原発事故処理に見られる日本社会の「システムエラー」

まる / 2013年10月6日

もう1ヶ月前にもなるが、福島原発での汚染水問題が明らかになった後、南ドイツ新聞の解説欄で「システムエラー」という興味深い考察があった。福島原発事故から今までの東電と日本政府の対応について、日本社会の構造にまで斬り込んだ珍しい文章なので、ここでご紹介したい。

 私たちのサイトでももうおなじみの同紙東京特派員クリストフ•ナイトハート氏はまず、「福島原発の事故処理に日本政府が介入することになったのは東電にとっては都合が良い。国が責任を持てば責任を感じる者がいなくなる。だからこれからの事故処理がもっと責任を持って行われるようになると考えるのは楽天家だけである」との見解を述べる。

そして次のように耳の痛い指摘をする。「(これまでの事故処理の)いい加減さの裏に隠れているのは、本来日本が原発事故以来考えなくてはならなかったはずの本来のテーマである。つまり、責任ということである」。

同氏は「責任」とはある社会を理解するための主題の一つであるとし、「安倍首相は、第ニ次世界大戦中に日本政府の名前のもとに行われた犯罪に対する責任を、少しでも受け入れることを拒んでいる」と言う。日本では「罪を認めることは面子を失うことになり、プライドが許さない」、「日本政府はこれまで何度もそうやってスキャンダルの責任から逃れて来たのであり、一般企業でもそうであって、東電も例外ではない」と言う。

そして日本では「誰もが自分のいるべき場所を知り、自分の義務を果たす社会を作りあげてきた。個人が目立つようなことをすれば、いじめられるか追い出される。このシステムはすでに学校で始まる」と説明。「日本で電車が1秒たりとも遅れずに来ることや、雑踏の中で誰も叫んだり暴れたりしないこと、ゴミ箱がほとんどないのに道には塵も落ちていないことは、その規律の高さがあってのことである」とする。

そして同氏は問いかける。「しかし、このような義務感と規律の高い社会が、同時に無責任な社会であるのはどうしてであろう?」と。そしてその問いに自ら答えようとする。「日本には厳しいヒエラルキーがあり、会社などの集団に所属することを自らのアイデンティティーの拠り所にする。個人はそう重要でない。特に日本の男性は、ほとんど盲目に言われたことをする。たとえそれが規則を破ったり、反することになると分かっていても。法律や規則は柔軟に解釈される。グループに対する忠誠の方が大事である。違反に気がつかなければ、何も起こらなかったことになる」。

「大企業のたいていの社員たちは自らの責任を持たない。従順である。日本のヒエラルキーは今日では、かつてのようなワンマン社長によってではなく、上からの指示を鵜呑みにすることに慣れた者によって率いられている。だから、その権力の中心は、(責任逃れのための)理想的な空洞ができている。その空洞を埋めるのが、“日本的なもの”という抽象的な何か、もしくは東電の精神である。だから日本のヒエラルキーの上にいる者は、彼らに従う者たちと同様に“上ある何か”に対して義務を持つ、例えば“東電の利益”のために」。

ナイトハート氏は、日本人の盲目な従順さは好んでサムライの伝統で説明されること、サムライの仕事は今でいう警察や警備であったのに、エリートだったかのように見なされていること、サムライは唯一帯刀を許される代わりに、そのコントロールのために盲目な従順を求められたことを説明する。そして続ける。

「第二次世界大戦後、日本人は、この従順さが自分たちのメンタリティーに合う、それは武士道から来るものだから、と信じこませられた。ハーバード大学の日本研究家エドウィン•ライシャワーはそう分析している。日本人は、サムライが諸大名に屈従したのと同様、会社に屈従するのであると。多くの日本人はそれを今日まで信じたがっている。このモデルが、特に戦後良く機能したのは、ソニー、パナソニック、トヨタといった企業が当時、家父長的な創設者たちに率いられていたからである。彼らにはビジョンがあり、社員たちはそれに従った。今日、そのようなビジョンを持った経営者がいる会社は少ない。東電も含め、ほとんどの会社は、色も骨もない元“命令受け取り人”によって率いられている。そして政治でも、このシステムが踏襲されているのである」。

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