『奪われたクリムト』に心を奪われて

永井 潤子 / 2019年4月28日

世紀末ウイーンを代表する画家、グスタフ・クリムトの大規模な展覧会が、東京・上野にある東京都美術館で4月23日から始まり、話題になっているようである。全く偶然なのだが、私が、友人の浜田和子さんと訳した『奪われたクリムト、マリアが黄金のアデーレを取り戻すまで』が、この展覧会に期を合わせたかのように、梨の木舎から出版された。なぜ私たちがこの本を訳したいと思ったかをお伝えしたい。

金色の表紙に美しい女性が浮かび上がる小さなドイツ語の本、『Der gestohlene Klimt(盗まれたクリムト)』に出会ったのは、2017年6月、ウイーンのユダヤ博物館でのことだった。この時のウイーンでは、たくさんの美術館を訪れ、多くのクリムトの絵を見て、その魅力に改めて圧倒された。オペラ座の近くの分離館で、クリムトがベートーベンの「交響曲第9番」に触発されて描いたという有名な壁画「ベートーベンフリーズ」を見た後、シュテファンスドーム近くのユダヤ博物館を訪れ、そのショップでたまたま私はこの本と出会ったのだった。

ベルリンに戻ってからこの本を読みだした私は、小さなマリアと叔母のアデーレのこと、戦前のウィーンでの豊かなユダヤ人一家の生活とオーストリアがナチ・ドイツに併合された後のユダヤ人に対する激しい迫害、ドラマチックなマリアの逃亡の様子などに引き込まれて、一気に読み終えた。クリムトの有名な絵である『黄金のアデーレ』は、裕福なアデーレの夫がクリムトに妻の肖像画を描かせたもので、1907年に完成している。夫はこの絵のほか、クリムトの他の絵を含めた多数の美術品のコレクションの所有者だった。しかし、オーストリアがナチ・ドイツに併合された1938年3月以降は、美術品のコレクションだけではなく、利益を上げていた製糖会社から家屋敷まで、自動車から家具まで、全財産をユダヤ人であるという理由だけで没収された。なお、アデーレ自身は、ナチのオーストリア併合以前の1925年に病死しているため、ナチによる迫害を経験しないですんだ。

新婚の夫とともに命からがら、何も持たずにアメリカに亡命することに成功したアデーレの姪、マリアが高齢になってから、大変な苦労をして叔母がモデルになっているこの絵『黄金のアデーレ』を取り戻すまでの出来事が、この本には生き生きと描かれている。この本の主なテーマは、オーストリアの美術館関係者が、戦後何十年も、ナチが没収した美術品、つまり「略奪美術」をユダヤ人の元の所有者に返そうとしなかったという話なのである。この本の著者はミュンヘンで女性のための出版社を経営するエリザベート・ザントマンさんだが、この本だけは自分で書きたかったと、日本の読者への前書きで明らかにしている。彼女がこの本を書いたのは2014年のことで、一時期ドイツでベストセラーにもなった。ちょうどその頃国際的に評判になったヘレン・ミレン主演の映画、『黄金の女性』2015年(邦題:『黄金のアデーレ、名画の帰還』)がドイツで上映された。この本は映画とは全く別に書かれたもので、映画には取り上げられていない事実が特に興味深いのである。

この本はまた時代の制約にとらわれず、自主的に生きた二人の女性の物語としても読むこともできる。ドイツで女性向けの出版社を経営するエリザベート・ザントマンさんが自ら書いた本を、ドイツで美術史を学んだ浜田さんとともに日本語に訳し、ザントマン社と同じように、女性向けのすぐれた本を出版するため頑張っている友人の羽田ゆみ子さんの梨の木舎から出版できたことを、私は非常に幸福なことだったと思う。多くの人にお読みいただけたらと願っている。

『奪われたクリムト、マリアが黄金のアデーレを取り戻すまで』東京・梨の木舎刊、定価2200円+税

Comments are closed.