チェルノブイリ事故直後のドイツをリアルタイムで伝えた本『ベルリンからの手紙』

みーこ / 2013年8月18日

1986年4月に旧ソ連で起こったチェルノブイリ原発事故は、ドイツにも放射能の雨を降らせ、反原発運動が盛り上がる機運を作った。実は、「みどりの1kWh」の執筆メンバーのうち4人が当時の西ドイツで、チェルノブイリ事故後の混乱を体験している。私自身は、当時はまだ子どもで、日本で暮らしていたので、その様子は想像するしかない。チェルノブイリ体験を持つ「先輩魔女」たちの話を聞いて、「もう少し詳しく当時のドイツの様子を知りたいな」と思っていたところ、『ベルリンからの手紙 〜放射能は国境を越えて〜』(山本知佳子・著 八月書館・刊 1989年)という本を見付けた。

この本は、チェルノブイリ事故当時、西ベルリンに住んでいた著者が、現地から日本に向けて書いた手紙をまとめたものだ。文章にはすべて日付がついていて、1986年5月5日から1989年10月19日までのレポートになっている。特に、事故直後の1986年5月は、1週間に2〜3回ほどと、かなりの頻度で書かれている。著者は1959年生まれ。事故当時は26歳か27歳だったはずだ。

本には、新聞や市民団体が発表した大気中や食物の放射線量の数値、政府や政治家のコメント、反原発デモの動きなどが記されている。しかし、そういったおおやけの発表や出来事よりも、それらを見聞きした著者が何を感じ、周りの人と何を語ったかという心の動きが私には興味深かった。福島の事故をドイツから見守っている自分にとって印象的だった部分をいくつか挙げておきたい。

まず、放射能は人々を分断し消耗させるということ。著者自身は放射能にはかなり敏感で、極力避ける生活をしていたようだ。また、新聞やテレビや市民団体のニュースレターなどを細かくチェックし、解読しようとしていた。しかし、放射能への反応は人によってさまざまで、著者に「放射能なんて気にしない」「もう今さら騒いだって仕方ない」「不安を煽るな」という人もいて、著者はそのことで傷つき、疲れ切ってしまったという。また、「もっと汚染が激しい地域の人や、先進国が拒否した汚染食品を輸入するはめになっている発展途上国の人のことを思うと、自分は身勝手なのではないか……」という罪悪感に悩まされたとのことだ。こういった分断や消耗は、福島の事故以降、日本でも起きていることだろう。

西ドイツ政府が「放射能汚染は大したことない」「あれはソ連だから起きた事故で、我が国では大丈夫」という態度をとったということも、この本で再確認できた。これは日本でもおなじみの態度だ。それから25年の時を経て、福島の事故を踏まえ、ドイツ政府は脱原発へ方針転換したが、日本政府はいまだに「福島の事故を教訓に、もっと安全性を高めれば大丈夫」と言って、原発を他国に売り歩いている。

「ヘッセン州政府だけが放射能に対して独自の厳しい制限値を設けたが、突出した動きを嫌う連邦政府は、それを押さえ込むため新しい法律を作った」という部分も印象的だった。ドイツは日本よりも地方分権的な社会で、州政府の力は強い。このくだりを読んで「政治家を選ぶというのは自分の生活や健康に直結する大切なことなのだなあ」と改めて感じた。なお、1986年当時、ヘッセン州(中心都市はフランクフルト)の環境大臣を務めていたのは、学生運動上がりの政治家として知られる緑の党のヨシュカ・フィッシャーである。大臣の就任式にスニーカーで現れ、強烈な印象を残した人物だ。その後、連邦議会議員になり、1998〜2005年には外務大臣を務めた。

「チェルノブイリ事故直後の5月初めに早くも大きなデモが次々と起こった」「中高生が授業をボイコットし原発反対デモをおこなった」「市民が作った放射能測定所が各地で値を発表している」というくだりには、「さすが市民運動が強いドイツだな」という感想を持った。しかし、再処理工場予定地であるドイツ南部のヴァッカースドルフでは、デモも激しかったが弾圧も激しかったそうで、警察はヘリコプターから催涙ガスをまいたり放水車を使ったりしたらしい。この再処理工場計画は、1989年に断念された。

本の中に、1986年7月15日の毎日新聞の記事が引用されており、へえと思った。「西ベルリン 土から高濃度放射能 セシウム137など 京大助手が検出」という見出しだが、この「京大助手」というのは、福島の事故以降、注目を集めた京大原子炉実験所の小出裕章さんのことだ。原子力の研究をしながらも、原発反対の立場を明確にしている人物として知られている。「小出さんはチェルノブイリの頃から、こんな地道な活動をしていたのか……」と感動した。私はこの本をいろんなところに持ち歩き、ベルリンの公園のベンチや、芝生や、郊外の湖の浜辺などで読んでいたのだが、この記事を読んでにわかに「自分は放射能まみれの土壌の上に座っているのかも……!」と不気味な気分になってきたことも記しておきたい。

本の一番後ろには、同じ出版社から出された原発関連書のリストが載っていた。うち、『危険な話ーーチェルノブイリと日本の運命』(広瀬隆・著 八月書館・刊)は、チェルノブイリ原発事故の1年後に発売になりベストセラーになった本だ。読んではいないものの、当時大きな話題を呼んでいたことは私も覚えている。この本の紹介には、「日本図書館協会選定図書」「全国学校図書館協議会選定図書」と書かれていて、意外だった。このような公的な団体が原発の恐ろしさを伝える本を選定図書に選ぶというのは、福島の事故以降、考えにくいことではないだろうか。80年代の日本は案外進んでいたのかもしれない。それとも、チェルノブイリ事故は外国で起こったことだから、当時の日本人は言いたい放題だっただけなのだろうか。

なお、この本の著者、山本知佳子さんについて調べてみたところ、インターネット上にインタビュー映像と音声が見つかった(下にリンクあり)。現在はインド在住だそうだが、福島の事故後の2011年7月に、日本の市民メディアやラジオにインタビューを受け、チェルノブイリ事故時の体験を語っている。私もインタビューをチェックしたが、最も印象的だったのは、次の発言である。「当時の西ドイツ政府も、現在の日本政府と同じように、『ただちに影響はない』と言っていた。しかし、西ドイツでは『風評被害』という言葉は使っておらず、すべて『実際もたらされた害をどの程度危険と評価するか』という観点で語られていた」。

関連リンク:
「原子力資料情報室」による山本知佳子さんインタビュー(2011年7月4日。動画。25分)
・MBSラジオ「たね蒔きジャーナル」による山本知佳子さんインタビューその1その2(2011年7月19日。音声。両方で18分)

 

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