ、イタリア、スペインの首相。それにアフリカからニジェールと チャド、リビアの首相が加わった。 バルカン半島経由の難民が減って以来、現在再び増えているのは、ブラック・アフリカから地中海を渡ってイタリアに来る難民だ。彼らは難民斡旋業者の用意したゴムボートなどで、トルコ − ギリシャ間に比べて、より長い距離を乗り越えなければならない。そこで命を落とす人の数が増えている。

小会議の目標は、地中海での死者と難民斡旋業者の数を減らすこと、亡命の原因解消について関係者たちが対話を交わすことなどのようだった。具体的には、本当の難民と経済難民を国連難民救済高等弁務官の基準に従って区別するホットスポットをアフリア大陸内に設けることが議題として上がっていた。またリビアやニジェールの難民の通過ルートとなっている地域に資金を提供して雇用を創出し、そこの住民が難民斡旋業を営むことを防ぐようにすることなども話し合われた。

この小会議の内容について、「会議参加者はEUの国境をアフリカに移し、難民問題を目に見えなくするつもりなのだろう」などという批判があちこちで上がっている。メルケル首相は、EU ・アフリカ間の話し合いが11月末に準備されているとも語った。

ドイツではこの9月24日に総選挙がある。難民政策のために昨年まで下がり続けていたメルケル首相の率いるキリスト教民主同盟の支持率 が盛り返している。同氏の支持率もまた上がっており、第4次メルケル政権が誕生することは確実と見られるようになった。

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