原爆投下の日の「平和コンサート」
ベルリンも今年の夏は猛暑が続いた。広島原爆忌の8月6日、暑い夏の日のさわやかな夕べ、ベルリン広島通りにある日本大使公邸で今年も「平和コンサート」が催された。2009年に始まったこの「平和コンサート」では、毎回ゲストの講演が注目されてきたが、5回目の今年の講演者は東西ドイツ統一に大きな役割を果たしたドイツの元外相、ハンス=ディートリッヒ・ゲンシャー氏(86歳)だった。長年「核のない世界」実現のために尽力してきた同氏は「核兵器廃絶に向けて今こそ真剣に努力するよう」国際社会に呼びかけ、特に原爆の被害を受けた唯一の国日本と核兵器を持たないことを宣言しているドイツの果たすべき役割を強調した。
日本大使公邸での「平和コンサート」は、広島・長崎の原爆犠牲者に対する黙祷で始まった。今年の講演者、ゲンシャー氏は1974年から1992年まで18年の長きにわたって、かつての西ドイツと統一後のドイツの外相を務めた外交のベテランだ。ドイツ政府代表、各国外交官、ベルリン在住日本人らを前にゲンシャー元外相は「広島・長崎に当時起こった原爆投下という、想像もつかない残酷な出来事は、日本だけではなく20世紀前半の全人類を震撼させた原体験だった」と述べた。同氏はまず去年講演した原爆被害者である田邊雅章氏の言葉を引用した上で、「衝撃的な事実と被爆者の苦しみを思うと言うべき言葉もない」と自らの感情を吐露し、「人類を原爆による死の恐怖から解放するためには全世界から核兵器をなくす以外に解決の道がない」との考えを明らかにした。
広島に原爆が投下された1945年8月6日当時、ドイツは敗戦後2ヶ月あまり、ゲンシャー氏自身は捕虜生活から解放され、故郷のドイツ東部のハレ大学に入学願書を出していた時で、最初は遠いアジアの原爆投下の意味を正しくは理解できなかったが、「大学の物理研究所の助手と知り合って彼から原爆の意味するところを知ったのだった」と珍しく個人的な体験も述べた。
ゲンシャー元外相は「その後原爆あるいは核兵器は国際的な安全保障の概念となり、東西両陣営の対立の時代には核抑止力が世界平和の維持に貢献してきたが、冷戦の終わりとともに核兵器のない世界を実現するという希望が生まれた」とし、その関連で2007年、アメリカのキッシンジャー元国務長官ら4人の政治家が「国家あるいはテロリストの核兵器使用の危険をなくすには、すべての核兵器を廃絶するしかない」と呼びかけた歴史的なアピール、それに続く2009年のドイツのシュミット元首相、フォン・ヴァイツゼッカー元大統領、ゲンシャー元外相らによる核廃絶の呼びかけにも触れた。これら米独両国の政治家たちは、東西両陣営の対立時代には核の抑止力を安全保障上の大原則と考えてきたが、冷戦終了後のグローバル化のなかで核拡散の危険に警鐘を鳴らしたのだ。
「グローバル化が進む現代では核による抑止力がどれだけ長く機能するか問う必要があり、テロリストを含む核拡散に対する答えは、核兵器のない世界のみだ。核兵器の使用を防ぐ唯一の道は核兵器のない世界を実現させることである」と強調したゲンシャー氏は、広島出身の日本の岸田外相が今年7月広島で発表した3本の柱からなる核軍縮への取り組みを、注目に価する具体的な提案であると評価した。ゲンシャー元外相はその延長線上で、「ドイツは非核保有国として、日本はさらに被爆国として、核兵器のない世界の代弁者としての正当性および責任がある」と述べ、今年9月5、6日の両日、ロシアのサンクト・ペテルブルクで開かれる主要20ヶ国首脳会議と来年2014 年4月12日から広島で開かれるNPDI(軍縮・不拡散イニシアティブ)の外相会合への期待を表明した。NPDIは民主党政権時代の日本と豪州の主導で2009年9月に立ち上げられた核軍縮・不拡散分野における地域横断的な有志国の集まりで、日豪の他ドイツ、ポーランド、オランダ、カナダ、メキシコ、チリ、トルコなど10ヶ国の非核兵器国が参加している。NPDIは核兵器の廃絶に向けた提案を行い、軍縮不拡散分野の国際社会の議論を主導し、近年存在感を高めてきている。
ゲンシャー元外相は、最後にユダヤ系ドイツ人で、最終的にアメリカに移住して哲学者となったハンス・ヨナスの著書「責任という原理」のなかで説かれている「不作為の責任」を引用し、「我々は核兵器のない世界を実現する倫理的な責任を広島・長崎の死者に対して負っている」という言葉で原爆忌の講演を結んだ。「核廃絶を含め、我々が負う責任は、我々の行為と不作為の将来への影響に注意を払うことだ」と。
広島原爆投下以後の国際的な核戦略の歴史を振り返ったゲンシャー元外相の講演はなかなか聞き応えがあり、我々自身の未来への責任を強調して講演が終わると、列席者の間から盛んな拍手が起こったが、私自身は原爆問題だけで原発問題にまったく触れなかったことに少々不満を感じた。原爆と原発はともに人類の生存と地球環境全体を脅かす危険なもので、根は同じだと見なさざるを得ないからである。この問題では同じ被爆都市、広島と長崎の市長の間でも意見が違うことを、その後の日本の新聞報道で知った。私はまた、民主党政権時代の日本政府が主導したNPDIを、自民党の安倍政権が同じような意欲を持って追求するかどうか、今後注視したいとも思った。
この後、本来の「平和コンサート」が始まり、参加者たちは、ベルリンコンツェルトハウス管弦楽団のコンサートマスター、日下紗矢子(くさか・さやこ)さんのヴァイオリン、クリスチーネ・ケスラーさんのチェンバロ、ハンス=ヴェルナー・アーペルさんのリュートという古楽器で、ヨハン=セバスティアン・バッハのソナタや同時代のハインリッヒ=イグナツ・ビーバーのユーモラスで驚くほどモダンな曲の演奏に聞き惚れた。コンサートの圧巻は、バッハの無伴奏、ヴァイオリンのための「シャコンヌ」で、表現力豊かな日下さんの演奏に私は感動した。