『廃炉に向けて』 – 25年前、日本の女性たちが鳴らしていた警鐘
体調を崩して寝込んでいて、ベッドの向かい側にある本棚をぼんやり眺めていた時だった。突然分厚い本の表紙に書かれた「廃炉に向けて」というタイトルが目に飛び込んで来た。慌ててその本を手に取ると、それは1986年のチェルノブイリ事故の後にサイエンスライターで環境問題・平和問題研究家の綿貫礼子氏が女性の立場から原発の危険に対して警鐘を鳴らして編集した、学問的にも非常にレベルの高い本だった。
この本は「廃炉に向けて、いま女たちは」という座談会で始まるのだが、出席者は社会学者の鶴見和子、女性問題研究家の青木やよひ、国際問題評論家の北沢洋子、原発裁判にも関わった弁護士の福武公子など第1線で活躍する女性たち7人。その座談会を読むだけでも、原子力の危険について今の日本のマスメディアの報道よりずっと本質をついていて、こういう本が25年前に出ていたこと(実際に本が出版されたのは1987年1月)に驚くとともに、当時彼女たちが心から恐れていたことが実際に起こってしまったことに一瞬絶望的な気持にとらわれた。そしてなぜこうした女性たちの「原発をなくさなければ」という切実な気持が日本では現実の力にならなかったのか、さまざまなことを考えさせられた。当時は脱原発という言葉は使われていなかったようで、この本に脱原発という言葉が1度も出て来ないのも興味深かった。
この座談会の内容を誌上再録した文章には、ところどころにまとめの短い言葉が付けられている。「事実は容易に知らされない」「子を産めぬ汚染状況」「今までの原子力“伝説“が吹きとんだ」「平和の中でのジェノサイド」「将来世代に負うグローバルな責任」「放射能汚染はセクシズムに作用する」「原発はより過疎地へ」「死を許容している原発社会」「暮らしを変えて原発を追い出す」などというまとめの言葉を見るだけで、フクシマ後の日本のいまの状況とぴったり重なって見える。
「女性にとって原発とは何か」というサブタイトルのついたこの本は、日本の2人の原子力専門家、独自の科学評論を駆使して脱原発の市民運動の先頭に立っていた故高木仁三郎氏とムラサキツユクサを用いて微量放射能で遺伝子が変わることを世界で初めて実証した、国際的に著名な遺伝学者、市川定夫氏とのインタビューの他、アメリカにおける原子力産業について「スリーマイル原発事故はどうして起こったか」という記録の他、ジョン・ゴフマン博士とアーネスト・スターングラス博士という2人のアメリカの科学者の原子力裁判での証言記録も載せている。
25年前に私がこの本をキチンと読んだかどうか、まったく記憶がないのだが、今回この本から学んだことはいくつもある。例えばセシウム137の危険は知っていたつもりだったが、遺伝学者の市川氏の口からいろいろな核種の中で男性と女性に対する影響の違いがあるものが多いことを具体的に説明されると、“目からウロコ“の感じがした。半減期、30年のセシウム137は筋肉に入りやすいが女性の場合には卵巣に集まりやすく、妊娠した場合、胎盤を通じて直接胎児に移行してしまう。授乳中の母親の場合には乳腺に集まってくる、そしてお乳に入って赤ちゃんに行く、つまりセシウムが環境に放出されると、女性の生殖細胞が大きな被害を受ける、そして女性の排卵は毎月1個だけだから、沢山の精子の間で競争が起こる男性の場合と違って被曝した卵子による遺伝的障害は非常に大きくなるという遺伝学者の説明には「なるほどそうか」と納得がいった。甲状腺癌になることで知られる放射性ヨウ素の場合も、妊娠中の女性では、自分の甲状腺にはあまり集まらず、胎盤を通じて胎児に集まるという怖い事実も知った。
また、チェルノブイリ原発事故の後、ヨーロッパの妊娠中絶が認められている国では、中絶を求めて妊娠中の女性たちが産婦人科に殺到したという事実やフィンランドの女性たちの反原発の署名運動も私の知らないことだった。放射能の危険を感性で捉えたフィンランドの女性たち4000人が自国の原子力政策に抗議して「1990年までにすべての原発を止めない限り、自分たちはこどもを産まない」という決議文に署名したという。そのため当時フィンランド政府は5基目の原発をストップさせたというが、結果的には女性たちの希望は満たされなかったようだ。共同通信発行の「世界年鑑2011年版」によると、地球温暖化防止やロシアの石油依存からの脱却を狙い、フィンランド政府は原子力発電を積極利用、原発への依存度は約30%とある。2001年、議会は高レベル放射性廃棄物を地下500メートルの岩床に半永久的に貯蔵する最終処分場の建設を世界の原発保有国で初めて承認し、2005年には世界最大級の5基目の原子力発電所の建設を開始したとも書かれている(フィンランドのオルキルオトにあるこの最終処理場については、「100000年後の安全」というドキュメ ンタリー映画で日本でも紹介された)。女性の大統領や女性首相を2人も出したフィンランドのその後の原発政策は、私にはちょっと意外だった。
いずれにしてもチェルノブイリ事故が起こった頃のアメリカやヨーロッパの反原発運動は、原発に対する危機感を肌でとらえた女性たちが中心だったというが、日本では違ったとか。「政治活動などは父ちゃんの仕事」と考えられたためか、日本の反原発運動で実際に活動する人には男性が多く女性は少ないという特殊性が見られたという。しかし、意識的には女性の原発に対する抵抗感は強かったのだが、女性の原発に対する拒否感は「素人の情緒的な反応」として一段低く見られる傾向が日本では強かったとか。綿貫氏は当時の朝日新聞の世論調査(1986年8月)を例に、男女の意識の差を指摘している。この調査では全体としては原発推進に反対する人が41%で、推進賛成が34%となって、それまでの比率が逆転したことがトップ記事になったという。しかし、よく見ると男女差が大きく、男性だけでは、推進賛成が47%で、反対は32%と賛成派が多く、逆転などしていないのだった。女性では、推進反対が49、4%と圧倒的に多く、推進派はわずか13%に過ぎなかった。国の最高決定機関である国会議員に女性が少なく、マスメディアも依然として男性中心という日本で、こどもを産み育てる性である女性たちの原発反対の声が、国の原子力政策に少しも反映されなかったことは、悲劇以外の何ものでもない。
『廃炉に向けて』の編者、綿貫礼子氏はチェルノブイリ事故後「核と原発をなくす女たちの会」を立ち上げ、「原発を止める広告を出す女の運動」を続けてきたが、残念ながら日本の原子力政策を変えるほどの力は持たなかった。
綿貫礼子編『廃炉に向けて、女性にとって原発とは何か』(1987年1月、新評論社刊)