原爆投下指令から75年、ポツダムで行われた式典

池永 記代美 / 2020年8月1日

ベルリンから隣のポツダム市に電車で向かう途中に、グリープニッツゼーというレンガ造りの小さな駅がある。駅名の由来となったグリープニッツ湖の周辺には森が広がり、近くにはプロイセン王室ホーエンツォレルン家が建てた宮殿も点在していて、この一帯はベルリン近郊で最も美しい場所だ。19世紀後半には高級住宅地として開発され、今も瀟洒な邸宅が並んでいる。7月25日、その一角にあるヒロシマ・ナガサキ広場で原爆の犠牲者を追悼し、核兵器の廃止を求める集会が行われた。

ヒロシマ・ナガサキ広場。記念碑の制作は、石彫刻家藤原信さん(故人)を中心に行われ、2010年に除幕式が行われた。

 

人類史上初の原爆がアメリカ軍により広島に落とされたのは、1945年8月6日。その3日後の8月9日には、長崎に二つ目の原爆が投下された。ではなぜ、7月25日に式典が行われたのだろうか。そもそも、日本から8700kmも離れたポツダム市に、なぜヒロシマ•ナガサキ広場があるのだろうか。

75年前のこの時期、正確には7月17日から8月2日まで、ポツダムではドイツの分割統治や賠償、領土問題など、第二次世界大戦の戦後処理を決定するための会談が行われた。本来この会談は敗戦国ドイツの首都ベルリンで行われるはずだったが、廃墟と化したベルリンには会談の開ける適切な建物がなかったため、ベルリン郊外のポツダムが開催地に選ばれた。会談はプロインセン王国最後の皇太子ヴィルヘルムとその妻ツェツィーリエのために作られた宮殿ツェツィーリエンホーフで開かれた。しかし会談に出席した米国のトルーマン大統領、イギリスのチャーチル首相、ソ連のスターリン共産党中央委員会書記長は会談開催中、そこから5kmほど離れたグリープニッツ湖の近くの邸宅に滞在した。

トルーマン大統領が住んだため「リトル•ホワイトハウス」と呼ばれたのが、出版業を営む資産家が1891年に湖畔に建てた15も部屋を擁する立派な邸宅だった。ここに大統領が滞在していた間に、アメリカは原爆の実験に成功し、人類史上初となる原爆投下の指令も出した。指令は正確にいうとワシントンから出されたもので、 トルーマンがポツダムから出したものではない。しかし7月25日に出された原爆投下指令の草案を、トルーマンに随行してポツダムに来ていたスティムソン陸軍長官とマーシャル陸軍参謀総長が、その前日の7月24日にポツダムで受け取り、承認したことがわかっている。その意味で、アメリカの大統領であり軍の最高司令官であったトルーマン及びその側近が滞在したポツダムは、原爆ゆかりの地といえるのだ。そしてそのため、「リトル•ホワイトハウス」の向かいにある小さな緑地が、 のちにヒロシマ•ナガサキ広場と名付けらることになったのだ。

今年の式典を主催したのはヒロシマ広場を作る会、ポツダム市、ベルリン=ブランデンブルク外国協会、ポツダム室内楽アカデミーで、核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)や核戦争防止国際医師会議 (IPPNW)のドイツ支部なども支援した。主催者の一つであるポツダム市は、今年は原爆投下75周年という節目の年であるため、平和や反核を訴える様々な催しを開くことを計画していたそうだが、コロナ禍のため、来年に延期したという。 この日の式典も、人がたくさん集まるのを防ぐため、あえてひろく広報はせず、集まった60名ほどの人たちも、密にならないよう気をつけて、用意された椅子に座ったりその周辺に立ったりと、コロナの影響を感じずにはいられなかった。

広島と長崎で被爆した石の埋められた石板には、日独英の3カ国語で、原爆犠牲者の追悼の言葉やこの場所の説明が刻まれている。

式典では 原爆の犠牲者への追悼が行われただけではなく、ICANやIPPNWのメンバーが、現在の問題を強調したことが私には強く印象に残った。まず驚くのは、世界中合わせると核兵器が 1万4000基もあるということだ。また、 核兵器の全廃と根絶を求める核兵器禁止条約は、2017年に国連で採択されたものの、まだ40カ国しか批准をしておらず、あと10カ国が批准しなければ発効されないということだ。世論調査によると、ドイツ人の92%は核兵器禁止条約に賛成しているが、それが強い世論になっていないため、ドイツは同条約の批准どころか、署名もしていないという。そこで原爆投下75周年の今こそ、核兵器の恐ろしさを警告し、行動することが必要だという呼びかけが行われた。実はこの問題は、日本にも当てはまる。唯一の被爆国として世界中に核兵器の悲惨さを訴えることができるはずの日本も、この条約の署名を拒否しているのだ。日本では毎年原爆記念日に、広島でも長崎でも追悼式典が行われているが、この条約に署名、批准することこそ、原爆の犠牲者やその遺族の思いを受け止めることになるのではないだろうか。

「リトル•ホワイトハウス」の前の広場が、ヒロシマ•ナガサキ広場と命名されたのは、比較的最近のことだ。原爆とポツダムの関係、そしてトルーマンの滞在した邸宅の意味が、ポツダムの人たちに強く認識されるようになったのは、原爆投下から60年を経た2005年のことだったという。市民の働きかけを受け、まずポツダム市議会がそれまで名前のついてなかった緑地をヒロシマ広場と名付けることを決定した。その後、今度はこの広場を追悼、警告のための記念の地にしようという動きが始まったという。2010年に、記念追悼碑が設置されたときはまだヒロシマ広場という名前だったが、記念地作りに関わってきた人たちの「長崎の原爆被害者を忘れてはならない」という思いが受け入れられ、広場はヒロシマ•ナガサキ広場と改名された。

広場の命名、改名、そして記念地づくりの経緯を知ると、地元ポツダムやベルリンの様々なグループや団体がこの運動を支援してきたことがわかる。彼らは式典のような行事や平和についての会議など大きな催しを開くだけでなく、原爆記念日の灯籠流しなど、普通の市民に日常の中で、歴史と向かい合うようなきっかけ作りも行ってきた。以前私はあるドイツ人から、「いま、自分が立っている場所の歴史を掘り起こしてみよう」という言葉を教えてもらった。確かに自分たちの立っている場所、住んでいる場所の歴史を掘り起こすことで、教科書に載っていないような地元の歴史を知ることができ、そこから歴史についての新しい視点を学ぶことができる。ポツダム会談のような世界史に関わる大きな出来事に接することは稀かもしれないが、知られていない地元の歴史を掘り起こすことは、歴史を理解する上で、それと同じぐらい重要なことなのではないかと思う。

2015年の式典についてはこちらを:なぜ原爆は投下されたか

 

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