ベルリンの壁崩壊から29年、ドイツ統一から28年

永井 潤子 / 2018年11月11日

28年もの長い間東西ドイツを分断していた「ベルリンの壁」が、思いがけなく事実上崩壊したのは、1989年11月9日の夜のことだった。当時旧東ドイツの改革を求める市民のデモが高まりを見せていたなか、東独の政治局員が記者会見でおこなった間違った発言がきっかけとなって、東西の境界線検問所に多数の東ベルリン市民が押し寄せた。混乱を恐れた検問所の係官は、検問所を開放せざるを得なくなったのだ。11月9日、ドイツは「ベルリンの壁」崩壊の29回目の記念日を迎えた。

今年の壁崩壊の記念日には、ベルリン市主催の記念式典などが催されただけで、25周年記念の時のような派手なイベントはなかった。(今年の11月9日は、1918年のワイマール共和国誕生から100年、1938年のナチによる大規模なユダヤ人迫害から80年というドイツの歴史上の出来事を想起する記念行事が中心となった)。しかし、来年の壁崩壊30周年記念には大々的な記念行事が行われる予定で、人気歌手を集めてベルリンで行われる記念コンサートの切符の発売は、もうすでに開始されている。記念のコインも発売される予定で、その申し込みの受付も始まっている。壁が崩壊してから今までにすでに、壁が存在した28年以上の時間が経過している。30年近い間には、東西間の経済的な格差や生活水準の違いは、かなり縮小したが、まだ克服すべき課題はたくさんあり、新たな問題も生まれている。

ドイツ統一の現状について、今年、連邦政府が発表した「ドイツ統一の現状に関する年次報告」では、「我々は多くのことを達成した」とかなり成果が強調されている。この報告をまとめたのは、連邦政府の新五州(旧東ドイツ)担当に新たに就任したクリスチァン・ヒルテ経済・エネルギー省政務次官で、彼自身も東部テューリンゲン州出身である。彼は年次報告を発表するにあたって東部ドイツ市民の復興への努力を称賛するとともに、統一後の全ドイツの連帯を高く評価し、「まだいろいろ問題はあるにしろ、我々はこれまでに達成できたことを誇りに思っていい」などと述べた。

「東西ドイツは統一以来絶えずお互いに協力しあいながら東部の民主化と生活水準の向上に努力した。その結果、東部の村や町は綺麗に修復され、交通や通信手段などのインフラは整備された。また、環境問題は改善され、医療や保険制度は充実した」とヒルテ次官は具体的な例を挙げている。

統一記念日に先立ち9月下旬に発表された「ドイツ統一の現状に関する年次報告書2018」

この年次報告によると、この28年の間に東部ドイツでの経済力は2倍以上になった。しかし、一人当たりの国民総生産は、2017年になってもなお、西側の73.2%にとどまっている。これは、東部地域の企業のほとんどが中小企業で、大企業の東部進出が少ないことにもよる。DAX(ドイツの優良企業30銘柄を対象とした株式指数)に含まれる優良企業のうち、東部に本社を置く企業はいまだに一つもない。それでも東部の都市の中には、電子工学や光学の分野でのイエナ、機械製造分野のマクデブルク、マイクロエレクトロニクス分野のドレスデン、風力発電のロストックなど、それぞれ特色のある経済地域が生まれている。労使の話し合いで決められた東側の労働者の標準賃金は、西側の98%まで追いつき、差はほとんど縮まった。失業率については、統一直後は二桁あった東部の失業率は、2017年には7.6%に下がったが、西側の5.3%に比べればまだ高い。年金額では、東の年金額は西の95.8%で、遅くとも2024年には完全に東西同額になる予定だという。

年次報告は、こうした点を指摘した後、「28年の間に多くのことが成し遂げられたが、これからやるべきこともまだたくさんある」とする。一番の深刻な問題は、東部各州での人口の急激な減少である。統一以来東部地域での人口は約250万人減っている(1990年に東ベルリンを除く旧東独地域の人口は約1500万人だったが、2017年には約1250万人に減った)。東部新五州のうち最も人口が減ったザクセン・アンハルト州では、人口減少は22%にものぼっている。東部地域では統一直後の困難な状況の中で出生率が大幅に減ったほか、若い人たちが職を求めて西側へ、あるいは外国へ流出したことが大きい。特に東の都市部を除く地方の村々で、若者が減り高齢者のみが暮らす地域が増えていることは、今後さらに深刻な問題になると思われる。例えば、ドレスデンにあるIFO研究所のヨアヒム・ラグニッツ氏は、東部地域の人口は2050年には、950万人に減るだろうと悲観的な予測をしている。もっとも、過疎地が増えている問題は、東に限らず、西側にも存在する。そのため、今年の年次報告は、今後は東西の両地域における経済構造の弱い地域に対する総合的な対策が必要だと強調する。

ドイツの右翼ポピュリズム政党「ドイツのための選択肢(AfD)」が特に東部地域で勢力を伸ばしていることから、その背景には、統一以来の旧東独市民の不満が、難民問題をきっかけに噴出したとも見られている。旧西ドイツの連邦基本法にのっとり西の連邦共和国に東が編入される形でドイツ統一が実現されて以来、東部市民は社会主義体制から市場経済への急激な変化にさらされてきた。それと同時に、東の市民は「西側に比べ、自分たちは2級市民」という劣等感を感じさせられてきたという。東西ドイツの統一については、これまで社会主義体制の克服や経済、生活水準の格差克服に力が入れられてきたが、東部市民の蓄積されてきた心理的な不満には、焦点が当てられてこなかった。今後は東部市民のそうした気持ちに寄り添った対策が必要だということに、統一後30年近く経って、やっと西側の人たちも気がついたようだ。政府の年次報告もその点を指摘している。

東部出身の若い歴史学者の一人、ボーフム大学歴史学研究所のマルクス・ベーイック氏は、統一直後に東の国有企業の多くを処理した信託公社の仕事ぶりに東部市民の不満の遠因があると研究発表し、注目された。これまで学問の世界で、このテーマが取り上げられることはなかったという。統一から30年近く経った今も、東西ドイツ人の意識の差はなお大きい。例えば東部ドイツ人の46%が統一後の民主主義に満足していないというが、西部ではその割合は33%に過ぎないという。

旧東独市民が、統一後非常な困難に直面したこと、そのことに対する西側市民の理解が十分でないことに不満を持つのは私にもよく理解できる。しかし、東独時代に比べ良くなったことがたくさんあると思うのだが、それについて東部の人たちはどう思っているのだろうか。旧東独市民はもともと、民主主義と自由を求めて立ち上がり、ドイツの地で初めて無血革命を実現させたのだ。外国人ながら西側に40年以上暮らし、壁が解放した時の感激を東西ドイツ人と共有した私の目から見ると、獲得した自由や民主主義の意味を東独市民自身が忘れてしまっているような印象を受ける。それとも年月が経つとともに、東独時代の物心両面での不自由な生活、国家警察シュタジーに監視されていた息苦しい社会が忘れられたのだろうか。手にしたものの貴重な価値を評価せずに、不満が増えていること、さらにはリベラルな社会に逆行するような動きが生まれているのを、私は非常に残念に思う。もちろんこの動きは東部だけの問題ではないが。それと同時に西側の人たちも、統一によってそれまでの生活の基盤が根底から崩れた旧東独市民の心の傷を理解し、彼らの立場をもう少し尊重するべきではないだろうか。西側出身ながら東部ドイツ、テューリンゲン州首相となった左翼党のボードー・ラメロー氏の言葉が印象に残っている。ラメロー州首相はドイツ統一の日にあたり「東部市民は日常的に自尊心を傷つけられる思いをしている。彼らが望んでいるのは西側から感謝を要求されることではなく、レスペクトされることである」と語っていた。

 

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