月曜日から金曜日へ - 長い闘い
7月29日の日曜日の午後、「アンティ・アトム・ベルリン(Anti Atom Berlin)」が、日本での国会包囲行動に連帯するデモを行うことになっていた。ところが、ベルリンは朝からバケツをひっくり返したような雨。この豪雨にいささか気勢をそがれたが、雨天決行ということなので、降りしきる雨を恨めしく思っていた。しかし、ベルリンはころころと天気が変わるので、午後には何とかなるかと思っていたら、やはり午前中に雨はやみ、気温もデモにはちょうど良い感じになってきた。
東西ベルリン統一のシンボルとなったブランデンブルク門前のパリ広場に13時30分集合ということで、時間前に行ってみたが、デモの参加者らしき人の姿は見えず、観光客ばかり。日曜日の午後、当然のことながら広場は観光客でごった返していた。時間が経つにつれ、「原子力? おことわり (Atomkraft? Nein Danke)」という目印を付けた人たちが、三々五々集まり、何となくデモらしい雰囲気が出てきたのが2時過ぎ。参加者の数は、主催者と警察の発表で200人強。
デモの開催に当たって、ベルリン在住の日本人女性がドイツ語で次のように演説した。
福島の事故後、5月5日から2ヶ月間にわたり、日本ではすべての原発が停止した。これこそ日本が原発を必要としない明白な証拠だ。
しかし関西電力は、原発がなければ日本の暑い夏を乗り切ることはできないというウソをついた。7月の最も暑い日でさえ80%代の電力しか消費されていない。関西電力管轄地域には、原発以外の発電所があるのに、稼動されていない。ここでも原発が必要でないことは明らかだ。
巨大地震が起きる可能性がある地域で、次の悲劇が起きないように原発は直ちに停止すべきだ。市民の強い抗議にもかかわらず、野田首相は再稼働を宣言。7月上旬には大飯3号機、2週間後には4号機が稼働を始めた。関西電力は、2つの原子炉の間に活断層があるという疑いさえ無視している。
日本の母親たちは、この異様なシステムの中で不安を抱いている。はたして子供たちは幸せになれるのか。このシステムでは、命がおびやかされ、運悪くシステムの犠牲となった誰かは苦しむことになる。福島の人々はほうっておかれたままだ。そして東電も政府も悲劇の責任を取ろうとしない。
日本の大手マスコミは、今までずっとデモを無視し続けた。しかし、もはやNHKでさえ隠せないほど、市民のデモは広がった。首相官邸前で5ヶ月前に始まった金曜デモは、わずか300人の参加者だったが、6月以降は参加者が毎週増え続け、6月29日はその数が20万人に達した。7月16日、代々木公園に17万人が集結、原発事故以来最大の集会デモとなった。そして今日、日本では再び人々が集まり、国会を包囲し、再稼働反対の声を上げている。我々はベルリン、いや世界中で再稼働反対の署名を集め、その数は785万に上っている。
参加者からは、野田首相の再稼働宣言にはブー、再稼働の開始のくだりでは、ABSCHALTEN! ABSCHALTEN!(原発止めろ)のシュプレヒコールが湧きあがった。
日本人女性の演説に続いて、ドイツの青年、ドイツ人女性の演説があり、デモ行進へと移行。ブランデンブルク門を背に左に曲がって、アメリカ大使館、ユダヤ人犠牲者記念碑を左手に見ながら、ポツダム広場を右折、ベルリン映画祭のメイン会場を正面に見ながら、イスラエルの初代大統領ベン・グリオンの名前を冠した通りを歩き、さらにベルリン・フィルハーモニーの横を通るというベルリンの観光名所満載のデモコース。しかも、片側3車線の車道はデモのために完全開放。広々とした車道を歩くなんて、デモに参加しなければ滅多にできない経験。目的地の日本大使館に到着した後、「日本政府に対し、遠慮なく大きな声を上げよう」という主催者に従って、「再稼働反対!」「さよなら原発!」のシュプレヒコール。デモが終わりを告げる頃、雨が降り出し、解散後には激しい雨に見舞われたが、全行程を無事に終了した。この日のデモの様子、参加者と警察のあり方などについては、ベルリン在住の「明日うらしま」氏のブログに詳細があるので、ぜひ読んでいただきたい。
日本での「金曜デモ」が始まったというニュースを読んで、すぐにライプツィヒの「月曜デモ(Montagsdemonstration)」を思い出した。1979年のNATO二重決定を機に、西ドイツの反核平和運動が高まりを見せ始める。これに呼応して、ライプツィヒでも1980年代の初めから「平和の祈り」として月曜日のデモが始まった。1983年、アメリカが西ドイツに中距離核ミサイルパーシングIIの配備を決定したことに対し、反核を前面に打ち出した平和運動が大きなうねりとなった。これが現在に至るまで、ドイツの反原発の通奏低音をなしているのではないだろうか。東ドイツでは、わずかな参加者で始まったライプツィヒの月曜デモが、ベルリンの壁の崩壊を引き起こすきっかけとなったのである。デモの行われる日が月曜日であれ、金曜日であれ、また参加者の数が多かろうが少なかろうが、市民が声を上げ続ければ、それはやがて山を動かす力になるだろう。