「ドイツの良心」、フォン・ヴァイツゼッカー元大統領の死

永井 潤子 / 2015年2月15日
Weizsaecker

フォン・ヴァイツゼッカー元大統領

1月31日、土曜日のベルリンは雪に覆われていた。前夜のうちに降り積もった雪で木々は樹氷のオブジェとなり、白一色の雪景色はとても美しかった。そんな「天の贈り物」を眺めて幸せな気分になっていた時、青天の霹靂のようにリヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー元大統領の訃報が伝えられた。歴史的な洞察力と卓越した言葉の力で多くの人の尊敬を集めてきたドイツの偉大な政治家の死に、外国人の私も意外なほどのショックを受けた。

フォン・ヴァイツゼッカー元大統領は、この日の朝、ベルリンの自宅で家族に見守られて、94年の生涯を閉じたという。90歳の誕生日を迎えた後も「時代の証言者」として自らの体験を若い人たちに伝えることを自分の課題としているなどと伝えられていたのだが……。1920年4月15日に南西ドイツ、シュトゥットガルトで生まれたフォン・ヴァイツゼッカー元大統領は、「四つの時代」を生きたと回想録に書いている。「四つの時代」とは、第一次世界大戦後のワイマール共和国の時代、それに続くナチと戦争の時代、戦後の東西ドイツ分断の時代、そしてドイツ統一後の時代である。

第二次世界大戦は1939年9月1日にドイツ国防軍がポーランドに侵攻したことによって始まったが、その日の早朝、ポーランドとの国境を超えた精鋭部隊、ポツダム第9師団の中に19歳のリヒャルト青年が義務兵役の一兵卒として従軍していて、その翌日には将校として同じ部隊にいた次兄のハインリッヒが戦死したという。当時のフォン・ヴァイツゼッカー青年たちは、ヒトラーが侵攻の理由に挙げた「ポーランド側の攻撃に対抗し、少数民族として暮らすドイツ系住民への迫害を防ぐため」という言葉を信じきって、愛国心と義務感から進軍を続けたが、それがまったくの「でっち上げ」だったことが判明するのは、戦後になってからだった。元大統領も20世紀のドイツの過酷な運命とは無縁ではいられなかったわけで、この時の体験が彼に大きな影響を与えたという。

1984年から94年まで2期10年の間連邦大統領を勤めた氏の功績は近隣諸国との和解など多岐にわたるが、もっとも有名なのが1985年5月8日、当時の西ドイツの首都ボンの連邦議会で行なった敗戦40周年記念式典での演説である。この演説は「過ぎ去らない過去」のために苦悩していたドイツ国民に歩むべき道を示した歴史的な演説だと高く評価されている。日本ではこの演説は「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです」(永井清彦訳)という言葉が有名で、日本での歴史見直し論に対する警告の意味を持ってしばしば引用される。しかし、1985年当時の西ドイツ人にとってこの演説でもっとも重要だったのは、大統領が「ドイツが無条件降伏した1945年5月8日は、ナチの暴力支配という人間蔑視の体制から解放された日である」と明言したことだった。それまで5月8日はドイツが無条件降伏した屈辱の日であり、全てが破壊された「ゼロの時」、また、東部ドイツ領を追放された何百万というドイツ人にとっては、この日から苦難が始まった日だったが、大統領のこの明瞭な言葉は当時の西ドイツの人たちにとって、過去を直視しながら未来に希望を見いだすことができる言葉だったのだ。

フォン・ヴァイツゼッカー大統領は「ドイツ人にとって5月8日は、戦いと暴力支配の犠牲者に思いを寄せる日である」と述べ、一民族全体に責任があるという考え方は否定しながらも、当時の犯罪に直接責任のない若いドイツ人たちも「罪の有無、老若いずれを問わず、我々全員が過去を引き受けていかなければならない」と訴えた。この格調の高い、しかし、ドイツ人の抱える問題を具体的に取り上げた演説の最後を大統領は「今日5月8日に際し、及ぶ限り真実を直視しようではありませんか」という若い人たちへの呼びかけで結んだ。(岩波ブックレット、『荒野の40年』参照)。

この演説は特に第二次世界大戦中のナチの蛮行のため、ドイツ人であることを恥じていた多くのドイツの若者に勇気と希望、生きる指針を与えたのだが、この演説に対する反響がすごかった。感動した人たちからの大統領への手紙が国の内外から殺到し、2—3カ月の間に数万通に達したのだ。大統領の和解への気持ちに感動したというユダヤ人からの手紙もあった。当時私はケルンに本拠があった西ドイツの公共国際放送局ドイチェ・ヴェレの日本語放送の記者だったが、演説の内容や大きな反響について、何回にもわたって取り上げたことを懐かしく思い出す。

演説が行われた1985年当時、東西ドイツの再統一の可能性などまったく考えられなかったが、西ドイツの大統領は東ドイツの同胞についても触れ、「1945年5月8日が、すべてのドイツ人を結びつける最後の日付であり続けることはないと確信している」とも述べた。歴史は大統領の言葉通りに展開し、演説から数年後、思いがけなくベルリンの壁が崩壊し、フォン・ヴァイツゼッカーは統一ドイツ最初の大統領となったのだった。1970年代、西ドイツのブラント首相(社会民主党)が東西両陣営の緊張緩和を目指した、いわゆる東方外交を開始した時の氏の態度も、他の保守政治家とは一線を画すものだった。ブラント首相の東方政策は、敗戦の結果引かれたドイツ東部の国境線を正式に承認することが前提になっていたため、野党の保守議員のほとんどはこれに猛反対した。しかし、キリスト教民主同盟所属のフォン・ヴァイツゼッカー連邦議会議員(当時)は、大局的な見地から、ライバル政党である社会民主党の現実的な政策を支持し、東方外交の実現を助けた。これがのちに東西ドイツの統一に繋がったのだった。こうした先見の明のある大統領、厳しい現実の中でも理想を失わなかった政治家を持つことができたドイツ人は幸せだったと言えるが、翻って歴史修正主義者の台頭する日本の貧しい現状を思って悲しくなる。

フォン・ヴァイツゼッカー元大統領に対してはしかし、批判もある。父親のエルンスト・フォン・ヴァイツゼッカー氏はヒトラーの下で外務次官、その後ヴァチカン駐在大使を務めたが、戦後ニュルンベルクの継続裁判(ゲーリングなどが裁かれた連合国軍によるいわゆるニュルンベルクの主裁判ではなく、その後ニュルンベルクを占領していたアメリカ軍がドイツの政府高官や経済人に対して行なった裁判)の被告となったとき、法律の勉強をしていた若き元大統領は父親の弁護団に助手として加わった。父親は結局人道に反する罪で禁固5年の有罪判決を受けたが、1年半後に釈放された。外務次官時代のエルンスト氏が戦争を避けるために懸命の努力をしていたことは知られているが、ニュルンベルク裁判の記念館の資料などを見ると、ユダヤ人の輸送に関与した罪は免れないようだ。元大統領がその父親の罪を最後まで認めなかったことが批判されていた。

私の個人的な思い出もいくつかある。フォン・ヴァイツゼッカー大統領は1989年2月の昭和天皇の大葬の儀に出席する直前、当時の首都ボンの日本人記者たちとヴィラ・ハマーシュミット(ボンにあった大統領官邸)で会見した。その時、記者の何人かが「戦争責任を問われている日本の天皇の葬儀になぜ出席するのか?」という質問をしつこく繰り返した。初めは和やかな表情で「西ドイツの大統領として友好国日本の象徴である天皇の葬儀に出席するのは当然でしょう」などと答えていた大統領だったが、しまいには本気で怒り出したのが印象に残った。私自身は日本の大手メディアの記者たちがドイツの大統領にそういう質問を繰り返すのはお門違いで失礼ではないかと内心思っていたのだが、「天皇に戦争責任があるかどうかを問うのは貴方たちの問題でしょう」と大統領が怒りをあらわにしたのには正直言って驚いた。それまでの私は、大統領に対して温和で冷静な人という印象を持っていたからであるが、喜怒哀楽を正直に顔に表す人でもあることをこの時知ったのだった。

統一ドイツの首都をボンにするかベルリンにするかの論争では、フォン・ヴァイツゼッカー大統領のベルリン支持の立場は突出していた。ベルリンは1990年10月3日のドイツ統一とともに名目的なドイツの首都に返り咲いていたが、政府所在地はボンにそのまま残すという案がかなり多くの人の支持を得ていて、国民を二分するほどの激しい議論があった。外交官の息子としてスイスやデンマークなど各地で教育を受けた大統領は、ベルリンのギムナジウムでアビトゥーア(大学入学資格)をとったこと、1981年6月から1984年2月まで西ベルリン市長を勤めたことなどもあって、圧倒的なベルリン派。ベルリンが名実共に首都になることが決まった後も、なかなか首都移転が実行に移されなかったことに業を煮やして真っ先に大統領府をボンからベルリンに移転させたことも、かなり強引な行為として注目された。

私が政府機関の移転と同時にベルリンに引っ越してきた2000年以降は、時々ベルリンフィルなどのコンサートでその姿を見かけることがあった。日本の早稲田大学オーケストラの公演が2012年3月、ベルリンのフィルハーモニーで行われた時も、私の数列前の席で、オーケストラ顧問の八巻和彦教授と肩を並べていた姿が記憶に残っている。フォン・ヴァイツゼッカー元大統領は1995年早稲田大学から名誉博士号を授与されていた。今年2月20日からヨーロッパを公演旅行中の早稲田大学オーケストラは3月8日、ベルリン・フィルのホールでコンサートを開くが、このコンサートはヴァイツゼッカー元大統領に捧げられるということである。

リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー元大統領の葬儀は2月11日、ベルリンの大聖堂で執り行われた。参列者の中には、ポーランドのワレサ元大統領やオランダのベアトリクス前女王の姿も見られ、ドイツおよびヨーロッパで、一つの時代が終わったことを象徴しているようだった。

 

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