ヒトラーの『わが闘争』注釈付き新版発行

永井 潤子 / 2016年1月17日

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ナチスドイツの独裁者、アドルフ・ヒトラーの著書『我が闘争』の注釈付き新版が新年早々売り出され、国際的にも大きな反響を呼んでいる。この本の著作権が昨年末で切れるとあって、ミュンヘンの「現代史研究所」が約3年前に同書の制作プロジェクトを立ち上げ、このほど出版にこぎつけたものである。

地味なグレイの表紙に茶色の小さな字でタイトルのドイツ語、“Hitler, Mein Kampf. Eine kritische Edition“ (直訳:『ヒトラー、我が闘争—批判版』 )が印刷されている新版は、原書同様上下2巻に別れており、全部で1966ページ、重さは5.2キロもある。ヒトラーの原書はわずか780ページほどだが、これに現代史研究所を中心とする学者たちが3700ヵ所に注釈をつけ、間違いを正したり、解説をつけ加えたりしたから膨大なものになった。しかし、価格は59ユーロ(約7500円)と意図的に安く設定されている。実際には100ユーロ以上の価値があると見られており、価格設定に関していろいろ意見もあったが、学術研究書として手頃な価格にするべきだという意見に従ったという。1月8日、第1刷として4000部が発売されたが、発売日を前に1万5000以上の注文があり、事実上売り切れの状態で、目下増刷中である。第1版の10%にあたる400部は、「連邦政治教育センター」に寄付されることがすでに決まっている。

悪名高い『我が闘争』のドイツでの出版は、第二次世界大戦後アメリカ占領軍当局によって禁止されたが、その後著作権を含むヒトラーの遺産の管理権はバイエルン州に移った。ヒトラーの最後の住居がミュンヘン市内のプリンツレゲンテン広場16番地にあり、ここに本人の住民登録がされていたためだが、バイエルン州政府はこれまで『我が闘争』の再出版を許可してこなかった。反ユダヤ主義や人種差別主義などナチスの思想の基となったこの著作の再版が、ホロコーストを生き延びた人や犠牲者の遺族たちの心を傷つけること、ネオナチなど極右勢力に利用されること、さらには若者たちに悪影響を与えることなどを恐れたためである。しかし、1945年4月30日、ベルリンの地下壕で自殺したヒトラーの死から70年を経て著作権が昨年末で切れたため、今後は誰でも自由に出版できるようになった。『我が闘争』のドイツでの新たな出版がこれまで認められてこなかったとはいうものの、昔の古い版が骨董店で売られたり英語版や日本語版、アラビア語版が出回っていたりしたほか、最近ではドイツ語版をネットからダウンロードできるようにもなっていた。しかし、「第二次世界大戦後初めてドイツで出版されるドイツ語の『我が闘争』を、注釈抜きで出すわけには行かない」と、現代史研究所は歴史学者のクリスティアン・ハルトマン氏をプロジェクトの責任者として今回の新版発行の準備を進めてきたのだった。このプロジェクトには、歴史学者だけではなく、社会学者や心理学者、ユダヤ学者、独文学者、日本学者、それに自然科学者まで幅広い分野の150人の学者たちが協力している。

ヒトラーが『我が闘争』の執筆を開始したのは、1923年11月のいわゆるミュンヘン一揆(ベルリンのワイマール共和国体制を倒そうと企てた武装蜂起)に失敗して1924年4月1日、禁固5年の有罪判決を受け、ミュンヘン近郊のランツベルク・アム・レヒの要塞で刑に服していたときだった。禁固刑とはいっても、昼間は面会も文通も自由、同志との会合や会食も自由という形だけのもので、ヒトラーはこの期間に自分でタイプを打って第1巻を完成させた。しかも同年12月20日は早々と釈放されている。ヒトラー自身、この期間のことを「官費で大学に通っているように、いろいろ学べた快適な時期だった」と回顧している。

当時ヒトラーは30代の半ば、すでに国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の党首であり、熱烈な演説で知られてはいたが、それほど大きな政治的影響力があるという訳ではなかった。「決算」というタイトルのついた第1巻のはじめでヒトラーは自分の生い立ち、暴力を振るう父親、画学生になることに失敗したウイーンでの惨めな生活、貧しさなどについて触れ、反ユダヤ主義や軍国主義の目覚め、党の結成にいたるまでの経過などを記述している。ヒトラーはこの本に最初『嘘と愚かさ、臆病に対する4年半の闘争』というタイトルをつけることを望んだが、長すぎるので『我が闘争』になったという経緯がある。この第1巻は最初1万部刷られ、1925年7月18日に12ライヒスマルクで発売されたという。

「ナチ、国家社会主義労働者運動」というタイトルの第2巻は、当時の秘書でのちの総統代理、ルードルフ・ヘスに口述筆記させたもので、1926年末から27年にかけて完成した。この巻では、ナチの世界観、ユダヤ人やボリシェビズム(共産主義)への憎悪、ドイツ人の生活圏確保のための東への領土拡張政策などが中心となっているが、雑駁な記述と繰り返しが多い。上下2巻の『我が闘争』はヒトラーが首相に就任する1933年までに21万1000冊発行された。ナチの権力掌握とともに発行数はうなぎのぼりになり、最終版の1944年秋までに1031版、部数は1240万部にのぼったという。これに対してヒトラーは1500万ラヒスマルクの報酬を受け取ったと伝えられる。ナチ時代には『我が闘争』が誕生日や結婚式のプレゼントにされることもあったというが、実際に読んだ人は少ないと言われている。『わが闘争』は、18の言語に翻訳された。

注釈付きの出版が予告されて以来、この出版を巡って賛否両論、激しい議論が行われてきた。発売開始当日の1月8日の南ドイツ新聞にも「注釈付きの『我が闘争』を出そうというこのような試みが、失敗に終わるのは目に見えている」という言葉で始まる厳しい反対論が1ページを潰して掲載されたが、著者のイギリスのゲルマニストで詩人のジェレミー・アードラー氏は注釈付きの新版を1字も読まずに批判を展開していた。新版を出すこと自体スキャンダルで無意味だという考えのようである。また、注釈付き新版を読んだ学者の中には今回の新版を評価する人も多いが、なかには安楽死やホロコーストを専門とするドイツの歴史家、ゲッツ・アリ氏のように、細かな注釈がたくさんある一方で、政治的に重要だとみられるヒトラーの記述の内容について、十分なコメントがない場合もあると指摘する人もいる。『我が闘争』の最初の方でヒトラーは一種の教養小説のように自分の生い立ちを詳しく綴っているが、アリ氏は細かな注釈の例として、学校に通ったオーストリア・リンツの町についての記述をあげる。「リンツの町には当時ユダヤ人は非常に少なかった。それも大抵はヨーロッパ化された、いわゆる同化したユダヤ人だった」。ヒトラーのこの文章に対して「1900年リンツのユダヤ人社会のメンバーは最大587人だった。しかも正統派ユダヤ人はほとんどいなかった」という傍注が付いている。

その一方、当時のヨーロッパの右翼過激派は、国家主義的であると同時に社会的な目標を掲げており、ナチ党も例外ではなかった。ヒトラーは「幅広い大衆の教育は、彼らの社会的な地位を引き上げるという一見遠回りのような方法でしか可能ではない」と、ドイツの下層階級の社会的上昇の可能性について書き、ドイツ人の社会的格差をなくすには上層階級を引き下ろすのではなく、下層階級を引き上げることによって克服できるとしている。そしてそのプロセスで主役を務めるのは、上層階級ではなく、同権を求めて闘う下層階級の者でなければならないと主張する。こうした主張こそナチが大衆の支持を得ることのできた理由だと思われるが、これについての詳しい解説はないとアリ氏は指摘する。

注釈付き新版の発売開始当日の1月8日、ミュンヘンでは現代史研究所のアンドレアス・ウィルシイング所長、プロジェクトの責任者、クリスティアン・ハルトマン氏、応援に駆けつけたイギリスの歴史家で、ヒトラーの伝記の著者として知られるイアン・ケルシャウ氏が出席して記者会見が行われた。この会見には、外国人記者も大勢参加し、国際的な関心の高さを表していた。この記者会見で示された現代史研究所側の見解を以下にまとめてみる。

▫️ 注釈付きの『我が闘争』の新版を出す必要性について

もちろん必要だった。自覚的な民主主義の国では、こうした出版を避ける理由は何もない。確かにヒトラーはこの本のなかで彼の憎悪と妬みに満ちた世界観を記しているが、我々は彼の原文の虚偽の記述や事実関係の誤りを指摘し、記述の背景を説明し、様々な角度から歴史的、政治的な解説を加えた。彼の文章は我々のつけた脚注や傍注によって、いわば「包囲されている」。「ヒトラーの非人間的な著書に対して抗議の文書を作りたい」という欲求は満たされたように思う。先入観にとらわれない読者がこれを読んでナチの信奉者になることは考えられない。『我が闘争』がなんの注釈もなく出回る危険は、取り除かれた。そういう事態を招いたとしたら、無責任のそしりを免れなかった。

▫️ 解説のつけ方に工夫

解説は最後に付録としてつけるのではなく、右のページにヒトラーの原文を載せ、左のページに解説を載せるという風に、原文と解説を同じページに載せた。つまりヒトラーの文章が解説なしで読まれることがないよう、努力した。こうした掲載の仕方は、政治的にいかがわしい読者に対応する唯一の方法だと考える。もっとも、極右の人たちが実際にヒトラーの本を読むとは思えないが。

▫️ 虚偽の記述の指摘

ヒトラーは自分自身を神秘化し、ドイツの救世主だと思わせるため、様々な“神話“や架空の作り話しをしたり、事実を誇張して書いたりしている。例えば、1919年、第一次世界大戦で敗れたドイツに押し付けられたベルサイユ条約について、ヒトラーは「1924年に2千人の聴衆を前にベルサイユ条約の過酷さについて熱弁をふるった。その3時間後には怒り狂った大衆が大波のように押し寄せてきた。またしても大きな嘘は暴かれ、代わりに真実が植えつけられた」と書いているが、これは全くのナンセンス。当時ヒトラーの集会に100人以上聴衆が集まることはなかったという。

▫️ 『我が闘争』の中には、ナチが政権を掌握した後のドイツ国家の政策の輪郭が現れているが、しかし、まったく同じものではない。また、ヒトラーは書物よりも演説を通じて、人々の心を掴んでいったことも思い起こすべきである。さらにヒトラーに注目するあまり、ナチの体制の責任をヒトラーのみに負わせる危険を冒してはならない。『我が闘争』はナチに関する多くの資料の一つに過ぎないが、この注釈付き新版は、ヨーロッパにおけるナチの支配理念を理解することにも役に立つ。

なお、この『我が闘争』の注釈付き新版を学校教育に取り入れるべきだとドイツ教員連盟は提案している。「若者は禁止されたものに逆に惹きつけられる。ヒトラーの挑発的な著書を批判的に読むことによって、若者を過激主義から守ることができる」というのが、同連盟のヨーゼフ・クラウス会長の意見である。しかし、この提案に対してユダヤ人団体が危惧の念を表すなど、議論が続けられている。

 

One Response to ヒトラーの『わが闘争』注釈付き新版発行

  1. 若大将 says:

    じゅんさん、こんにちは。興味深く読ませて頂きました。
    ところで、ナチス・ヒトラー関連で、前から気になっている事があります。それは車のVWビートルについて。
    有名な初代ビートルは戦後のドイツ復興を支え、世界的にヒットして日本でも有名ですね。
    しかし元々この車は、戦前1938年にヒトラーがポルシェ博士に作らせた車で、当時ヒトラーが得意顔で黒いオープンのビートル(ヒトラー時代はKdfワーゲンと呼んでいた)に乗っている映像がYOUTUBEにもUPされていますね。
    先進的で優れた小型車だったから、そのままの姿で戦後大ヒットしたのですが、僕はクラシックカー好きでビートルに魅力を感じつつも、ルーツがヒトラー時代なのが嫌で好きになれません。
    現代のVWには、初代を模したニュービートルもありますが、ドイツの人達はビートルに関して、ヒトラーとの係わりは無かったことと割り切っているのかな?