「私たちは何も知らなかったのです」 — 作家スヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチ氏
ドイツの週刊紙ZEITは、チェルノブイリの事故から30年の区切りの年に、特集記事として、昨年ノーベル文学賞を受賞したスヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチ氏のインタヴューを掲載した。以下は、ZEITの許可を得て翻訳したインタヴューの全文である。
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「私たちは何も知らなかったのです」(2016年4月21日掲載記事)
作家でノーベル賞受賞者でもあるスヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチ氏は、チェルノブイリの原発事故を間近で体験した。目に見えない悪と、理解されていない歴史的な区切り目としての1986年についての対談。
ZEIT:
アレクシエーヴィッチさん、あなたは、数十年にわたって聞き取りを行い、信じられてきた世界がもろくも崩れさっていく様について執筆されてきました。チェルノブイリ原発の原子炉が制御不能に陥った1986年4月26日、あなたの人生もあの出来事の一部となりましたね。
アレクシエーヴィッチ氏:
あの時は、姉妹の一人が体調を崩していました。私は覚えているのですが、ちょうど彼女のところへ行こうとしていたら、スウェーデンの友人から電話がかかってきたのです。この友人は、電話口で「チェルノブイリが爆発したのよ!」と叫びました。私は、「何にも悪いことは起こっていないし、全く穏やかなものよ」と言って、友人を落ち着かせました。私たちは何も知らなかったのです。
ZEIT: それからどうしたのですか。
アレクシエーヴィッチ氏:
それから間もなくして、私は立ち入り禁止区域の近くへ出かけました。そこの一人の養蜂家が「すべてが今までと違っている。庭でいつも耳にする音が聞こえないんだ」と語りました。彼が言っていたのは、蜂の羽音のことでした。蜂は、事故が起こった日も、そしてその後も、自分たちの巣箱から出てきませんでした。彼らは、まだ人間たちが知らないことをすでに知っていたわけです。魚釣りをする人は、ミミズが全然見つからないと教えてくれました。ミミズは、地下深くに身を隠していたのです。村のチーズ工場で働いている人は、牛乳を加工することができなくなってしまったと語りました。私が乗り込んだタクシーの運転手は、鳥がおかしくなってしまったと言いました。鳥が車のフロントガラス目がけて飛んでくるらしいのです。そして膨大な数の軍人と戦車が現れました。でも、彼らは一体誰に向かって発砲するというのでしょう。誰から身を守るというのでしょう。
ZEIT:
著書『チェルノブイリの祈り』の中で、あなたが話を聞いた人たちは、核の大惨事は戦争そのものであったと繰り返し言っていますね。
アレクシエーヴィッチ氏:
チェルノブイリには、戦争のあらゆる特質が表れていました。兵隊、避難、軍事上の概念にあふれた新聞の報道…。でも、私たちがこれまで知っていた尺度は、見当違いなものでした。長崎や広島のことは知られていました。あそこでは、人々が焼けこげ、溶けてしまった。でも、それは、チェルノブイリの状況とは違ったわけです。
ZEIT:
「戦争の原子力。それが広島であり、長崎であった」「それに対して、平和の原子力は、どの家庭にもある白熱電球のこと」とあなたは書いていますね。そして、その二つが双生児であり、共犯関係にあるということを誰も感じとっていなかった、と。
アレクシエーヴィッチ氏:
チェルノブイリの後も、生活は普通に続いていました。全て、今までと同じように。同じ大地、同じ水、同じ木々。立ち入り禁止区域の近くに住み、爆発の後、美しくラズベリー色に輝く火災の様子に子供たちと感嘆している人たちもいました。ベラルーシ人たちは、放射能に汚染された故郷を去りはじめていましたが、それと時を同じくして、ソヴィエト連邦という帝国が崩壊し、ロシア人たちが内戦を逃れて子供たちとチェルノブイリ周辺地域の取り残された家屋へやってきました。
ZEIT:
あなたの本の中で、タジキスタンからやって来た(ロシア人の)母親が、立ち入り禁止区域の中の生活について語っていますね。「銃声がしても、私は狙われているのがカラスやウサギだと知っている。だから私はここではこわいと思いません」と。
アレクシエーヴィッチ氏:
私は、この気の毒なロシア人たちに、ここで何をしているのか、どうして子供たちをここへ連れて来たのかと尋ねました。「ここは平和なんだ。ここでは誰も銃の引き金をひかない」と、よく彼らはそう答えました。私たちは、新しい現実に飛び込んだのです。それは、私たちの知の範囲だけでなく、私たちの想像力の範囲も越えてしまったのです。福島の原発事故に対応するのは、かつてと比較すれば容易だったと思います。私たちは、チェルノブイリの経験にさかのぼることができたわけですから。
ZEIT: その経験というのは、どういったものですか。
アレクシエーヴィッチ氏:
チェルノブイリの事故が今日起こったとしたら、誰も子供たちを放射能に汚染された地域へ連れてこようなんて考えには至りません。ただ、それでも、日本政府はまるでかつてのソヴィエト連邦のようにふるまうらしく、私の日本の友人たちはこれに抗議しているそうです。
ZEIT:
「ポスト−チェルノブイリの人間」は、つまり、チェルノブイリから何も学んでいないということですか。
アレクシエーヴィッチ氏:
私たちは、今日、少なくともこの新しい悪についてのイメージを持っています。それは、目に見えず、聞く事も出来ず、匂いを嗅ぐこともできない。でも、それは、死をもたらす。そんな世界に慣れるということがどれほど困難なものであるか、私は、自分の経験から知っています。放射能で汚染された地域へ行った時、私は、ガイガーカウンターを持った男性に付き添われていました。ガイガーカウンターは、ひっきりなしにガーガーと音を立てていました。地面に座るべきではなく、泳ぎに行くべきでもなく、勿論庭で採れたりっぱなベリーを食べるべきでもありませんでした。チェルノブイリの人々は、そういったあらゆることを知らなかったのです。後になって、人々は、ソヴィエト時代に彼らがそうしてきたように科学を盲目に信じるというのをやめました。
ZEIT:
ある意味ではあなたの師匠でもある、作家のアレス・アダモヴィッチ氏が、当時、党の書記長であったミハイル・ゴルバチョフ氏に宛てて、「核の集合体が爆発しただけではない。無責任、官僚主義、規律のなさの集合体も爆発したのだ」と書きましたね。
アレクシエーヴィッチ氏:
後にゴルバチョフ氏は、「どうして何もしなかったのだ」と尋ねられて、こう答えました。「私は、何も悪い事は起きていないと言われたのだ。人々は、自分たちの赤ワインを飲み続けている、と」。何かしら対策を講じなければならないと、そう少なくとも理解するのに、かなり時間がかかりました。(そして、対策が必要だと分かった後も)具体的な手段に事欠いていました。人々は、汚染されたベリーを食べ、汚染されたミルクを飲んでいたわけです。ガイガーカウンターが配給されましたが、機械が打ち出した放射能の値は、人々がそこで生きて行くには高すぎたため、再び回収されました。
ZEIT: チェルノブイリは、ソヴィエト連邦の終わりのはじまりだったのでしょうか。
アレクシエーヴィッチ氏:
アフガニスタンの戦争とチェルノブイリは、ソヴィエトのシステムを破壊する二つの爆弾でした。チェルノブイリで事故が起こった時、とくに共産主義者たちは、とどまって、ただパニックを広げないようにせよと言われていました。そうでなければ、党員手帳をとりあげる、とも。でも、人々は、自分たちの置かれた状況について考えはじめていました。彼らは、党員手帳を置いて、子供たちを安全なところへ連れて行く方を選びました。彼らは、チェルノブイリデモをし、移住の権利を求めて戦いました。国は、30キロ圏内の人々にしか、移住のケアをしなかったのです。
ZEIT:
こうした人々の精神的な目覚めは、どうなったのでしょうか。それは、ソヴィエト連邦が崩壊した時、90年代のはじめに引き継がれたのでしょうか。
アレクシエーヴィッチ氏:
いいえ。当時はみんな混乱していました。人々は、恐怖を感じていました。彼らは、仕事と故郷を失い、その上お金もなく、支援もありませんでしたから。そうした大きな変化に対して、人々は準備ができていなかったのです。
ZEIT:
だから多くの人たちが、ソヴィエト連邦がなくなってしまったことを嘆いているのでしょうか。
アレクシエーヴィッチ氏:
(ソヴィエト連邦が崩壊した後に)私たちが体験した資本主義は、社会民主主義的なものではありませんでした。それは、人々を価値のないものにして放っておく情け容赦のない「シカゴ資本主義」でした。『セカンドハンドの時代』という本を書いていた時に、私はロシア中を旅行しました。ペレストロイカの影響を目にすることは全くできませんでした。人々の状況は、むしろ前よりもひどくなっていました。かつて、人々は、休暇に子供たちをピオニール・キャンプへ行かせました。医療や学費には、お金がかかりませんでした。労働者は、サナトリウムに行くことができました。そして、今は? 工場は、個人の手の中にあるわけです。人々は、本当にすべてを失ってしまったのです。彼らは、私たちの民主主義と自由のマントラ(真言)を理解しません。
ZEIT:
でも、市民社会の芽はありましたし、複数の政党が設立され、環境運動も起こりました。どうして、市民は自ら(市民としての)成熟をあきらめてしまったのでしょうか。
アレクシエーヴィッチ氏:
生存をめぐる闘いこそが、人々が理解したところのものだったのです。民主主義や法治国家といった概念は、彼らにとってなじみのないものでした。だから、スターリンのテロへの悔恨もありませんでした。上から下まで、みんながみんな途方にくれていました。
ZEIT:
どうして人々は、あなたが言うところの「ソヴィエト的人間」、つまり「赤い人間(共産主義に忠実な人々)」の路線に戻ろうとするのでしょうか。
アレクシエーヴィッチ氏:
(それついては)ドイツと並行して考えることができます。ファシズムに対する勝利は、人々を自由にしませんでした。リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー氏(ドイツ元大統領)のような人が、歯に衣着せぬ発言をすることができるようになるまでに、40年かかったのです。私たちのところでは、最初に、共産主義者たちが回帰してきました。プーチンは、ついに、何百万ものロシア人が望んでいるところのものが何なのか理解しました。彼は、大ロシアということについて話しはじめたのです。ソヴィエト連邦の崩壊は、20世紀最大の地政学上のカタストロフィであった、と。そして、誰が敵なのか? 私のように考える人々です。国益に反する裏切り者です。ヨーロッパやアメリカなど、いたるところに敵がいるというイデオロギーが戻ってきました。私たちは、シリアやウクライナで戦っています。私たちがまだトルコと戦場で相見えていないのは奇跡です。こうしたすべてのことは、赤い人間たちの仕業なのです。
ZEIT:
このような薄暗い時代にあって、あなたは次の本のテーマとして愛を扱うことを決めたそうですね。どうしてですか。
アレクシエーヴィッチ氏:
私は、もうこれ以上狂気を見続けることができないのです。私は戦争の渦中に身を置いていました。でも、今はもう無理です。息子たちの棺が運ばれて来た時の母親の叫び、あるいは、足や手のない男の子…。私は、赤の文明についての自分のプロジェクトに幕を引きました。もうそれについて何の新しいアイディアもありません。
ZEIT:
しかし、チェルノブイリの後のような、ひどい国家不全それ自体が、どうしてラディカルな再出発につながらなかったのでしょうか。
アレクシエーヴィッチ氏:
私たちは、ナイーブだったのです。私たちは、(東の)陣営の門を抜ければ、自由になるんだと考えていました。でも、もしあなたが自分のこれまでの人生の全てをその陣営で過ごしたならば、あなたはすぐには自由になれないのです。その幻想と、私たちは今ようやく決別したのです。
ZEIT:
チェルノブイリを教訓とするという望みも幻想にすぎない。そのことを裏付けるような出来事がありましたね。2008年、ミンスクで、新たな原発の建設を禁止するメモランダムが廃止されました。そして、ほとんどの西側諸国には、いまも原発があります。どうしてこんなことがありえてしまうのでしょうか。
アレクシエーヴィッチ氏:
人々は、チェルノブイリのことを今日にいたるまで理解していないのです。私は、当時、チェルノブイリの学者や職員とたくさん話をしました。彼らは、みんな強者の哲学に従っていました。彼らは、自分たちがまるで強者であるかのようにして、自然について語りました。でも、チェルノブイリの事故は、人間が自然界でまちがった位置を占めているということを明らかにしました。私は、日本の北海道での朗読会のことを思い出します。そこには原発があって、美的な観点から言えば、本当に美しいのです。朗読会の後、原発の職員が私のところへやって来て、こう言いました。「チェルノブイリの事故は、君たちのところでしか起こりえないよ。君たちのだらしなさによってね」。それから約十年後、福島の事故が起こりました。
ZEIT: あなたの本の副題は、「未来の物語」ですね…。
アレクシエーヴィッチ氏:
この本が1997年に出版された時、どうして副題がそのようなタイトルなのか誰も理解していませんでした。今なら分かります。人間の手の中にある進歩は、人間自体に矛先が向かう戦争へとつながっていくのです。進歩によって、くず鉄の山だけが残りました。それは、当時、私たちにぞっとするような光景を見せつけました。チェルノブイリを回った時、私は、なんだか実験室のようだなと思いました。人類がいまだに理解したがっていないこと、それは、(その気になれば)とうの昔に理解できていたはずのことなのです。朗読の後、「人間はいつ変わるか」という問いに対して、一度ある哲学者がこう答えました。「彼らが100のチェルノブイリを経験したら」
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原文:
ZEIT, 30 Jahre Tchernobyle »Wir wussten nichts« (21. April 2016) (S.17)
http://www.zeit.de/2016/18/tschernobyl-swetlana-alexijewitsch-30-jahre
関連書籍:
Swetlana Alexievich, Chernobyle Prayer, Moscow: Ostozhye, 1997 (=松本妙子訳、『チェルノブイリの祈り―未来の物語』、岩波書店、2011年)
関連記事:
『チェルノブイリの祈り、未来の物語』を読んで
チェルノブイリで始まった新しい歴史