ドイツ各地の市民の自発的難民救援活動

永井 潤子 / 2015年9月6日

連日ヨーロッパに押し寄せる難民の問題がトップニュースになるなか、ドイツ各地では、膨大な数の市民が自発的に難民の救援活動に携わっている。難民収容施設と決められた建物への放火事件や難民排斥デモなどはニュースとして取り上げられやすいが、地道な市民の活動は外国にはなかなか伝わらない。そこで今回は、ドイツで積極的に行われているさまざまな市民の活動に焦点をあててみた。

8月最後の水曜日のこと、ハンブルクの見本市会場の商品納入用入り口には、朝からひっきりなしに“商品“を満載したトラックやライトバン、乗用車などがやってきた。中には荷台に山のような荷物を積んで自転車でやってきた人もいた。彼らが運んできた物資は、実は商品ではなく難民のための救援物資だった。大小の企業や個人から、衣類、毛布、乳母車やオムツ、おもちゃ、衛生用品やシャンプー、タオルなどいろいろなものが大量に運ばれてきたのだ。その後もこの日のような風景が連日続いており、今では必要以上に集まった物資は、他の難民施設に運ばれているほどである。

広い見本市会場ではシリアなど紛争地域からの難民およそ1100人が、2週間ほどまえから30人ごとのグループに分かれて暮らしている。「難民たちは、着の身着のままで、何も持っていません。10日前に他のボランティアの人2人とここに来た時には衣類がほんの少しあるだけでした。どうしたらこれだけ大勢の人たちに新しい衣服を与えることができるか考えてしまいました。ところが今では何トンもの救援物資が集まっていますし、ボランティアの数も100人ほどに増えています」こう語るのは救援活動の責任者の一人、36歳のシモーネ・ヘルマンさんだ。

彼女たちの活動はハンブルク市や救援活動が専門の団体による活動ではない。マスメデイアの報道で難民たちの窮状を知り、難民ホームに放火したり投石したりする以外のことをしようと決心し、自由意思で集まった人たちの活動だという。

運び込まれた救援物資は直ちにズボンはズボン、シャツはシャツ、と分けられ、さらに大きさによって分類される。靴は左、おもちゃはその奥と分類された後、一人一人に渡す基本的な救援物資のセットが手提げ袋に入れられる。そのプロセスは非常に機能的に行われている。

救援物資を集め、分類、分配する作業の他にもさまざまなボランティアグループがある。難民の子どもたちとサッカーをするグループ、子どもたちにドイツ語を教えるグループ、ハンブルク市民たちとの共同の食事会を計画、実践するグループ、特別治療体制を発足させて、自由時間を難民たちの診察に使う医師のグループもある。

大都市だけではなく、地方の小都市でも同様の風景が展開されている。そのひとつがラーン川沿いの小さな町リンブルクだ。町のテント村に650人の難民が来ることが決まった直後「リンブルクは難民受け入れにノーと言う」というスローガンがフェースブックに登場した。これを見たバーで働く女性、サラー・ミュラーさん(23歳)は、「リンブルクは歓迎する」というグループを立ち上げた。今では人口3300人の町の2700人がそのメンバーになっている。サラーさんはボランティア仲間とテントの入り口にカフェーを設け、難民たちの憩いの場にした。そこで無料で提供されるケーキやパンは町のパンやさんが、前日の“売れ残り“を持ってきてくれる。ここでも医師たちは特別勤務体制を取っている。ここにも子どもたちと遊んだり、彼らにドイツ語を教えたりするグループなどが存在する。以上は全国新聞「ディー・ヴェルト」が伝えた。

首都ベルリンの状況については「ベルリーナー・ツァイトゥング」など地元の新聞のほか、全国新聞「南ドイツ新聞」をはじめ多くの新聞が伝えている。「ベルリンの公園や通りでの難民たちの惨めな状況を見過ごすことはできない」と話すのは、数週間前にネットワーク「モアビートは助ける」を立ち上げたラスロ・フーベルトさんだ。シリアその他紛争地域から命からがらベルリンに逃れてきた難民たちは、まず役所に登録し、その後各難民収容施設に移るが、国籍や名前、家族構成、故郷を離れた経緯などを登録すること自体、容易ではない。モアビート地区にあるベルリン州保健・社会局の前には、登録を待つ難民たちが列をなしており、翌日の順番を待つ難民たちが路上に寝ていることもめずらしくない。こういう事態を見逃している連邦政府や州政府に対する批判が高まる一方、「市当局は増え続ける難民の対応に応じ切れなくなって、混乱している。我々市民は当局の至らない面を補うことができる」と実際行動に出ているのが、「モアビートは助ける」の市民たちだ。彼らは登録を待つ難民たちに水や暖かい食事を配り、新しい衣類を手渡し、寝る場所を提供している。今では数百人の市民がこのグループに属しているが、なかには難民一家を自宅に泊める人たちも少なくない。

ベルリン・フンボルト大学の最近のアンケート調査によると、こうした自発的な救援活動に携わるのは、30歳前後の教育水準の高い若い女性が多いという。ベルリンでは特に自分も移民の背景を持つ女性が多いということだが、ライラ・エル・アブタさん(30歳)もその一人である。ライラさんはお母さんがドイツ人、お父さんがパレスティナ人だが、最初小さな子供二人を連れた一家が路上で寝ているのを見たときは涙が止まらなかったという。以来ライラさんは夕方になると、ベルリン州保健・社会局周辺の公園などを見て回り、野宿している人たちを見かけると、まずアラブ語で話しかけ、宿泊する場所を斡旋している。また、ドイツ人の中には、ドイツの敗戦後、東部の旧ドイツ領土から追われ、引き上げてきた人を家族に持つ人が多いという調査結果になっている。

オペラ関係の仕事をしているライナ・ブルンスさん(37歳)は、幼い3人の子供とそのお母さんを家に連れて帰り、泊まらせたが、シャワーを使い、新しい衣服に着替え、十分な朝食をとった彼らは見違えるように生き生きし、ライナさんの好意にそれぞれ感謝の意を表したという。「こんな体験は初めてで、感動した。これからも『モアビートは助ける』の活動を続け、難民たちを家に連れて来たい」と語っていた。市民たちは難民の窮状を見かねて臨機応変に彼らを助けているが、その方法を巡っては当局との意見の相違もある。例えば登録前の難民を自宅に泊めることは、厳密には許されないことのようだが、市民たちの人間的な行為には誰も反対できないのではないだろうか。

こうした市民の活動を伝えた「南ドイツ新聞」の記事の見出しは、「メルケルは関係ない、私は自分でそれをやる! 」となっていた。ガウク大統領は先ごろ、難民救済のため協力するよう国民に呼びかけたが、政治家たちが呼びかける以前に、多くの市民が自発的な救援活動を開始しているのが現実なのだ。

トルコやギリシャなどからハンガリー、オーストリアを経てドイツに来る多数の難民が最初に入るのが南部のバイエルン州で、州都ミュンヘンの中央駅は 9月1日、ハンガリーの首都ブダペストから鉄道でやってきた難民であふれていた。ほとんどは若い男性たちだったが中には家族連れもいた。警備のための警察官や消防署員が待機していたが、警察官は難民の数を絶えず修正しなければならなかった。最初は590人、その後130人追加、そのあと、またまた大勢の難民がやってきた……という風に。

ミュンヘン中央駅にも大勢のミュンヘン市民が食べ物や水、オムツ、それにぬいぐるみの動物などを持ってやってきた。長い間の旅で疲れ切った子どもたちは、ぬいぐるみのクマなどをもらって大喜び。ミュンヘン警察のスポークスマンは「ミュンヘン市民の援助活動は、途絶えることなく続いている。素晴らしい!」と語っていた。こうした状況は地元ミュンヘンの新聞のほか、報道週刊誌「シュピーゲル」のオンライン版も伝えていた。ただ、「このまま難民の数がどんどん増え続けると、バイエルン州だけでは到底対応できない」という関係者の声も聞かれた。