東西ドイツ統一27年 ー 二つに割れたドイツ?

ツェルディック 野尻紘子 / 2017年10月15日

旧東西ドイツが統一したのは1990年10月3日で、今年の10月3日でそれから27の年月が過ぎた。統一当時、第二次世界大戦以来45年間にわたって、別々の異なった道を辿ってきたために生じた両ドイツ間の差は、一世代も経てば無くなるだろうと言われた。ところが、この9月24日に行われた総選挙の結果は、東西ドイツ地域に大きな差があり、東西はむしろ真っ二つに別れていることを明らかにした。この事実は、ポピュリズム政党が第三党になったことと並んで、大勢の国民にショックを与えた。ドイツは二つに割れたままの国なのだろうか。

総選挙の結果は、今までの与党でこれからも与党に留まるメルケル首相の率いるキリスト教民主同盟・キリスト教社会同盟(CDU・CSU)が、東西両ドイツ地域で第一党に留まり、得票率の東西の差が5.7%と比較的少なかった。それ以外は東西で大きな違いがあった。まず、同じく今までの与党であった社会民主党(SPD)は、西ドイツ地域では得票率22.1%で第二党に留まったが(従って全国でも20.5%で辛うじて第二党)、東ドイツ地域では14.3%の得票率しか得られず、第四党に転落した。東西の差は7.8%に及ぶ。今回全国で第三党に躍進したのは新興ポピュリズム政党「ドイツのための選択肢(AfD)」で、一挙に12.6%を獲得した。支持者が圧倒的に東ドイツ地域に多く、そこでの得票率は22.5%で、第二党だった。これに対し西ドイツ地域での得票率は11.1%で、東西の差は11.4%にも及ぶが、それでも第三党になっている。

2013年の選挙では5%条項に阻止されて連邦議会に議員を送ることのできなかった 自由民主党(FDP)は、得票率10.7%で今回議会に返り咲き、第四党になった。今まで全国第三党だった左翼党は、主に旧東独のドイツ社会主義統一党(SED)を引き継いで生まれた党だ。縄張りは東ドイツ地域で、今回も東ドイツで17.4%を得た。これに対し西ドイツ地域での得票率は 7.4%で、東西の差は10.0%だった。今回第五党になってしまった緑の党は、西ドイツ地域では9.8%の得票率を得たが、東ドイツ地域では僅か4.7%しか得ていない。

ドイツでは政党を視覚的に区別するために各党にシンボルカラーを与えることがよくある。今回の選挙結果を、シンボルカラーを使ってまず州単位の各党の得票率を地図に表すと、第一党の場合、全国16州のうち14州がCDU・CSUの黒、ブレーメン1州だけがSPDの赤、そしてザクセン州がAfDのブルーとなる。ザクセン州は元旧東独地域だったところだ。シンボルカラーを使って第二党を表して見ると、東西の差が見事にくっきりと現れる。ブレーメン(第二党はCDU)を除く全ての旧西独地域の州(9州)がSPDの赤、ザクセン(第二党はCDU)を除くすべての旧東独地域の州(4州)は全てブルーになるのだ。そしてベルリンは左翼党の真紅だ。

元々、ベルリンは特別だ。現在のベルリンは以前の東ベルリンと西ベルリンで構成されている。ベルリンはいわばドイツ統一の縮図で、選挙結果も旧東西ベルリンでガラリと異なる。このことは全国299の選挙区を、それぞれの選挙区で当選した候補者の属する党の色で表すと、はっきり見えてくる。結果は、CDU・CSUの黒が231区、SPDの赤が59区、左翼党の真紅が5区、AfDのブルーが3区、そして緑の党の緑が1区となる。ここで面白いのは、まず左翼党の真紅のうち4区が東ベルリン、1区がザクセン州のライプツィヒ市の選挙区であることだ。ブルーの選挙区は全てザクセン州にある。そして緑の党の候補者が全国でただ1区を獲得したのは、ベルリンの中央に位置するフリードリスハイン・クロイツベルク区で、 ここは以前には東ベルリンだったフリードリスハインと西ベルリンだったクロイツベルクが行政改革で一緒になって新たに生まれた区だ。

今回の選挙後、新聞やテレビの報道は、まず、与党が票を大きく減らしたこと、そして難民反対や外国人排斥、ネオナチ的な主張を掲げるポピュリズムの政党であるAfDが第三党になったことを大きく報道した。また、AfDに投票した人たちの多くが旧東独地域の有権者であったことを、上で説明した赤とブルーに染まったドイツの全国地図を見せるなどして解説し、旧東西ドイツの統一が如何にまだ達成されていないかを強調することも多かった。AfD投票者の3割程度は、右翼的な思考の持ち主だが、残りは、これまでの政府や既成政党に対する不満や怒りに対する抗議票が大半だということは、選挙の結果を分析した学者たちがすぐに発表している。それでも、政治家やジャーナリスト、経済専門家たちはまず、旧東独地域の経済発展に原因があるのではないかと考えた。

東ドイツ地域の人口一人当たりの国民総生産は、統一当時には西ドイツ地域の35%だったが、現在は73%にまで上ってきている。2005年には西ドイツ地域(9.9%)の約二倍にまで増えていた東独地域の失業率(18.7%)が、この9月には5.1%と7.1%になり、差は確実に縮まっている。 同等の仕事に対する東西間の給料もほぼ等しくなった 。

しかし、東独地域の経済が「遅れを取り返す期間はもう終わった」と言うのは、ミュンヘンにあるIfo経済研究所のドレスデン支部のラグニッツ支部長だ。ここ数年来、東部の経済がほとんど成長していないのだ。「東西の経済格差がいつか無くなるというのは幻想だ」と語るのはハレ経済研究所のホルテンメラー教授だ。「東独地域の経済力が西独地域に及ばない背景には、まず大企業の本社が存在しないということがある」と説明する。500人以上の従業員を抱えるドイツ企業の9割は、所在地が西独だ。大企業の本社には研究開発、マーケティング、営業、融資、財政、人事、法律部門などがあり、大勢の優秀な人材が集まり、給料のレベルも高い。東独地域でもドレスデン、イエナ及びベルリン近郊に優秀な新しい企業が誕生しているが、規模はまだごく小さい。

次に、東独地域では 1990年〜2015年までに人口が15%も減ったという事実がある。若くて優秀な労働力が仕事を求めて西ドイツ地域などに移ったのだ。特に女性が男性より多かった。さらに現在東独地域には高学歴の人が少なく、中学や高校を卒業しない人たち、つまり資格を取らずに学校を中退してしまう人が増えているという。低賃金雇用者の割合は西独地域では18%だが、東独地域では28%にも及ぶ。彼らが、ドイツにやって来る大勢の難民を職探しの競争相手と見なすことは十分考えられる。さらに、押し寄せてくるグローバル化やデジタル化に不安を感じるのは当然だ。

また、旧東独時代には正規雇用されていたが、勤めていた会社が閉鎖され、失業を経験し、現在は持っている資格以下の仕事に就いて、不満を抱えている人たちも少なくないようだ。彼らは様々の変化を経験してきており、外国人やイスラム教徒が増えて、やっと落ち着いてきた彼らの生活に、又しても変化が起こることを懸念している。

人口が減り、老人は多いが若い人と子供が少なく、スーパーも医者も役所も近所になく、バスも1日に何本しか来ない村。そして最後には小学校や飲み屋まで閉鎖されてしまう村。西独地域でもルール地方や西南部にそういう村はある。そこではやはりAfDの得票率が高かった。しかし東独地域ではそういう過疎地が増え続けている。

ドイツ統一記念日に寄せて、ドイツの有力紙「フランクフルター・アルゲマイネ」に賢い社説が載っていた。「ドイツの一体化は地方、特に過疎地で、誰もが考えているよりずっと進んでいる」とその記事は始まる。「東独地域の発展を憂慮して『東独地域省』を作ろうとする提案は建設的ではない。現在ある、政府の『東独地域担当特別委員』の職は廃止すると良い。この役所の仕事は、同地域の特徴を強調するだけだ。そこが発表する報告書には、東独地域と西独地域の隔たりは、あと何メートルに縮まったというようなことばかりが書かれている。これでは、東独地域の人たちは、いつまで経っても西のレベルに辿りつけず、悲観的になるだけだ。そして西側の人たちは、いつまで東を援助しなければならないのかと不満を積もらすだけだ」。この社説の筆者は、東西間の溝は金銭だけでは解決できないと書いている。そして、20年来ザクセン州の旧農園で続けられている話し合いの場を紹介している。そこでは、西独出身者と東独出身者が互いに彼らの人生の経験について語り合い、物事を他人の目、反対側から見ることを学び、偏見を破るように努力しているという。

今年の統一記念日のモットーは「みんながドイツだ」だった。今回の選挙結果が、みんなを揺さぶり、東西両ドイツ地域の人たちが、お互いの理解をより深める努力をし、一体となっていくことを希望する

Comments are closed.