脱原発、ドイツの歩み 1)

永井 潤子 / 2011年8月15日

福島第1原発の複数炉の事故に世界でもっとも敏感に反応したのは、ドイツの市民とマスメディアと政府だったと言えよう。物理学の博士号を持つメルケル首相は悲惨な事故を目にして原発の安全性について矢継早の対策をとった後、脱原発の方針を固めた。段階的に原発を廃止して2022年までにすべての原発から撤退するという保守・リベラル連立政権の方針を、連邦議会が賛成多数で承認したのは福島原発の事故からわずか3ヶ月あまりというスピードぶりだった。ドイツの脱原発の決定は、長年にわたる反原発の市民運動、緑の党や社会民主党を中心とする脱原発の政治的運動抜きには考えることができない。そのプロセスについて日本のマスメディアであまり詳しく報道されなかったということなので、数回にわたってお伝えすることにする。

  1. 福島原発の事故に敏感に反応したドイツ市民、
  2. メルケル首相の素早いエネルギー政策転換
  3. 「30年戦争の終わり」、歴史的な連邦議会の決定
  4. 日独マスメディアの報道の相違、放射能に対する危機感の日独の温度差

1)福島原発の事故に敏感に反応したドイツ市民

もともと市民の間に反原発の意識の強いドイツでは、これまでも機会あるごとに原発に反対する大規模なデモが行なわれてきた。そうした背景もあって、遠い日本の東北の地震、津波、福島原発の事故という三重の災害が伝えられた翌日、3月12日には、早くも南西ドイツ、バーデン・ビュルテンベルク州で原発からの即時撤退を求めるデモが行なわれた。この日、全国から集まった参加者6万人が、州都シュトゥットガルトからネッカーヴェストハイムの原子力発電所まで45キロの間を人間の鎖でつないだ。同州の州議会選挙が3月27日に迫っていたため、デモ参加者は原発推進政策を進める保守・リベラルの連邦政府と州政府に抗議の意志を表明したのだった。

第二次メルケル政権は、社会民主党と緑の連立政権のシュレーダー政権が、約10年前にいったん決定した脱原発の方針を去年秋にくつがえしてしまったため、原発反対派の市民の怒りを買っていた。社会民主党との大連立ではなく、財界よりの自由民主党との連立政権をスタートさせたメルケル首相は、業界の圧力を受け入れ、1980年以前につくられた古い原発の運転期間を8年、比較的新しい原発の運転期間を14年、平均12年間延長することを国会の審議を経ずに決定した。原発反対派がこれに激しく反発いていたところへ福島原発の事故が伝えられたのだ。

福島原発の事故の凄まじさを目にして市民の間の政府の原子力政策への批判がさらに高まり、各地でさまざまなデモが繰り返された。原発事故直後のメルケル首相のすばやい対応にも関わらず、3月27日に行なわれたバーデン・ビュルテンベルク州とラインラント・プファルツ州の選挙では、メルケル首相が率いる保守陣営の票は伸び悩んだ。特に50年以上保守政党が政権を担当してきたバーデン・ビュルテンベル州で敗北を喫し、緑の党と社会民主党の連立政権の誕生を許したのは、メルケル首相にとって大きな痛手だった。この州議会選挙の後同州ではドイツで初めての緑の党の州首相が誕生したが、これは福島原発事故をきっかけに反原発の勢いが高まった結果だと見られている。