80年前のベルリン・オリンピック
第31回夏季オリンピック大会が8月5日からリオデジャネイロで開催中だ。南アメリカで開催される初めての大会は、開始直前まで開催を危ぶむ声が聞こえた。さらにロシアのドーピング問題もオリンピックに影を落としている。リオ五輪に合わせて、今から80年前ベルリンで開催されたオリンピックを取り上げた本が出版された。
1936年8月1日から16日間にわたってベルリンで開催された第11回夏季オリンピック大会は、ナチス政権にとってドイツを宣伝する絶好の機会だった。ヒトラー、ゲーリング、ゲッベルスといった中枢人物はもとより、国が一丸となって大会の成功に向けて心血を注いだ。その結果、ベルリン・オリンピックは大成功をおさめ、フランスやイギリスでさえ宣伝工作にまんまと乗せられる結果となってしまった。
このベルリン・オリンピック大会の16日間を描いた、『ベルリン1936年』という本が最近出版され、ラジオや新聞などのメディアでも取り上げられた。外国記者協会が、著者であるオリヴァー・ヒルメス氏を招いて記者会見を行った。歴史を専攻し博士号を持つヒルメス氏は執筆の動機について、「歴史を専攻した一人として、20世紀の歴史上、非常に大きな意味を持つベルリン・オリンピック大会を競技スポーツの記録としてではなく、さまざまな視点から描きたかった」と述べた。オリンピック大会のいわば「メイキング・オブ」を膨大な歴史的資料、文書を読み解いて執筆したという。
執筆に一つのヒントを与えたのが、ハリウッド映画「バンテージ・ポイント」だったと同氏は言う。アメリカ大統領暗殺を、大統領自身、暗殺者、テレビ局スタッフ、刑事、シークレット・サービス、偶然暗殺の場面に居合わせた旅行者それぞれの視点から描いた映画である。この映画の手法にならって、一つの出来事を多様な視点から描くという意図で、ベルリン・オリンピックという一大イベントをとらえなおしたのが、この『ベルリン1936年』である。
最初の数ページを読むだけで、1936年8月1日(土)開会式当日の様子が生き生きと伝わってくる。ベルリンを代表するホテルであるホテル・アドロンに滞在していたIOC委員長のアンリ・ドゥ・バイユ・ラトゥール、ナチスの宣伝相ゲッベルス、「オリンピック讃歌」を作曲したリヒャルト・シュトラウスと彼の妻、ベルリン王宮前広場に集まった2万9000人のヒトラーユーゲント、「勝利の道」と名付けられたオリンピック・スタジアムまでの道路を埋め尽くした群衆を直立不動で見返すヒトラー、スタジアムに登場するヒトラー、入場行進する各国選手団の様子や、ヒトラーによる開会宣言、聖火点灯などが実に細かく、いろいろな人の視点から多角的かつ多層的に描かれる。最後に、開会式当日に秘密国家警察に届けられた警察への通報で第一日目の描写が終わる。
1936年8月1日、オリンピック開会式当日の記述から数ヶ所訳出する。
そして選手団の入場が始まった。先頭はギリシャ、最後がドイツだ。イギリス選手団は観客からやや冷ややかに(ゲッベルスは日記に「少々気まずい」と書いている)歓迎されたが、フランス選手団には拍手の嵐が沸き起こった。なぜなら選手たちは右手を挙げて敬礼したからである。後になってフランス代表は、あれは「ヒトラー式敬礼」ではなく、オリンピック式敬礼だったと釈明したが、どちらも大した変わりはない。いずれにせよ、スタジアムにいた群衆は、フランス選手が「ヒトラー式敬礼」をしたと信じていた。
すべての選手を代表して、ドイツの重量挙げ選手ルドルフ・イスマイヤーが宣誓を行ったが、彼はオリンピック旗ではなく鉤十字旗を握った。アンリ・ドゥ・バイユ・ラトゥールはオリンピックの儀礼に反するこの行為に度を失ったが、この状況ではどうしようもなかった。
アドルフ・ヒトラーが18時16分きっかりにスタジアムを去る前に、最後のプログラムとしてゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルのオラトリオ「メサイア」のハレルヤコーラスが響き渡った。合唱が「そして主は世々限りなく統治される。主の主、世界の神。ハレルヤ!」と歌っている間、在ベルリンのポーランド大使ヨゼフ・リプスキーはアンリ・ドゥ・バイユ・ラトゥールの肩をこっそりと叩き、「こんなに組織する能力を持つ国民には注意しなければなりません。この国では動員も全く同じようにスムーズにいくのでしょう」とささやいた。
秘密国家警察の日報:「仕立屋のヴァルター・ハルフ(1890年12月3日生、住所:リュッツォウシュトラーセ45)は、ベルリン・オリンピックの開会式に関して、『イギリス国王をやったように、今こそ総統を暗殺するのにもってこいだ』と妻に語ったようだ。信頼できる証人が見つかる場合を想定し、ハルフの逮捕命令が出された。
ナチス政権が諸外国に対して、ドイツ国内での反ユダヤ政策や反対勢力に対する弾圧を隠すために、いかに周到にオリンピックを準備したかがヒルメス氏の記者会見で明らかになった。記者会見に参加した数日後、私はベルリンのオリンピック・スタジアムと当時のオリンピック選手村に行ってみた。広大な敷地にある選手村では、練習用のフィールド、体育館、プール、宿泊棟などいくつかの建物が残っていた。金メダル4つを獲得したアメリカの黒人選手ジェシー・オーエンスの部屋は、当時のように復元されている。オリンピック・タジアムを見下ろすように立っている鐘楼の1階と2階部分には、ベルリン・オリンピック開催以前から現在に至るまでのドイツのスポーツと政治の歴史がパネル展で示されていて、ヒルメス氏の記者会見での話と重ねて見ると興味深い。
ヒルメス氏の著書、スタジアムと選手村に設置されているパネルを見てわかることは、オリンピックという世界的スポーツイベントを隠れ蓑にして、ナチス政権が着々と自分たちの政策を進めていたことである。例えば、オリンピック期間中、ベルリンの北約40キロメートルにあるザクセンハウゼン収容所の建設が始まっている。さらに、1933年の政権掌握後3年間、軍事力を増強し、第一次世界大戦の戦勝国を相手に挑戦的態度を取り続けたナチス政権が、オリンピックを機に、表面は友好、平和、寛容を装いつつ、裏では軍事的に勢力を伸ばそうとしていた。ヒルメス氏は記者会見で、「最も不気味なのは、ヒトラーが日中は“平和の首相”を演じ、選手たちには“良き父親”として愛想を振りまきながら、夜は一人で戦争への計画を練っていたことである。ヒトラーは、4年後にソ連との戦争を始めるための軍事力の強化を計画しながら、1936年8月の日々を過ごしていた」と語った。
ベルリン・オリンピックがナチス政権のプロパガンダとして大成功したことは疑いない。80年前にベルリンで実践されたオリンピックの政治利用は、その後のオリンピックの歴史においても繰り返されてきた。「ナチスの手口を学んだらどうか」と言った政治家が閣僚の席を占める安倍政権が準備を進める2020年の東京オリンピックは、果たして政治利用されることはないのだろうか。福島原発事故の処理がどこまでどのように進んでいるのか、汚染水の問題はどうなっているのか、放射性廃棄物の処分がどうなっているのかなどなど、様々な問題は未解決のままである。“復興”という名目のもとにオリンピックが利用されるのではないだろうか。政府とオリンピック委員会が華々しくオリンピックの効果や成果を喧伝するその裏で、着々と「原発事故はなかったことにしよう。日本のエネルギー政策の中心である原発の再稼働を進めよう」という事態が生じるのではないだろうか。1936年のベルリン・オリンピックの光と影を見て、このような疑念が涌いてくる。