多くの人の心に響いたベルリンでの「日本軍『慰安婦』メモリアルデー」

永井 潤子 / 2014年8月24日

8月14日が「日本軍『慰安婦』メモリアルデー」と決められていることをみなさんはご存知だろうか。韓国人女性、キム・ハクスン(金学順)さんが長年の沈黙を破って初めて「元慰安婦である」と名乗りをあげ、さまざまな証言を行ったのは、今から23年前の1991年8月14日のことだった。それ以来各地の元「慰安婦」の女性たちが名乗り出るようになり、「慰安婦」問題が国際的に注目されるようになった。2012年、キム・ハクスンさんの勇気を讃えて8月14日が「日本軍『慰安婦』メモリアルデー」と国際的に決められ、以来各地で犠牲者を追悼する式典や「慰安婦」問題を考える集会が開かれるようになった。ベルリンでは今年も、このメモリアルデーを中心にさまざまな催しが行なわれたが、特に元「慰安婦」のイ・オクソン(李玉善)さんの証言が人々に衝撃を与えた。

車椅子のイ・オクソンさんは、現在満87歳、朝鮮半島南部の釜山生まれ。14歳のとき、道で二人の男(日本人と朝鮮人)に両腕をつかまれ、誘拐されて中国北部の延吉(エンキツ)に連れて行かれ、日本軍の延吉第1慰安所で強制的に働かされた。まだ何も知らない少女が24時間監視され、一日に40人から50人の兵士の性の相手をさせられ、死んだ方がマシだと思う生活だったという。当時この慰安所には11人の朝鮮人女性がいたが、皆イ・オクソンさんと同じ年齢ぐらいの少女たちで、一人残らず強制的に連行されてきた人たちだった。この他に日本女性も一人いたが、彼女だけは別扱いで食べ物などもいいものを与えられていたという。

イ・オクソンさんは、日本名のトミコという名前を付けられ、日本語をしゃべらないと日本軍兵士から暴力を振るわれたため、必死で日本語を覚えたが、中には、日本語を覚えなかったためみんなの前で刀で斬り殺されたり自殺したりした少女もいたという。イ・オクソンさんは1度逃亡を試みたが、発見されて連れ戻され、「足を切ってしまえば逃亡できないだろう」と日本刀で斬りつけられ、今でもその時の傷が残っている。結局1945年の終戦までの3年間、慰安婦として働かされ、その間に子どもを産めない身体にされてしまったという。

彼女たちは戦争が終わったことも知らされず、日本軍は彼女たちを置き去りにしたまま引き上げてしまった。その上彼女たちは一銭もお金を持たされていなかったし、中国人からは「朝鮮人は日本軍に協力した」として憎しみの目で見られていたため、生きるために大変な苦労をしなければならなかったという。イ・オクソンさんは食べるものがなく、栄養失調で倒れていたのが、たまたま朝鮮族の中国人の家の前だったために、生き延びることができた。戦争が終わった時に一緒だった7人の女性とはバラバラになり、彼女たちのその後の運命は知らないという。イ・オクソンさんが、郷里の韓国に帰ることができたのは、拉致以来60年ほど経った2000年になってからだった。

もちろん両親はとっくに亡くなっていたうえ、イ・オクソンさん自身も死亡通知が出されていたため、それを取り消し、改めて韓国籍を取得するまでが大変だったという。今は同じ経験をした女性たちとソウル郊外の、彼女たちのケアのために建てられたナヌムの家で韓国の人たちの手厚い保護を受けて老後を過ごしている。今回もナヌムの家の職員、キム・ジョンスク(金貞淑)さんが付き添ってベルリンに来て、8月16日にベルリンに住む日本女性たちが企画した「イ・オクソンさんにお話を聞く会」で証言したり、8月14日のメモリアルデーにブランデンブルク門前で開かれた日韓の女性たちを中心とするスタンディング・デモに参加したりした。彼女は、自分たちの人生を踏みにじった日本の政府に公式の謝罪と正当な補償、そしてなによりも彼女たちの名誉回復をして欲しいと強く訴えた。彼女の母国語による証言は、かつてナヌムの家で働いていた日本人男性が日本語に通訳した。

「性暴力の被害者の女性たちには自分の体験を恥じる気持が強く、話す勇気がない人がいますが、イ・オクソンさんはそうした気持をどうやって克服なさったのでしょうか」という、ある日本人女性からの質問に対する彼女の答えが胸に突き刺さった。「自分は悪くない、間違ったことをしているわけではないからです。それに私は一度死んだも同然の人間ですから、何も怖いものはありません。私はこうして生きていますが、無念の気持ちを抱きながら、もう亡くなってしまった女性たちも大勢います。彼女たちのためにも、ぼろぼろの身体を引きずって車椅子に乗りながらも自分たちのことを語り続けなければならない、特に日本人には知ってもらいたいのです」。

こうした証言をするのはイ・オクソンさんに限らない。これまでも多くの女性たちが少女時代に暴力で連れ去られ、意志に反して慰安婦にさせられた悲惨な体験を証言している。しかし、日本政府は「日本軍などが女性を強制連行して慰安婦にした公文書は見つかっていない」という理由から「狭義の強制連行はなかった」という立場を取る。しかし、終戦時、軍が証拠隠滅のために沢山の資料を燃やしたことは知られており、そうでなくとも戦争の混乱の中で関係資料が失われたことは十分考えられる。だから資料が見つからないことが「強制連行はなかった」ことを証明することにはならない。ましてや慰安婦制度の存在そのものがなかったという主張などは全く根拠がない。元「慰安婦」の女性たちは、自分たちの身体に刻まれた体験ほど確実な証拠はないのに、なぜそれを否定するのかと心の底から怒る。

8月14日のメモリアルデーのブランデンブルク門前のスタンディング・デモには、喪服のような黒い洋服を着た韓国と日本の女性たちを中心にドイツのキリスト教関係者や女性運動家たち約50人が参加した。日韓の女性たちは、すでに亡くなった中国や韓国、フィリピン、東チモール、マレーシア、インドネシア、オランダなどの元「慰安婦」の女性たちの大きな写真と花束を持ち、日本政府に公式の謝罪と補償を求めるプラカードや横断幕を掲げて道行く人々に「日本軍慰安婦問題」を説明するドイツ語と英語のチラシを配った。観光客が多い場所のせいで英語のチラシはまたたく間になくなり、全体として去年よりこの問題に関心を持っている人が多いという印象を受けた。特に国籍を問わず女性たちの関心と知識は高く、「これは日本だけの問題ではありません。今世界各地で戦争が起こっていますが、戦時下の性暴力という問題は過去の問題ではなく今も続いています。国際的な対応が必要です」と語る人も少なくなかった。この「日本軍『慰安婦』メモリアルデー」を国連認定の日にしようという運動が世界的な広がりを見せていることを、日本政府は認識するべきであろう。

遅きに失した感はあるが、政府に任せきりにするのではなく、元「慰安婦」の女性たちが生きているうちに、日本の国会が学者を交えた超党派の調査委員会をつくり、彼女たちから改めて公式の聞き取り調査を行なったり、これまでの学者たちや市民グループによる民間調査を検証したりする必要があるのではないだろうか。その記録を基に国会の議論と議決を経た公式の謝罪と補償を行なうことが、日本という国の名誉を救うために今となっては必要不可欠のことのように私には思える。だが、現実はそういう方向に向かってはいない。安倍総理の下での日本政府と社会はますます逆方向に向かい、日本軍の関与を認めた1993年の河野官房長官談話を否定する動きすら出ている。日本のメディアも冷静に歴史的事実を明らかにするのではなく、枝葉末節にこだわった報道とナショナリズムに彩られた不毛の議論を繰り返しているように見受けられる。

本来は加害の国の方に大局的見地からの対応が要求されるのではないか。それにつけても思い出されるのは、旧西ドイツのブラント元首相がワルシャワのナチ犠牲者の記念碑の前で思わず膝まずき、ドイツ人の冒した罪に対して許しを乞うた姿だ。彼自身は亡命先の北欧からナチに対する抵抗運動を続けた人でナチの蛮行に個人的責任はないが、ドイツの首相としてのこの行為が、どれだけ加害の国ドイツと被害を受けた国々との和解に役立ったことか。日本の政治家やメディアの責任者たちは、過去の歴史から学ぶことが未来への第一歩であることを思い起こして欲しい。

イ・オクソンさんが抗議の気持を伝えるため、ベルリンの日本大使館に面会を申し入れたところ、大使館側は「彼女の日本語が十分ではない」という理由で面会を拒否し、通訳の同伴も認めなかった。日本の外務省本省の指示によるという。少女の時に拉致され、日本兵に暴力を振るわれながら必死に日本語を覚え、人生をめちゃくちゃにされた女性に対するこのような対応は、人権意識の進んだ21世紀の国際社会では日本に対する信頼を失わせるものではないだろうか。

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