ケルン事件 - ”アラブ系の若い男性”で一纏めにしていいのか

あや / 2016年2月7日

一月半ば、大学に少し用事があった私は、路面電車に乗って街へ出かけた。ふと、窓越しに外を見ると、前日に積もった雪が、太陽の光を受けてキラキラと輝いていて、とても綺麗だった。そのままぼんやりと窓の外の景色を見ていたら、難民宿泊施設の近くの停留所から10人くらいのアラブ系の若者たちが乗り込んで来た。

その時、路面電車は、まだがらがらだったので、彼らの内の何人かは空いている席に腰を下ろした。しばらくして、車内はだんだん混み始めてきた。もう空いている席はほとんどない。そこへ、新たに杖をついた老夫婦が乗り込んできた。その姿を目にするやいなや、席に座っていた先のアラブ系の若者たちが皆ほとんど同時に立ち上がって、この老夫婦に自分たちの席を勧めた。ちょっとびっくりしてしまうくらいの素早い対応だった。一人だけ、そのまま座っている若者がいたが、その若者も、立ち上がった隣の若者に合図されて、焦ったように立ち上がった。老夫婦は、彼らにありがとうと言って空いた席に腰をかけた。これで、若者たちが空けた席は、二つ埋まったが、それでもまだ空席が残っている。また座るかな、と思って見ていたが、彼らはもう座らなかった。そうこうするうちに、別の誰かがそこへ座った。

若者たちが老夫婦に席を譲る。微笑ましい日常の一シーン。でも、私がその日見かけた一シーンは、微笑ましいというだけのものではなかった。何か、肩身の狭さみたいなものを、深く感じさせる一シーンだった。家へ帰って、このことを家人に話したら、家人もやはり同じような光景を最近何度か見かけたという。

大晦日のケルン事件の後、アラブ系の若い男性たちに向けられる視線は、これまで以上に厳しいものになってきている。テレビをつけると、四六時中ケルン事件関連のニュースや討論番組をやっている。いくつか番組のタイトルを見てみる。

「ケルンで起こったホラーナイトのショック ― 法治国家の降伏?」
「テロ、暴力、不信 ― 私たちの価値規範に何が起こっているのか?」
「恐怖を抱く市民、重圧の中にある警察」

どれも、人々の不安がいかに深刻なものであるか、ということをよく物語っている。こうした番組で議論されるアラブ系の若い男性像というのは、実に単一的だ。彼らは、マッチョで家父長主義が強く、女性を蔑視し、抑圧する。受け入れ先のドイツにあって、自分の欲望をコントロールすることができずに、女性に性的いやがらせをはたらく。女性の敵。男女平等の価値規範を謳う民主主義国家をおびやかす危険な存在。そんな風に描写される。彼らの危険性は、イスラームによって説明される場合もあるし、出身国地域の社会文化の観点から説明されることもある。

ケルンで起こった事件は、たとえ背景にどんな事情があったとしても決して正当化することはできない恥ずべき犯罪行為だ。男女同権を勝ち取るためのドイツ人女性たちの長い闘いの歴史と苦労(それは今もまだ続いている)を思えば、なぜこれほどまでに、人々がこの事件に危機感を抱くのか、ということも、よく理解できる。しかし、それでも、犯罪に手を染めた一部の人たちをもって、アラブ系の若者たちを一纏めにして危険視する風潮には、やはり慎重になる必要があると思う。そもそも、アラブ系と一言で言っても、そのカテゴリーの中には様々な国籍を有する、様々な育ち方をした膨大な数の人たちがいる。ドイツで生まれ育ったアラブ系の人たちだって、もちろんそこへ含まれる。

「あまりにもすんなりとすべてを説明する論理なり理由なりには必ず落とし穴がある」(村上春樹、『スプートニクの恋人』)

とりわけ、難民問題が深刻化する現在の状況において、この一大集団について何かテーゼみたいなものを語ることは、途方もないことのように思われる。無理に試みれば、そこには必ず手落ちが生まれ、それによって不当に判断される人たちがでてきてしまう。政治的にそうしたテーゼが利用されることだってある。

アラブ系の若い男性像について考える時、私は少し前に聞いたムスリムの人たちの言葉を思い出す。

私が彼らと会ったのは、ちょうど去年の11月、パリで同時多発テロが起こった直後、調査先の宗教間対話に参加した時のことだ。彼らは、明らかに疲れた顔をしていた。対話のテーマは、もちろんテロについて。男性(イスラームの宗教の授業を学校で担当している教師)は語った。「僕は、テロの翌日、同僚に(そのことについて)色々聞かれるんじゃないか、とびくびくしながら学校へ行ったんだ」。

彼らは、どこかで事件が起こる度に、周りの人たちから意見を求められる。

「ISについてどう思う?」「どうしてあのようなテロ事件が起こったのか、君の考えを教えてくれないか?」「どうしてあんな暴力的なことができるんだ?」身近に「当事者」がいたら、直接色々と聞いてみたいという気持ちになってしまうのも分からなくはないが、こうした質問をしょっちゅうされる側は一体どんな気持ちになるだろう。私だったら、相手が全く悪意など持たずに聞いていたとしても、毎回踏み絵を踏まされているような暗澹とした気分になるはずだ。「『ぼくやその他の多くのムスリムは、テロを起こすような輩とは違う』と言って(質問する人たちに)説明するたびに、自分はこの社会に永遠に属することはできないのだと感じる」とその男性は言っていた。

また、ドイツで生まれ育った別の男性は、「一体全体、どうして彼ら(テロリスト)はあんなことをしてしまったんだ。自分たちの立場が、より一層厳しいものになるだけじゃないか。社会の不信や誤解を溶かしていくために、僕らが今までどれほど苦労してきたことか!少しずつ前に進んでいたのに。また初めからやりなおさなくちゃならない。初めから全部、説明していかなければいけないんだ」と語った。

事件が起こって痛手を受けるのは、必ずしも受け入れ社会側だけではない。社会の一部となれるようひたむきに努力を続ける人たちにとっても、それは十分すぎるほど大きな痛手であり、やるせないことなのだ。そういう人たちが、今、じわじわと追いつめられていっていることを、私たちは心に留めておく必要があるのではないか。

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