ワイマール共和国って何?
今年はワイマール共和国100周年がいろいろな意味で祝われている。しかし、ドイツの歴史に馴染みのない一般の日本人、特に若い人たちの中には、ワイマール共和国がどういうものか、はっきり知っている人は少ないのではないだろうか?最近ある若い日本人女性から「ワイマール共和国って、ワイマールが首都だったのですか?」と聞かれた。日本語のヴィキペディアに、ワイマール共和国の首都はワイマールとベルリンと書かれているのも見つけた。だが、ワイマールがドイツの首都だったことは1度もない。そこで、ドイツ最初の共和国がなぜ、ワイマール共和国と呼ばれるようになったかについて、説明しようと思う。
日本の百科事典や大きな辞書で、ワイマール共和国を引いてみると、「第一次世界大戦後の1918年の11月革命(ドイツ革命)を経て1919年1月に成立し、1933年1月のナチ党の政権掌握によって事実上消滅したドイツ最初の共和国の通称」といった説明が出てくる。これは正しい。しかし、第一次世界大戦と第二次世界大戦の間に14年間しか存在しなかったドイツ最初の共和国の首都はベルリンだった。それなのになぜワイマール共和国と呼ばれるようになったのかの記述はないものが多い。
第一次大戦末期のドイツでは1918年11月初め、キールの軍港での水兵の反乱に端を発した革命が発展し、11月9日、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世がオランダに亡命し、社会民主党の有力者、フィリップ・シャイデマンが、ベルリンの帝国議会の建物の窓から共和国の成立を宣言した。2日後の11月11日、ドイツ代表が休戦協定に調印し、第一次世界大戦は終結した。翌1919年1月19日、共和国最初の国民議会選挙が実施された。ワイマール共和国の呼称は、議会制民主主義に基づく初めての国会が、同年2月6日、テュービンゲン地方の小都市ワイマールで招集されたことに基づく。首都ベルリンは、政治的対立が激しく、共和制反対の保守派の勢力も強く、混乱していたからである。この国民議会では、1918 年11月9日以来首相の地位にあった社会民主党のフリードリッヒ・エーベルトが大統領に、フィリップ・シャイデマンが首相に選出された。8月には、当時世界で最も民主的だと言われたワイマール憲法が制定された。ワイマール憲法によってドイツ最初の共和国の基礎が作られたため、この共和国はワイマール共和国と呼ばれるようになったのだ。ただし、当時すぐにはワイマール共和国とは呼ばれず、1929年の共和国成立10周年にあたって、初めてワイマール共和国という呼び方が記録に現れたとする説もある。
ついでながら、ドイツでは、第一次世界大戦直後の1918年11月12日、社会民主党を中心とする臨時政府によって初めて女性参政権が認められ、1919年1月19日の選挙で初めて女性の国会議員37人が誕生した。そのため、去年から今年にかけて、女性参政権100年も祝われている。
今からでは想像しにくいかもしれないが、当時、ドイツという国は存亡の危機にさらされていた。歴史を少しさかのぼると、プロイセンの「鉄血宰相」ビスマルクによるドイツ最初の統一が行われたのは1871年のことで、プロイセンの王がドイツ帝国の皇帝となり、プロイセンの首都ベルリンがドイツ帝国の首都となった。しかし、第一次世界大戦直後の首都ベルリンでは、左右の対立のほか、左派内部での共産党支持者と社会民主党の深刻な対立、依然として強い帝政支持者の勢力など、政治的に非常に不安定な状況が続いていた。特に、ドイツ皇帝の退位や過酷なヴェルサイユ条約を受け入れたプロイセンに対する反発が、西部ラインラントやドイツ南部のバイエルンで強まっていた。ラインラントを中心に共和国を設立しようという動きや、バイエルンなどの南ドイツではプロイセン中心のドイツ国家から脱退して、オーストリアと合流することなどが真剣に考えられていたという。
『なぜワイマール? —どうしてこの町がドイツ最初の共和国発祥の地となったのか』という本を書いたハイコ・ホルステ氏によると、当時、最初の国民議会を開く候補地としては、マイン河畔のフランクフルト、南ドイツのニュルンベルク、東のアイゼナッハ、エアフルトなどが名乗りを上げていたが、ワイマールは名乗りを上げていなかったという。しかし、1919年1月14日、フリードリッヒ・エーベルトは、地理的にはプロイセンとバイエルンの中間にあるザクセン・ワイマール・アイゼナッハ大公国の、文豪ゲーテやシラーの町として知られるワイマールを強力に主張して選んだと言われる。ドイツ人の誰もが誇りに思うワイマールの町の持つ文化的イメージを利用したのは、賢明な政治的選択だったように思える。この国民議会でエーベルトは、ドイツの統一を維持するよう熱烈な演説をしたと伝えられる。その効果もあってか、共和国初期は「相対的安定期」だった。しかし、1929年の世界恐慌をきっかけにスーパーインフレと失業の増大、社会不安、そしてナチの台頭へとつながっていった。
ワイマール共和国は、のちに「共和主義者なき共和国」などと言われるようにもなったが、ワイマール憲法そのものに欠陥があったとする説もある。ワイマール憲法は、基本的人権や言論の自由などを認めた非常に民主的な憲法であったが、同時に48条で、国家が危機的状況に陥った時に大統領に国家緊急権という大権を認めていた。つまり国家の緊急事態に際して大統領に、基本的人権を全面的に、あるいは一部を停止することができると規定していた。社会民主党のエーベルト大統領が1925年に亡くなった後、2代目の大統領に就任した保守的な軍人、ヒンデンブルク元帥は、大統領大権によってヒトラーに組閣を命じ、その結果ナチ独裁への道が開かれた。しかし、ワイマール憲法の目指した民主的な理想は、第二次世界大戦後のドイツの憲法である連邦基本法に生かされており、ワイマール共和国100年に当たっては、その失敗から現代の我々も学ぶべきだと主張されている。
ワイマール共和国の初期は、新しい現代大衆文化の開花した時期でもあった。第一次世界大戦後、既成の価値観を破壊しようとするアヴァンギャルドや労働運動と結びついた左翼的な文化活動、ブレヒトの民衆演劇などが注目され、1920年代のベルリンは、パリ、ロンドンに代わる、現代文化の発信地になった。中でも映画や1922年に放送を開始したラジオを中心に、大衆文化が生まれた。20年代半ばから8時間労働制が導入されたことによって労働者たちに余暇が生まれ、余暇を楽しめるようになった。特に映画界は繁栄を極め、1920年代のベルリンは黄金の20年代と呼ばれる。経済が安定するとともにベルリンに次々にデパートが誕生したのもこの時代のことである。しかし、それはあくまでも都市型の消費文化で、農村地帯や保守層から「堕落した都市文化」という反発を招いた。こうした傾向がナチの「退廃文化」という発想につながっていく。デパートの経営者や映画界で活躍した人たち、あるいは他の文化の担い手たちにユダヤ人が多かったことも、関係しているかもしれない。
今年2019年はワイマール憲法とワイマール共和国の100周年であると同時に、現在のドイツ連邦共和国の憲法である連邦基本法発布(5月23日)70周年記念の年でもある。民主的な憲法を持つだけでは民主主義は守れない。旧西ドイツのブラント元首相が唱えた「戦う民主主義」が、今こそ必要だということを実感している。