福島の原発事故とシューベルトの「魔王」

永井 潤子 / 2012年6月24日

みなさんはシューベルトの代表的な歌曲「魔王」をお聞きになったことがおありだろうか。私は今年5月19日に亡くなったドイツのバリトンの名手、フィッシャー=ディスカウ)の CDで、この「魔王」を久しぶりに聞いてみた。子供の死という恐ろしい出来事を予感させるような前奏で始まるこの曲は、ドイツの文豪ゲーテの詩をもとにつくられている。子供をさらう魔王、子供と父親の会話、語り手の語りからなるシューベルトの曲は非常にインパクトが強く、私は改めて強い印象を受けた。ゲーテの詩に基づくこの「魔王」を原発事故と結びつけて講義した大学教授がいる。

「魔王」

詩: ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ
音楽: フランツ・シューベルト
日本語訳: 田辺 秀樹

語り手:  誰だ、こんな夜遅く 風の中 馬に乗っているのは?
それは 子供を連れた父親だ
父親は男の子を腕にかかえ、しっかりと抱きしめて 暖かくしている

父:「息子よ、何をそんなに怖がって 顔をかくしているのだ?」
子供:「お父さんには見えないの あの魔王が?
冠を被って 裾を引いている あの魔王が?」
父:「息子よ それは霧の縞模様さ」

魔王: 「いとしい子よ おいで、私と行くんだ!
すごく楽しい遊びを きみとしよう
色とりどりの花が 岸辺にたくさん咲いている
私の母さんは 金色の服をたくさん持っているよ」

子供: 「お父さん、お父さん 聞こえないの
魔王がぼくに小声で約束するのが?」
父: 「静かに 落ち着いて わが子よ
枯れ葉の中で風がざわめいているんだ」

魔王: 「かわいい子よ、私と一緒に行かないか?
私の娘たちが きみを歓迎する筈だ
娘たちは 夜の輪舞を くり広げる
きみを揺すって 踊って 寝かせてくれるよ」

子供: 「お父さん、お父さん 見えないの?
ほら あの暗い所に 魔王の娘たちがいるのが?」
父: 「息子よ、息子よ 私には はっきり見える
古い柳の木が灰色に光っているんだ」

魔王: 「私はおまえが好きだ。おまえの可愛い姿に そそられる
いやだと言うなら、力ずくで連れて行くぞ」
子供: 「お父さん、お父さん 魔王がぼくをつかんだよ!
魔王が ぼくに 痛いことをしたよ!」

語り手:  父親は恐ろしくなり、急いで馬を走らせる
うめく子供を両腕にかかえ
やっとのことで 屋敷に帰り着く
彼の腕のなかで 子供は死んでいた

私は今年5月、2年ぶりに一時帰国した際、一橋大学名誉教授の田辺秀樹さんにお会いし、福島第1原発の事故の後大学の授業で原発事故や脱原発について取り上げたとうかがった。ドイツ文学者であり音楽学者でもある田辺氏がこの「魔王」を原発事故と結びつけて講義したことを、私は特に興味深く思った。

ゲーテがこの詩を書いたのは、1782年、33歳のときで、シューベルトが作曲したのは、1815年、18歳のときだった。ゲーテがこの詩を書いた1782年というのは、啓蒙主義の時代のまっただ中で、その時代背景を考えるとこの詩の持つ意味が見えてくるという。啓蒙とは「蒙」を「啓く」(ひらく)こと、無知な人々に正しい知識を与え、合理的な考え方をするように教え導くことである。広辞苑によると、啓蒙思想とは「ヨーロッパ思想史上、17世紀末葉に起こり18世紀後半に至って全盛に達した旧弊打破の革新的な思想。人間的・自然的理性(悟性)を尊重し、宗教的権威に反対して人間的・合理的思惟の自律を唱え、正しい立法と教育を通じて人間生活の進歩・改善・幸福の増進を行なうことが可能であると信じ、宗教・政治・社会・教育・経済・法律の各方面にわたって旧慣を改め新秩序を建設しようとした」(後略)とある。

「魔王」の父親は、まさに「啓蒙された」、「新しい時代の人間」(近代人)。科学的合理主義を代表する人間で、子供の目に見えている世界が見えない。子供の世界は、科学的知識には欠けるが想像力や感動に富む世界で、自然に対する動物的ともいえる直感的な恐れや驚きに満ちている。その意味では子供はみんな詩人であるが、有能な「近代人である」この詩の「父親」は子供の言うことがわからない。このゲーテの詩では魔王の恐ろしさもさることながら、父と子のあいだのコミュニケーションが不可能なことが絶望的であり、悲劇的である。子供が怖がっているのに、父親は「そんなこと、何でもないことだ」と言う。「子供が死んだ」というのは「詩、ポエジーが死んだ」ということでもあるのかもしれないと田辺教授は考える。詩人ゲーテがこの「魔王」の詩で言おうとしたのは、そういうことだったのではないか? 自然を怖がり、必死になって恐怖を訴える子供を絶望させ、死なせてしまうような、想像力に欠けた、鈍感な父親(大人)になるな、と言っているのではないか?とも考えられる。

シューベルトの「魔王」のCDを聞かせながら、ゲーテの詩の持つ意味を解説した教授は、講義を次のような言葉で締めくくった。「最近、私にはこの『魔王』の詩が、また一つ違った意味でますます印象深い詩に思われるようになりました。それは、3.11の震災と原発事故以来のことです。福島の原発事故では、原発という科学技術の最高度の成果が、恐るべき災難をもたらすものであることが明らかになったわけですが、一方で原発推進や原発維持を唱える人々と脱原発を良しとする人々の間の議論の噛み合わなさ、絶望的な隔たりを見るにつけ、そうした対立が、このゲーテの『魔王』に描かれた父親と子供のコミュニケーションの不可能という悲劇と重なって見えるような気がするのです」。

田辺教授が人間の理解を超えた超自然的なものを合理的に解釈しようとする大人のなかに女性を含めていないらしいのも、面白く思った。女性には子供と同じような動物的な感覚、根源的なものへの恐れが残っているということなのだろうか。田辺教授はゲーテの詩「魔法使いの弟子」も原発との関連で取り上げたというが、もうひとりのドイツ文学者が「魔法使いの弟子」について書いている興味深い原稿を見つけたので、これについては別途お伝えすることにする。

 

4 Responses to 福島の原発事故とシューベルトの「魔王」

  1. みづき says:

    原発事故前は、「原発許容=バランスのとれた、冷静で大人な態度」
    「原発反対=現実を見ない、子供っぽくヒステリックな態度」
    という見方が日本ではマジョリティだったように思います。

    「原発、ほんとに安全なのかな〜。怖いなー」と思いつつも、
    ヒステリックだと思われたくて、声を挙げられなかった人も
    多いのではないかなあと思います。

    しかし、そういう風潮も刷り込みなんですよね。
    放射性物質の最終処理の仕方も決まらないまま、原発を
    どんどん使うというのは、どう考えても恐ろしいことです。
    どうして、上のような社会的風潮ができてしまったのかなあ、と
    事故以来ずっと考えています。

  2. 古川三枝子 says:

    確かに、短い詩を圧倒して恐怖を訴える男の子は脱原発を訴える私たちです。私たちも「死」の恐怖から脱原発を願っています。そして願うだけでなく、今では原子力発電不在のエネルギー供給・受給が不可能ではないことを知っています。日本の海岸線を取り囲んで建つ54基の原発は私たちを冥界に連れ去る魔王そのものなのに、原発推進支持者たちにはそんなアレゴリーどころか、チェルノブイリ、フクシマの悲惨な現実も理解できないようです。
    次回の「魔法使いの弟子」も楽しみにしています。

    • じゅん says:

      みずきさま、古川三枝子さま、
      すばらしいコメントをありがとうございました。フクシマ原発の事故の後、日本人の一人一人がこの事故を深刻に受け止めて、現在の社会のあり方や自分の生き方の根本的な点について考えをめぐらしたと思っていました。しかし、現在の日本の政治家や財界など支配層の動きを見ていると、そんな風に感じたのは私の幻想に過ぎなかったのかと絶望的な気分になります。それだけにお2人のコメントには勇気づけられました。ありがとう!じゅん。

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