映画「目に見えない人たち」ー「静かな英雄たち」へのオマージュ

永井 潤子 / 2017年11月26日

ナチによる組織的で大規模なユダヤ人迫害が始まったのは、1938年11月9日のことで、79年目にあたった今年の11月9日にも、この時の犠牲者を追悼するさまざまな行事がドイツ各地で行われた。また、この秋には、ユダヤ人迫害の嵐が吹き荒れた1943年のベルリンで身を隠し、生き延びることのできた若いユダヤ人の運命を描いたドイツ人監督の映画「目に見えない人たち」が封切られ、話題になっている。

1933年、ナチが政権を掌握した当時のベルリンには約16万人のユダヤ人が住んでいた。ドイツのユダヤ人たちは1935年のニュルンベルク法によって公民権を奪われ、ユダヤ人に対する迫害は、以後強まるばかりだった。1938年11月9日から10日にかけての夜には、ナチが各地でユダヤ人の商店や住宅を破壊し、シナゴーグに放火するなどした。この夜だけで100人近いユダヤ人が虐殺され、約3万人のユダヤ人が強制収容所に送られた。1941年10月15日には、ユダヤ人のアウシュヴィッツ強制収容所への大量移送が開始された。特に首都ベルリンでのゲシュタポ(ナチの秘密警察)によるユダヤ人狩りは熾烈を極め、1943年6月19日、ゲッペルス宣伝相は「首都ベルリンからユダヤ人が一掃された」と宣言した。しかし、その時点でもなお、およそ7000人のユダヤ人がベルリンで地下に潜って生活していた。そのうちの約1700人が2年近く身を隠して、ドイツの敗戦まで生き延びることができたと推定されている。

クラウス・レフレ監督制作の映画のドイツ語のタイトルは「Die Unsichtbaren」で、直訳すると、「目に見えない人たち」、意訳すると「地下に潜った人たち」ということになるだろうか。この映画は、幸いにも生き延びることのできた若い四人のユダヤ人(男女二人ずつ)の過酷な生活を、ドキュメンタリーと劇映画をミックスした独特のスタイルでとりあげている。若い俳優たちによる当時のドラマを再現する場面と、高齢に達した生存者たちとのインタビューの生の声と表情が交差し、その間には当時のベルリンの状況を示す記録写真も挿入され、観客を当時のベルリンの雰囲気に引き込んでいく。そうした臨場感とともに、若いユダヤ人たちのゲシュタポによる逮捕と死を恐れる不安な気持ちが観客にもひしひしと伝わってくる。この映画には「我々は生き延びたい」というサブタイトルもつけられている。

映画は20歳の青年、シオマ・シェーンハウスが、強制収容所送りとなる両親と別れる場面から始まる。一人息子のシオマだけは、ベルリンの工場で強制労働者として働くために、強制収容所送りをまぬがれたのだ。以前に印刷技術を学んでいるシオマは万一のことを考えて、自分のためにユダヤ人であることを示すJの字のないパスポートを偽造している。 Jはユダヤ人を示すドイツ語のJudeの頭文字で、当時のユダヤ人のパスポートにはJの字が記入されていた。その偽造技術がすぐれていたため、シオマは工場で働きながら、やがて他のユダヤ人たちのためにパスポートや身分証明書を偽造するようになる。

シオマは、かつて帝国会計検査院の高官だったフランツ・カウフマン博士の信頼を得た後、毎週金曜日、ベルリン西部の彼の豪華な家を訪れて他のユダヤ人のための書類偽造の注文を受けるようになる。カウフマン博士自身もユダヤ人のため、帝国会計検査院の地位を追われたが、ドイツ人女性と結婚しているため、強制収容所送りを免れていた。シオマの書類偽造に対する報酬は、博士がツテを通して手に入れる貴重な食糧配給切符などだった。その切符を売ったお金でシオマはレストランで食事をしたり、子供の頃からの夢であったボートを買ったりすることができたという。実際にボートに乗ることはほとんどなかったが、ボートについていた綱がのちに彼の危機を救うことになった。シオマはなんども危機一髪の場面に遭遇したが、その度に機転と機知で切り抜け、幸運にも恵まれた。

カウフマン博士の周辺では教会関係のドイツ人たちが密かに有形無形の支援活動を行なっており、献身的な協力者の一人が若い女性、ヘレーネ・ヤコブだった。彼女は教会に来る仲間のドイツ人たちが、密かに献金箱に入れた彼らの身分証明書をカウフマン博士のもとに持って行き、そのドイツ人の写真を地下に潜っているユダヤ人の写真と取り替える仕事をシオマに依頼していた。身分証明書を献金箱に入れたドイツ人たちは、その後紛失届を出して身分証明書を再発行してもらったという。

シオマは最後にヘレーネ・ヤコブの家にかくまわれていたが、ある日、彼女は電話で呼び出されたまま帰ってこなかった。「自分が2時間経っても帰ってこなかったら異変が起こった証拠だから、直ちに行動を起こすように」という言葉を残して。シオマは兼ねてから用意してあった自分のための偽造パスポートを持って、自転車でスイスを目指して出発した。北のベルリンからドイツを縦断して南のスイスにたどり着くまでの逃避行には、スリルに満ちたドラマがたくさんあったに違いないが、映画はそれには触れていない。画面には「自分の身の危険を犯してユダヤ人を助けたヘレーネ・ヤコブのような人こそ『静かな英雄』だ」と語るおじいさんになったシオマの姿が映し出される。

ハニー(ハネローレ)・ハイセンベルクは、ゲシュタポによるユダヤ人狩りが激しくなった1943年当時は17歳だった。両親を相次いで亡くしたばかりで、強制労働で働いていた工場で指の怪我もしていた。ある日、ゲシュタポがアパートの戸をドンドン叩く音を耳にした時、咄嗟にコートを着てハンドバック一つで静かに裏口から出て行った。彼女が訪ねた先は亡き母親の親しい友人だったドイツ人女性で、その人の勧めで髪を金髪に染め、その日からドイツ人になりすました。ハニーはその女性の「爆撃で焼け出された姪」ということになり、名前もドイツ人らしいハネローレ・ヴィンクラーと変えた。彼女は怪我をした指を治療してもらう医者も、その女性に紹介してもらった。ハニーは一般のドイツ人と同じように生活し、目立たないようにする必要があった。人混みの中でベルリンの大通り、クーダムを散歩し、映画館の暗闇で過ごすことが多くなった。

隠れ先での危険が迫って街を1日中歩き回ったハニーは、映画が終わるのを待って行きつけの映画館の切符売りの女性を訪ね、「実は自分はユダヤ人で、ゲシュタポに追われ、行く場所がない」と訴えた。彼女の反応は「じゃ私のところに来なさい」というものだった。ハニーはしばらく前に映画館の隣の席に座った若いドイツ人男性から散歩に誘われた際、「自分は召集されて間も無く戦地に行かなければならない。母親のことが心配なので時々母を訪ねてくれないか」と頼まれていたが、この男性は実はこの切符売りの女性の息子だったのだ。もちろん彼はハニーがユダヤ人であることを知らなかった。切符売りの女性、ヴィクトリア・コルツァーは、年取って病気がちの夫とともに狭いアパートでつましく暮らしていたが、二人ともハニーを快く迎えた。その後夫が亡くなってからは、戦地の息子の安否を心配するヴィクトリアとハニーは実の母親と娘のような親密な関係になって、爆撃が激しくなるベルリンでお互いに支え合って生きたという。

戦後ハニーはパリの親戚に引き取られ、ユダヤ人の男性と結婚してハニー・レヴィとなったが、子供たちにドイツ語を習わせ、ベルリンに無事に帰還したヴィクトリアの息子の家族をパリに呼んで、交流を続けたという。93歳のハニー・レヴィさんは、映画の上映に合わせてベルリンに招かれた際、元気に当時の体験を語り、自分の窮地を救ってくれたドイツ人たちに改めて感謝の気持ちを表した。彼女は「自分たちのような体験をテーマに映画が作られたのは本当に嬉しい」と喜んでいた。

もう一人の女性は、医者の娘ルート・アルントである。父親は医者としてあまりにも多くの人に知られていたので自宅に残り、ルートと兄弟のヨッヘンとその恋人、それにヨッヘンの友達であるブルーノと一緒に、最初は父親の元患者の家に身を隠した。その一家はルートの父親が病気の娘を助けてくれたことに感謝して、彼らを快く引き受けてくれた。しかし、一箇所にみんな揃って長いこといるわけにはいかず、最後はバラバラになった。ルートはヨッヘンの恋人とともに「戦争未亡人」ということにして、ナチの将校の家に住み込みの家政婦として働いた。将校夫妻も二人がユダヤ人であることに薄々気がついていたようだが、何も言わなかった。二人は将校夫人が子供を連れて疎開した後も住み込みを続け、家事を助けた。ある日、ルートは爆撃で防空壕に入ったが、しばらくして、水を汲みに地上に出たところ、すでに爆撃は終わっていて、ロシア兵の姿があった。それで初めて戦争が終わったのを知ったという。

ヨッヘンとブルーノは、隠れているところをロシア兵に見つかり、銃を突きつけられるが、必死で「自分たちはドイツ人ではない。ユダヤ人だ」と訴える。ロシア兵は「ベルリンにはもうユダヤ人は一人もいないはずだ。もし本当なら、ユダヤ人が知っているはずの祈りの言葉を言え!」と命令した。二人がその祈りの言葉を唱えだすと、ロシア兵は銃を投げ出して彼らに抱きついてきた。このロシア兵もユダヤ系だったのだ。感動的な場面だった。ルートとブルーノは戦後結婚し、アメリカに渡った。

もう一人の男性、オイゲン・フリーデは、1943年当時わずか16歳。母親がユダヤ人、義理の父親がドイツ人だった。母親はドイツ人と結婚しているということで、強制送還を免れたが、息子だけはただ一人、ユダヤ人であることを示す黄色い星を胸に付けさせられていた。オイゲンは強制送還を免れるため、ベルリン郊外(ベルリンの南約50キロ)の小さな町、ルッケンヴァルデの父親の知人のドイツ人、ハンス・ヴィンクラーのところに預けられる。一家はナチ政権に反対で、その一家を通じてオイゲン自身もその地域で行われていた抵抗運動に関わるようになる。オイゲンは時にはヴィンクラー家の同年の息子のヒトラーユーゲントの制服を着て外出したり、密かに抵抗運動のビラを配ったりしながら、生き延びることができた。

戦後オイゲンはカナダに移住したが、70年以上後になって映画のなかで「ルッケンヴァルデの抵抗運動グループに加わっていた人たちは、一介の労働者だったり駅のレストランの従業員だったり、ごく普通の無名のドイツの庶民たちだった。彼らはその行動が見つかった場合の危険を知りながら、ユダヤ人を助けただけではなく、非人間的なナチの独裁政権を倒そうと抵抗運動を続けたのだ。彼らが無名のドイツ人だったことを何度でも繰り返し強調したい」と語って、無名のドイツ人たちのユダヤ人救済や抵抗運動を賞賛している。ルッケンヴァルデの抵抗グループで指導的な役割を果たしていた労働者、ヴェルナー・シャルフは、戦争が終わりに近づいた頃逮捕され、処刑された。

ベルリンで危険が迫ったのを感じて自転車でスイスに向かった若いシオマは、スイスでも教会関係者の支援を受け、バーゼルの芸術大学で学ぶことができた。その後広告宣伝会社を設立し、家庭を築いて4人の子供にも恵まれたという。高齢のシオマ・シェーンハウス氏は最後にもう一度登場し、自分の身の危険を冒してまで多くのユダヤ人を助けたヘレーネ・ヤコブの思い出を語った。「ある時ヘレーネになぜユダヤ人を助けるという危険なことをするのかと聞いたことがあります。ドイツの名誉を守るためだというのが、彼女の答えでした。ヘレーネの目的は達成されたと私は思っています」。こう語ったシェーンハウス氏の目には涙が光っていた。映画はこの場面で終わるが、ヘレーネ・ヤコブのこの言葉は強烈な印象を残した。

クラウス・レフレ監督は、1943年以降の首都ベルリンで生き延びることのできた若いユダヤ人の数奇な運命を取り上げ、感銘深い映画を作り上げることに成功したが、同時にそれは多くのユダヤ人を助けた有名、無名のドイツ人たちの姿を浮き彫りにした。そうした「静かな英雄たち」のことはこれまであまり知られなかったが、同監督は、ホロコーストを生き延びたユダヤ人たちだけではなく、彼らを助けた「静かな英雄たち」へのオマージュとしてこの映画を作ったと語っている。ある映画評論家は、「レフレ監督は、ホロコーストを生き延びることのできたユダヤ人たち、生き延びられなかった全ての犠牲者、それに迫害されていた人たちを助けた全ての人に対する記念碑的な映画を作ることに成功した」と絶賛している。

この映画はまた、危機的状況に置かれた時、人間的な態度を貫くことができるかどうか、「市民としての勇気」を示すことができるかどうかを、一人一人に問いかける映画でもある。外国人排斥や反ユダヤ、反イスラムの風潮が高まる現在、過去の歴史をこうした形で思い起こすことは、意義のある事に思える。映画のなかに登場し、70年以上前の危険に満ちた日々を回想した4人の生存者のうち、3人はこの映画の完成を待たずに亡くなり、残ったのはパリに住む女性、ハナネローレ・レヴィさんだけとなったことを、私は映画を見た後に知った。ドイツ人の犯した大きな犯罪について、生存者の生きた体験を取り上げる最後のチャンスだったことになる。日本人の私は、この映画を見ながら、日本が犯した戦争犯罪、朝鮮半島からの強制連行やアジア諸国での「従軍慰安婦」などの性犯罪についても、生存者の体験を取り上げる最後のチャンスが迫っていることを痛感させられた。

クラウス・レフレ監督は、もともとテレビのドキュメンタリー番組の制作者として有名で、この映画も8年前にドキュメンタリー番組として作ろうとしたという。しかし、その企画は「ホロコーストに関するドキュメンタリー番組はすでにたくさん作られている」という理由で、どこも取り上げてくれなかった。そこで、まず、ベルリンで地下に潜って生き延びたこの4人のユダヤ人たちのインタビューを始め、それをまとめたフィルムを作り、ドイツ公共放送連合(ARD)の “ Top of the Docs “ に応募したところ、入賞した。それをきっかけにこの映画「目に見えない人たち」は、ARDに加盟する北ドイツ放送(NDR)、ベルリン・ブランデンブルグ放送(RBB)、西部ドイツ放送(WDR)など各公共放送局の資金援助で製作することができた。いずれARDのドイツ第一テレビで、放映される予定だという。外国の映画祭にも参加する予定だということなので、将来日本でこの映画が上映される可能性もあるかもしれない。

 

 

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