連邦議会で行われたナチ犠牲者のための追悼式典
しんと静まりかえったドイツ連邦議会の本会議場にテノールの歌声が響き渡った。ピアノとクラリネットが伴奏する哀愁を帯びた旋律のその曲は、ゲットーのどこかにいるはずの恋人を、探して連れてきて欲しいと、もうすぐ訪れる春に懇願するユダヤ人の男の思いを歌ったものだ。1月27日に行われた、連邦議会主催の「ナチ犠牲者のための追悼式典」でのことだった。
連邦議会の「ナチ犠牲者のための追悼式典」は、今では1月の恒例行事になっているが、その歴史は意外に浅い。第二次世界大戦が終わって半世紀以上が経ち、ナチ時代の記憶が薄れつつあった1996年、「想起に終わりがあってはならない」と当時のロマン•ヘルツォーク大統領(在任期間1994-1999) が、ナチの犠牲者を追悼する記念日を制定することを提案した。そして、ナチが作った最大の絶滅収容所で、戦後はナチによるユダヤ人迫害や暴力支配の象徴にもなっているアウシュヴィッツ強制収容所が1945年1月27日にソ連の陸軍である赤軍に解放されたことから、1月27日を記念日に選んだのだった。それ以来この日にはドイツの官庁などの建物では半旗が掲げられ、ドイツ各地にあるナチの加害の歴史を紹介する記念館や犠牲者を追悼する記念碑のある場所でも、様々な追悼行事が行われるようになった。
連邦議会の式典は、主催者である連邦議会のベアベル•バース議長の挨拶で始まった。昨年9月末に行われた連邦議会選挙で政権が交代し、10月に議長に選出されたばかりのバース氏 は、彼女にとって初めての式典での挨拶を、アウシュヴィッツではなくヴァンゼ−会議の話で始めた。ヴァンゼー会議とは 1942年1月20日、ベルリン南西部にあるヴァンゼーという湖の湖畔にある瀟洒な建物に、ナチ政権の高級官僚やナチ親衛隊の幹部15人が集まり開いた会議だ。その議題は「ユダヤ人問題の最終解決」、すなわちユダヤ人の大量殺害を実行するための詳細な計画を立て、それに関わる組織の役割を調整することだった。今年はヴァンゼー会議が開かれて80年目に当たるため、ドイツ 公共第二テレビ(ZDF) で会議を再現したドラマが放送されるなど、この会議のことは改めて注目されていた。
ヴァンゼー会議は、不正が正当化された国家がどんなものだったかを現しています。その国家では、犯罪が計画され、組織され、管理実行されました。その国家は殺人犯やそれに協力する人々によって構成されていました。ですから今日は、我々の前の世代のドイツ人が行ったことを恥じる日でもあるのです。加害者たちは一度も恥を感じたことがありませんでした。自分たちの行為に対して、法的責任を取った人もあまりにも少なすぎました。そしてあまりにも多くの人が、犠牲者を嘲笑するに等しいような罰しか受けませんでした。ヴァンゼー会議の出席者もそうでした。
私はこの箇所を聞いて、 ある強制収容所で看守を務めた101歳の男性と別の強制収容所で秘書だった96歳の女性がそれぞれ殺人幇助の罪で問われ、現在、裁判にかけられていることの意味を考えずにいられなかった 。過去の不正を放置せず裁くことは、 遅すぎたとはいえ犠牲者が 正義を取り戻すことにつながるだけでなく、今のドイツが真摯にナチ犯罪と向き合っていることの証でもある。二度と同じ過ちを犯さないようにと、ドイツは政治教育や歴史教育にも力を入れてきた。それにも関わらず、「反ユダヤ主義や 極右主義がドイツ社会の真ん中に潜んでいることを認めなければならない」と、バース議長は語った。移民だから、もしくはユダヤ人だからという理由だけで人の命が狙われたり奪われたりした事件が近年起きたことを指しているのだ。バース議長は、私たちはこうした極端な思想の持ち主に対して、 不寛容である勇気を持たなければならない、民主主義が有するあらゆる手段で対抗しなければならないと、訴えた。なぜなら、「民主主義は何をしなくても自然に保証されるのではなく、市民が日々実行していくことでのみ守られる」からだ。
バース議長の挨拶に続いて、来賓の一人で現在ニューヨークに住むインゲ•アウアーバッハーさん (87歳)が演説を行った。アウアーバッハーさんは1934年、ドイツ南西部のキッペンハイム村でユダヤ人の両親のもとに生まれた。「私はキッペンハイム出身の女の子です」と、少しおどけた調子で自己紹介したアウアーバッハーさんだが、演説の冒頭で、今の社会の問題を厳しい口調で指摘した。
私は75年前からニューヨークに住んでいます。でも恐怖と憎悪に満ちた暗い時代のことはよく覚えています。残念ながらこの癌は再発し、ユダヤ人憎悪が世界の多くの国で、そしてドイツでも、日常生活の中で見られるようになりました。この病をできるだけ早く治さなければなりません。
アウアーバッハーさんは4歳の時に反ユダヤ主義者による暴動、いわゆる「水晶の夜」で家にレンガを投げつけられるという体験をした。学童年齢の6歳になった時には、ユダヤ人が普通の学校に通うことは禁止されていたため、駅まで3キロの道のりを歩き、電車で遠くの街のユダヤ人学校に通学しなければならなかった。そして1942年の夏、7歳のアウアーバッハーさんは両親と共に、当時ナチ・ドイツの保護領にあったテレージエンシュタット強制収容所(現在はチェコ)に移送された。
ナチはこの収容所を「模範的な収容所」 に見せるために、運動場や遊び場を作ったり、収容者に劇の上演やコンサートを開催させたりした。しかし実態は、それとはかけ離れていた。まだ子供だったアウアーバッハーさんは空腹に苦しみ、食べることしか頭になく、 腐りかけたカブやジャガイモの皮など、まだ食べられそうな物を探して生ゴミを漁ったという。大切にしていた人形のために作ったダンボールのベッドの片隅で餓死したネズミを見つけた時は、ネズミも自分と同じように飢えの犠牲者だと思ったそうだ。
収容所でアウアーバッハーさん一家は、ベルリンから移送されてきたアブラハム一家と 、一つの板の寝床を一緒に使わなければならなかった。一家の娘、ルートは自分と同じように一人っ子で同い年だったため、二人はとても仲良くなり、自由の身になったら、自分はベルリンのルートを、ルートはキッペンハイムの自分を、 互いに訪ね合おうと約束したという。「愛するルート、私は今、あなたに会いにベルリンに来ました」と、演説台からルートに向かって呼びかけたアウアーバッハーさんの声は、涙声で震えた。なぜなら、ある日アブラハム一家は3人ともアウシュヴィッツに移送され、ガス室で殺されてしまったからだ 。テレージエンシュタット強制収容所には欧州各国から合計14万人の ユダヤ人が移送され、3万3000人がそこで死亡、8万8000人がアウシュヴィッツなど他の強制収容所に移送され、命を落とした。家族3人とも生き延びることができたのは奇跡だったと、アウアーバッハーさんは語った。
1945年5月8日、テレージエンシュタット収容所がソ連の赤軍に解放され、アウアーバッハーさん一家はいったんドイツ南部の街に移り住んだが、 1946年5月、アメリカに渡り、新しい生活を始めた。しかし収容所時代の栄養失調が原因で胸を患ったアウアーバッハーさんは、 計4年も入院生活を送らなければならなかった。彼女を救ったのは当時開発されたばかりの抗生物質ストレプトマインシンだった。収容所時代と入院生活の計8年間、学校に通えなかったが、猛勉強して大学では化学を学び、卒業後は医学研究のための実験などの仕事に携わったという。
アウアーバッハーさんは1986年に子供時代の回想記をアメリカで出版し、その本はドイツ語にも訳されている。今は子供や若者たちにナチ時代の体験を語ることを使命としていて、とりわけホロコーストで殺害された150万人の子供のことを忘れないで欲しいというのが彼女の願いだという。演説の終わったアウアーバッハーさんに、議員たちからスタンディングオベーションが送られた。バース議長ともう一人の来賓でクネセット(イスラエル議会)議長のミッキー•レヴィ氏と抱擁しあった後、その二人に支えられてアウアーバッハーさんは座席に戻った。
音楽の演奏の後、 イスラエル国を代表してレヴィ議長が演説を行った。彼は、連邦議会で演説することは特別な意味がある、なぜならナチ時代の帝国議会は1934年3月、いわゆる「全権委任法」を採択し、自ら立法権を内閣に手渡し、ナチの独裁政治を可能にしたからだと、歴史を振り返った。この言葉には、連邦議会は同じ事を繰り返してはいけないという警告の気持ちが込められていたはずだ。そして、600万のホロコーストの犠牲者を数字で理解するのではなく、600万の命と物語があったことを思い起こして欲しい、それらの物語には続きがなく、 消されてしまった と語った。
バース議長の話に呼応するように、レヴィ議長も演説でヴァンゼー会議に触れた。追悼式典の前日、会議の行われた立派な屋敷の前に立った時、言葉を失ったという。田園的な花壇や屋敷の後ろでキラキラ輝く湖面の美しさと、そこで話された内容の残虐さの対比があまりにも大きかったからだ。80年と7日という年月は、長い歴史の中では意味がないほど短く、ユダヤ人が負った傷はまだ癒されていない、いや、そもそもその傷は癒すことができないもので、今も多くの人が苦しんでいると、レヴィ氏は語った。しかし議長は、ユダヤ人が味わった苦難を語るだけでなく、イスエルとドイツは将来に向けて手を携えていこうと呼びかけた。
両国は尋常ならぬ旅を経て、和解と友好関係を深めるための道を歩んでいます。ドイツとイスラエルの間には、架け橋ができました。両国は共に民主主義の素晴らしさと意義を 理解しています。そして、民主主義を守るために協力して行くことの重要性をしっかり認識しています。
ホロコーストは人類史上最大の犯罪と言われている。しかし、かつての犠牲者たちの国イスラエルは、加害者の国ドイツに強い信頼を寄せていることがこの言葉から伺える。今もまだ戦争や植民地支配の加害責任と向き合うことを拒み、アジアの近隣諸国と真の友好関係を結ぶことができていない日本との違いを感じずにはいられなかった。
ところが、ドイツにおける反ユダヤ主義をなくすために、もっとドイツ連邦政府は指導力を発揮すべきだと要求する声もある。ニューヨークに本部がある世界ユダヤ人会議が昨年11月にドイツ人5000人を対象に行った調査によると、若者の3人に1人が、成人では5人に1人が反ユダヤ主義的考えを持っているという結果が出たのだ。同会議のロナルド•ローダー会長は、連邦政府によるコロナ対策をナチ時代のユダヤ人弾圧と同等視するなど、ナチ犯罪を矮小化する新たな動きが見られることを警戒していると、追悼記念日を前に、ZDFのインタビューで語った。
その一方で同じ頃 、意外な調査結果も発表された。1990年代後半から2010年代初頭までに生まれたいわゆるZ世代は、親の世代と比べて、ナチ時代への関心が高いというのだ(Z世代75%、親の世代66%)。この調査は、アロルゼン•アーカイブが、心理学調査を専門にするラインゴルト研究所に委託したものだ。アロルゼン•アーカイブとはホロコーストや強制労働など、ナチに迫害された1750万人の資料を保管する公的機関で、その資料はユネスコの世界記憶遺産にも登録されている。調査は16歳から25歳の若者と、その親の世代に当たる40歳から60歳の人、合わせて1100人以上を対象に、インタビューやディカッションなどによる定性調査とアンケートによる定量調査(昨年11月実施)を組み合わせて行われた。
調査によると、 服従することが義務付けられたナチ時代は自由で選択肢の多い今の社会とは対照的で、 ナチ時代と向き合うことは、若者にとってタブーの世界に触れるような刺激を意味するという。その際、若者は犠牲者の味わった不正を追体験しようとするだけでなく、加害者はなぜそんなことをしたのか?自分がナチ時代に生まれていたら、どう振る舞っただろう?という問題にも向き合うという。また、ナチの犯罪を今の社会における人種主義や差別の問題と関連づけて捉えること や、型にはまった道徳心や罪の意識を持たず、自由なアプローチで 史実を理解しようとすることがZ世代の特徴だという。調査を依頼したアロルゼン•アーカイブのフロリアンヌ•アズレ館長はこうした調査結果に対して、「若者たちがナチ時代に興味を持っているだけでなく、ナチ時代を想起する際に、ポピュリズムや独裁主義、不寛容な声が大きくなりつつある今の社会と結びつけて考えるのはいいことだ」と語っている。
どちらの調査結果が今のドイツ社会をより正確に反映しているのか判断しかねるが、加害の歴史とどう向き合うべきか、どのようにその歴史を伝えて行くべきか、そんな議論が今もドイツでは盛んに行われていることだけは確かなことだ。 連邦議会の追悼式典も毎年行われているが、単なる儀式ではなく、その時代の議論を反映していることも最後に付け加えておきたい。そして、過去の記事を読んでいただければ幸いだ。
参考記事:「ナチの犠牲者を追悼する日」ー連邦議会でのユダヤ人女性のスピーチ(2021年2月14日) / 心を揺さぶるホロコーストを生き延びた人の証言(2019年2月10) / 強制収容所を生き延びた女性、連邦議会で体験を語る(2016年2月14日)