戦後ドイツの民主主義に貢献した政治家の死

永井 潤子 / 2020年8月9日

7月26日、ドイツ社会民主党(SPD)の政治家、ハンス=ヨッヘン・フォーゲル氏が亡くなった。94歳だった。翌27日のドイツの新聞の多くは、一面に「偉大な社会民主主義者」「民主主義を体現した政治家」といった見出しの大きな追悼記事と写真を載せた。長年ドイツの政治に影響を与えてきたフォーゲル氏だが、ドイツ統一直後の1994年に連邦議会議員を辞めて、政治の表舞台から姿を消したため、若い世代には馴染みがない政治家かもしれない。しかし、旧西ドイツ時代の1972年から1989年までの27年間、ドイツの国際公共放送、ドイチェ・ヴェレの日本語番組の記者として働いた私にとっては、尊敬できる政治家の一人で、忘れられない人だった。改めて彼の長い政治活動を振り返ってみる気になった。

フォーゲル氏は1926年、学者の息子として大学都市ゲッティンゲンに生まれた。ヒトラーが政権を掌握したのは、1933年1月のことで、ティーンエイジャーの時代をナチの独裁体制下で過ごし、兵士として駆り出された経験が、のちの民主主義に対する堅固たる信念を生み出したのかもしれない。大学で法律を勉強し、優秀な成績で博士号を取得したフォーゲル氏は、1950年24歳でSPDの党員となり、1960年、わずか34歳の時に南ドイツ・バイエルン州の州都ミュンヘンの市長に当選したのが、政治活動の始まりだった。当時こんなに若くてヨーロッパの大都市の市長になった人はほかにはいなかった。以来2期12年間にわたるミュンヘン市長時代の活躍ぶりは、目覚しいものだった。

かつての首都ベルリンは、戦後東西に分断され、当時の首都はライン川畔の小さな町、ボンに移っていた。そうしたなか、ベルリンにあったジーメンスなどの大企業が次々にミュンヘンに移ってきて、ミュンヘンは「影の首都」などと言われるようになった。戦火で破壊されたままのミュンヘンでは、その頃年間10万人単位で人口が増え続けたという。若いフォーゲル市長は長期的な都市計画に基づき、郊外に大規模な住宅を幾つも建て、地下鉄を作るなどして公共交通機関を整備し、早々と街の中心部に歩行者天国を設け、ビジョンと実行力でミュンヘンを現代的な大都市に変えたと言われている。もちろん戦後の復興ブームが後押ししたことは否定できないが、当時早くも都市の環境問題に目を向けていたことに驚く。1966年に、1972年8月から9月にかけての夏のオリンピックをミュンヘンに誘致することに成功したのも、フォーゲル市長の手腕によるところが大きかったという。第二次世界大戦後のドイツが、国際的に開かれた民主主義国になったことを、積極的にPRしたことが功を奏して、ライバルのデトロイト、マドリッド、トロントに勝利したのだった。

実はその頃のフォーゲル氏を私は実際には知らない。私が日本の小さな民間放送局をやめて、ボンの北のケルンに本社のあったドイチェ・ヴェレで働き始めたのは、1972年の5月で、フォーゲル氏は、その年の春にミュンヘン市長をやめていた。しかし、最初の小さな接点となったのはやはり、ミュンヘン・オリンピックだった。ドイチェ・ヴェレ日本語放送のミュンヘン・オリンピックでのスポーツの取材は、同僚の田島亘裕記者(ベルリン・オリンピックの三段跳びの優勝者田島直人氏の息子)が担当したのだが、転職したばかりの私もオリンピックの芸術部門のプログラムの取材にミュンヘンに派遣された。さまざまな文化的プログラムの取材を終えて早々とケルンに戻った私が聞いたのは、イスラエルの選手たちがパレスチナの過激派に誘拐されたという恐ろしいニュースだった。一旦は選手たちが救出されたというニュースが流れたが、結局人質全員が死亡したことがわかって、ドイツ中が大きなショックを受けた。その時フォーゲル氏は、ミュンヘン・オリンピック委員会副委員長として、その悲劇を受け止めなければならなかった。犠牲となったイスラエルの選手達の遺体にイスラエルまで付き添ったのが、フォーゲル氏だった。

少し時間は戻るが、ミュンヘン市長としての終わり頃の1968年、1969年はドイツ全土で学生運動が激しくなり、バイエルン州のSPD内でも左派の勢力が強くなり、党の路線をめぐるイデオロギー論争が激しくなった。党内右派に属したフォーゲル氏は3期目のミュンヘン市長への立候補を阻まれたため、一切の政治活動をやめるつもりでいたというが、それを阻止したのは当時のヴィリー・ブラント首相だった。1972年11月の選挙でフォーゲル氏は連邦議会議員に初当選し、同年12月、第二次ブラント政権で建設・都市計画相として入閣、首都ボンでの活動が始まった。側近の一人が東独のスパイだということが判明した責任からブラント首相が辞任したあと、1974年5月にヘルムート・シュミットを首班とする内閣が成立すると、フォーゲル氏は法務相に就任した。

連邦法務相時代のフォーゲル氏は、ドイツ赤軍派のテロとの戦いという厳しい課題に直面しなければならなかった。ドイツ赤軍派による当時の経営者連盟のハンス=マルティン・シュライヤー会長誘拐事件に関して、シュミット首相は、人質解放の条件として、逮捕されている赤軍派幹部を釈放するよう求めた誘拐犯の要求に国家は屈するべきではないとの厳しい立場を貫いた。1度テロリストの要求を受け入れ、拘留されているテログループの犯人を釈放したら、次にまたテロ行為が繰り返され、誘拐事件の犠牲者が増え続けるだけだという理由からだった。しかし、その結果人質となっていたシュライヤー氏の命を救うことはできなかった。当時フォーゲル氏自身も赤軍派の標的にされていたにも関わらず、法相として原則に忠実な姿勢を崩さず、シュミット首相の厳しい方針を支えた。その後のルフトハンザ機ハイジャック事件で、シュミット首相がGSG9(ドイツ連邦警察の対テロ特殊部隊)によるドラマチックな人質解放作戦をとって、人質全員を救助したことは、歴史に残る大事件だった。

政治生活の後半、党人としての義務に従ったフォーゲル氏。©️SPD/Dominik Butzmann

フォーゲル氏の長い政治生活には紆余曲折があり、成功ばかりとは言い難いが、個人の利益より社会民主党の要請に従って行動したというのが、氏の政治生活後半の特徴だった。私自身はむしろ党人としてのフォーゲル氏の姿勢に印象付けられた。1981年1月15日、西ベルリンのディートリッヒ・シュトッベ市長(SPD)が建設工事のスキャンダルに関連して辞任すると、フォーゲル氏は連邦議会議員と連邦法相の地位を投げ打って、西ベルリン市長に就任し、西ベルリンのSPDの危機脱出を図った。しかし、同年5月に行われた西ベルリン市議会選挙で、キリスト教民主同盟(CDU)に敗北し、リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー氏(のちの連邦大統領)が西ドイツ市長に就任した。フォーゲル氏が西ベルリン市長を務めたのは、短期間だったが、ドイツの二大都市の市長を務めた政治家はフォーゲル氏だけである。

その後のフォーゲル氏は、シュミット首相が辞任に追い込まれた後、敗北が予想されたにもかかわらず、1983年の選挙にSPDの首相候補として出馬、予想通り敗北した。しかし、連邦議会議員としては復活した。1987年から1991年までは、ブラント氏の後任としてSPDの党首をつとめた。その頃のフォーゲル氏は「恐ろしいほど勤勉で、恐ろしいほど事実と原則に忠実、恐ろしいほど公私混同を嫌う政治家」と言われたり、細かいことまであまりにも精通しているため、煙たがられたりもした。

私にとって最も印象に残ったのは、SPDが女性のクオータ制(割当制)の導入を決定した1988 年8月末のミュンスター党大会でのフォーゲル党首の態度だった。今から30年以上前のことだが、「今後10年間で段階的に党役員や選挙での立候補者の最低40%を女性にする」というクオータ制導入の提案をしたのは、そもそもフォーゲル党首を中心とする党執行部だった。このときの党婦人部長の演説も覚えている。「ドイツ社会民主党の優れた指導者、アウグスト・ベーベルの『婦人論』が世に出てから100年余り、婦人参政権獲得からも70年、その間社会民主党の女性党員たちは男性党員たちの自発的な意志で党内の男女平等が実現することを期待してきた。しかし、こうした希望を抱いたことは、“歴史的な誤り”であることが判明した。割当制なしには、女性の政治参加を飛躍的に促進することはできない」。しかし、女性の党役員や候補者を増やすことは、不利になる男性党員が多数出ることを意味するため、当初は男性党員の反対が大きかった。当時の党員のうち女性の割合が27%に過ぎないのに、なぜ40%なのか、機械的に比率を決めると、能力のない女性が党内で重要な地位につく恐れがあるなどの疑問を呈する人もいた。3時間以上にわたる激しい議論の後採決が行われたが、結果は416人中、326人が賛成、反対54票という圧倒的な支持だった。予想を大きく上回る賛成票だった。これは基調演説を行ったフォーゲル党首が「党内民主政治の上で、女性の地位向上がいかに大事か」を強調し、「割当制を否決するようなことがあっては、ドイツ社会民主党のイメージに大きく傷がつく」と男性が多数を占める代議員に訴えたことが大きく影響したとみられた。この時の党大会では副党首を3人に増やし、一人を女性にすることも決定され、法律家で連邦議会議員のへルタ・ドイブラー=グメリン氏が初の女性副党首に選出された。

ドイブラー=グメリン新副党首にお祝いのキスをするブラント名誉党首は、この時本当に嬉しそうだったが、実は10年以上前に最初に割当制の提案をしたのはこのブラント名誉党首だったのだ。ミュンスターの党大会では女性幹事長が再選され、党幹部会のうち女性が占める割合も大幅に増え、この党大会は歴史的な意味を持つ大会になった。この段階では若い政党だった緑の党がすでに50 %の男女平等を実施していたが、大政党のSPDでクオータ制の導入が認められた意味は大きかった。この時以来私にとってSPDは一層魅力的な党となり、フォーゲル党首は、忘れられない政治家になったのだった。割当制の効果もあって現在SPDの連邦議会議員のうちの女性の割合は43.4%だが、SPDの得票率が減り、女性の少ない保守政党や右翼ポピュリズムの男性中心の政党が議席数を増やしたため、全体としての女性議員の割合は、残念ながら前回より6ポイントも減って31%台にとどまっている。

壁が崩壊した後フォーゲル党首らのSPD首脳部は、旧東ドイツとの対等な立場での共存を望んだが、野党の悲しさ、東西ドイツの統一はコール保守政権によって、旧東ドイツが旧西ドイツに「編入」される形で行われた。歴史にifはないが、もしSPDのブラント政権やシュミット政権の時に東西ドイツの統一が行われていたとしたら、統一後に吹き出した東部ドイツ市民の不満もこれほど強烈なものにはならなかったのではないかと私は夢想する。

8月3日のお別れの会で弔辞を述べるミュンヘン市長のディーター・ライター氏。©️Presseamt München/Michael Nagy

晩年のフォーゲル氏は、パーキンソン氏病に悩んだが、明晰な頭脳は衰えず、現役の政治家たちとの意見交換を楽しんだが、右翼の台頭を非常に心配していたという。94歳で亡くなったハンス=ヨッヘン・フォーゲル氏のお別れの会は、8 月3日ミュンヘンのフィルハーモニーで行われたが、コロナ危機にもかかわらず、シュタインマイヤー大統領をはじめ超党派の政治家や各界代表が集まり、敬虔なカトリック教徒で、良心的な社会民主主義者だった故人を偲んだ。会の終わりにリーゼロッテ夫人がフォーゲル氏の遺言を明らかにした。「残念ながら健康がこれ以上許さなくなったため、私はすべての政治活動をもはや続けられなくなったことを、わが党とドイツ社会に告げなければなりません。政治活動にあたって私が模範としてきたのは、ヴィリー・ブラント、ヘルムート・シュミット、ヘルベルト・ヴェーナー、そしてヴァルデマール・フォン・クネリンゲンの諸先輩でした。我々がともに闘い、勝ち取ってきたものをドイツが失なうことがないよう、どうぞ皆さん、心がけてください」。これが戦後ドイツの民主主義のために長年にわたって闘ってきた政治家、フォーゲル氏の遺言だった。昨年出版された氏の最後の著書には、「より公平な社会を!」という意味の”Mehr Gerechtigkeit”というタイトルが付けられていた。

 

4 Responses to 戦後ドイツの民主主義に貢献した政治家の死

  1. Kazuko Suetsugu says:

    いつもドイツの現状に即した記事を有難うございます。今回も大変興味深く読みました。政治家の死をとおして戦後のドイツの民主化の歩みが浮き彫りにされ、フォーゲル氏の生きた時代の潮流と社会の雰囲気を筆者の鋭い感性で捉えることによって、彼の長い政治生活に広がちと深さをもたらす書き方に感心しました。これは単なる追悼文ではなくて、筆者の生き方をも照射する、フォーゲル氏への深い情感に基づいた挽歌だと思いました。どうも有り難うございました。これからも記事を楽しみにしています。  末次

  2. 永井 潤子 says:

    末次さま、ナガーイ、ナガーイ記事を読んでくださった上、ご感想をお寄せくださって、ありがとうございました。私自身の思いがこもりすぎた記事になったのではないかと少し心配でしたが、若い人たちにもドイツにはこういう政治家もいたのだと知って欲しいと思って、書きました。フォーゲル氏の遺言の最後に出てくるヴァデマール・フォン・クネリンゲンという人のことは、ドイツに住んでいる人でも知らない人が多いと思いますが、バイエルンの貴族で「赤い男爵」と言われたSPDの人です。ナチの支配下で外国に亡命、最初はオーストリアで、次はチェコやフランスから、あるいはイギリスからナチに対する熾烈な抵抗運動を続けた人です。こういう人をフォーゲル氏が尊敬していたということを、私自身も知りませんでした。彼の遺言で初めて知った次第です。
    他の記事にもコメントをよろしくお願いします。

  3. 緑子 says:

    バイエルン州とバーデン・ヴュルテンベルグ州の州境にある田舎町に暮らしている者です。ドイツに来てから、ずっとドイチェ・ヴェレ日本語放送を聞いていました。短波放送のドイチェ・ヴェレは雑音が多い中から、日本語課の方たちのお声が私のドイツ生活に付き添ってくれました。ドイツ統一に関する話題を日本語で記している物を探していて、昨年12月にDW・日本語課で聞いていた永井さまのお名前を見つけ、それ以来、『緑の1kWh』のファンです。今回はドイチェ・ヴェレ・日本語課の田島さんのお名前を見つけ、懐かしい限りです。『緑の1kWh』で永井様のドイツでのマスクに関する話題に、日本語課に縁を繋いでいただいた古賀様と席を共にしているのを、田島さん、岸さん、内田さんはきっと笑顔で見ているのではないでしょうか。日本語課から頂いた一冊の本、岩波ブックレット「ヴァイツゼッカー大統領演説・荒れ野の40年」は実家の知人が関心を持っていた事柄で、かなり長い間、日本に置いたままにしてありましたが、今は、再び、私の手元にある具合です。SPD・フォーゲル氏の話題にも、その人は、生きておれば、じっと読み込むだろうと思った次第です。

  4. 永井 潤子 says:

    緑子さま、midori1kwh.deを去年12月に発見してくださったそうで、ありがとうございます。私たちのこのサイトは、2011年3月の福島原発の事故の後、ドイツの脱原発の状況やエネルギー転換の動きを伝えるためにベルリン在住の”魔女たち”が立ち上げたものです。その後は環境問題だけではなく、ドイツの政治や社会の実情を紹介する記事も多くなっています。私がドイチェ・ヴェレを定年で辞めたのは、21年前のことです。20年以上経って、当時の熱心なリスナーの方が、私たちのこのサイトを発見してくださったことに感激しております。