ベルリン自由大学70周年記念−自由の大切さを訴えたヘルタ・ミュラーさん

ツェルディック 野尻紘子 / 2018年12月23日

ベルリンにはfrei(フライ)という形容詞のついた公共施設がいくつかある。Freie Universität (フライエ・ウニヴェルズィテート)が良い例だ。freiというドイツ語の主な意味は「自由な」だ。だからFreie Universitätを日本語に訳すと「自由大学」となる。何が自由かというと、この大学は、学問と研究の自由の許されなかった東ベルリンの大学から分離して、学問、思考、そして言論の自由が保証された西ベルリンに設立された大学という意味だ。この大学が設立されたのは1948年12月4日のことで、それからこの12月4日で70年が過ぎた。そして、そのことを記念する式典がこのほど行われ、ルーマニア出身のドイツ系ノーベル文学賞受賞作家のヘルタ・ミュラーさんが「自由はとどまることを知らない」という祝辞を述べた。

ベルリン自由大学70周年記念式典で祝辞を述べるヘルタ・ミュラーさん ©Regina Sablotny

 

ベルリンでは、プロイセン王国初の大学として1809年に「ベルリン大学」が町の中心部に設立された。この大学は1828年から第二次世界大戦の終わる1945年まで、設立当時の君主の名前をいただいて「フリードリッヒ・ヴィルヘルムス大学」と称していた。学問と研究の自由、学問のための学問を唱えた言語学者であり外交官でもあったヴィルヘルム・フォン・フンボルトの思想を貫いた優秀な大学で、その間25人ものノーベル賞受賞者を出している。ナチ時代にはユダヤ人教授や政権反対者多数を追放、あるいは自ら大学を去って行った学者も多く、建物は戦争で爆撃にあうなど、終戦当時の被害は大きかった。

それでも終戦直後の1945年5月には大学再開のために元教授らが集まり、9月には新規入学生のための準備授業が始まるなど再開準備は進み、1946年1月からは正規の授業が始まった。ただ、敗戦後のベルリンは米英仏ソ連軍からなる連合軍の支配下に置かれており、旧組織の再開にはこれら4カ国の同意が必要だった。新規設立の場合にはそれが必要でなかったので、名称は「ベルリン大学」となり、この大学のスタートは再開ではなく新規開設とされた。ベルリン中心部はソ連軍の管理する地区だったので、ソ連軍がそこにあったこの大学を支配下に置こうとしたのだ。

従って、この大学では共産党の影響が強く、既に1946年5月には一部の教授陣と学生の間で反対運動が始まった。その直接の理由は、5月1日に本館正面にドイツ社会主義統一党(共産党)のシンボルマークが取り付けられ、屋上に赤旗が掲揚されたことだという。反対運動に参加した学生の数人はソ連の秘密警察に逮捕され、ソ連軍の軍事法廷から25年の強制労働の刑を受けた。逮捕の理由は、大学内での地下運動やスパイ活動とされた。1948年までにはさらに18人もの学生がファシズム的活動をしたという理由で逮捕あるいは拉致され、中にはソ連に連行され処刑された学生もいたという。

このほか問題だったのは、入学試験の際に政治的立場に関する質問があり、労働者階級の出身者と共産党関係の組織に所属している人たちが明らかに優遇され、中産階級出身者や共産党に批判的な学生が締め出されたことだった。また「現代の政治的社会的問題入門」などという必須科目もあり、この大学は「党の大学」になってしまうのではないかと心配された。

記念式典の行われた自由大学のヘンリー•フォード館。1963年、ケネディ大統領がベルリンを訪れた時には、この建物の前で講演した。

このような背景から、学生や教授の中から自由な大学を求める声は既に1947年末ごろからあがり始めた。そして1948年春、大学指導部が何人もの学生の学生証を理由もなく剥奪したことがきっかけとなって、反対派の学生たちはアメリカ軍の管理下にあったアメリカ地区に「自由な大学」を新設するよう要求した。政治的影響を受けず、フンボルトの思想を引き継いで、自由に学習し、教え、研究することのできる大学を作ることが目的だった。この要求を支援したのはアメリカ軍、市長のエルンスト・ロイター、そして地元の日刊紙「ターゲスシュピーゲル」で、1948年12月4日に「自由大学」が設立されたのだった。

自由大学70周年記念式典には、自由大学の学生証番号1番だったカロル・クビッキー氏など数人の自由大学設立に携わった元学生が出席していた。学長の挨拶や連邦政府代表と州政府代表の祝辞もあったが、一番印象に残ったのはノーベル文学賞の受賞者であるヘルタ・ミュラーさんの祝辞だった。同氏は、「私は現在、以前に独裁体制下で過ごしたのと同じ年月を自由社会で生きているが、未だもって自由を当然の物とはみなせない。自由は同じ場所にととどまることを知らない。自由は再びよそに行ってしまうことがある」と話し始めた。

「自由は実体的にその場にある物体であり、それは在るか無いかのどちらかだ。自由にはそれ自身の内容と重さがある。自由にはいつも具体的な立場がある。あることが起こるか阻止されるか、許されるか、禁止されるかだ。独裁体制下では、私のしたかったことは殆ど全て禁止されていた。そして許されていたことを、私は私自身に許さなかった。私は、私にそれを許した人たちのように成りたかくなかったからだ。私にとり、自由は抽象的な理念ではなかった。自由はある物体であり、ルーマニアでは遠い存在だった。掴むことのできない存在だったが、だから私は一層その虜になっていた」と同氏は語った。

自由大学のキャンパス内にある自由のために命を落とした学生を追悼する記念碑

1953年に少数民族のドイツ人としてルーマニアで生まれた同氏は、大学卒業後の1976年から3年間、ある機械工場でドイツ語とルーマニア語の翻訳者として働いていた。そこに2度も秘密警察の協力者が現れ、同氏を協力者になるように誘った。同氏はその度に、その誘いを跳ね返すという、その国では想定されていなかった行動をとった。少しばかりの自由を行使したのだ。そしてそのために散々嫌がらせにあい、同僚からスパイとみなされ、爪弾きにされた。

当時のルーマニアに存在しなかったはずの自由を、同氏が少しばかり行使したことで、分かったことがあるという。それは国家には抑圧するために集団が必要であるということだった。その後教師として働いていた同氏は、「個人主義と協調性の欠如」という理由で、数年後に学校から追い出された。

独裁体制の下では不安がそこら中に存在していた。そして不安を管理するために汚職と買収があった。不安を和らげるために、また幾らかの物質的な恩恵を被るために、買収が横行した。大勢の人たちが体制に逆らうことをしなかった。‥‥

そして数十年にわたる独裁制のあとでは、社会の全てが歪んでしまっていた。倫理的基盤はもうなくなっていた。社会は羅針盤を完全に失っていた。全てが、物質的にも道徳的にも破壊されていた。人間も。彼らは何十年間も、(体制を変えるために)何一つしてこなかったのに、レジームに反抗した。それと同じぐらい、自分自身にも反抗していた。社会主義における絶え間ない不機嫌は、自身の日和見主義に対する嫌悪からきていた。‥‥

東欧で突如として抑圧のなくなった1989年、人々はその状態に酔い、それを自由と呼んだ。しかし30年後の今、自由はまるで別の物になったようだ。自由は東欧では今も物体だろうか。以前とは違うが、抑圧が感じられる。幻の痛みのように。だんだんに汚職と買収、ナショナリズム、ユダヤ人排斥、同性愛に対する病的な嫌悪、司法の悪用、メディアの畏縮と画一化が増えている。ハンガリーでは欧州有数の優秀な大学が国内では閉鎖され、国外への移転を余儀なくされようとしている。ポーランドでは大学自治が廃止され、ルーマニアでは試験を買うことができる。東欧ではこれらの分野で自由が消されようとしている。しかし西欧でも、過去の国粋主義的な幻が忍び寄って来ている。そして東欧の抑圧の幻と結び付いている。‥‥

自由大学は、自由と民主主義を学ぶ場所として1948年に設立された。自由と民主主義を忘れないために、そして自由は具体的でととどまることを知らないということを認識するために、自由大学は今日も必要だ。

ベルリン自由大学70周年記念式典会場      ©Regina Sablotny

 

こうミュラーさんはスピーチを終えた。自由大学設立記念にふさわしい祝辞だった。

なお、東ベルリンにあった「ベルリン大学」は1949年に、フンボルトの思想とは裏腹の意図を追っていたにもかかわらず、「フンボルト大学」という名称に変更された。

東ドイツが望んで西ドイツに編入した1990年、ドイツは統一され、東ベルリンと西ベルリンも一つの町に戻った。その時、フンボルト大学では少なくとも表立って東ドイツの政権に批判的だった教授や学生は見当たらず、その反面、秘密警察の協力者が大勢いた。大学の建物は老朽化が激しく修復の必要が大きかったし、理化学系の実験室にあった機器の中には戦前からのものもあったそうだ。フンボルト大学の刷新は避けられないものだった。

私は当時、同じルーツを持つ自由大学とフンボルト大学が一緒になって新しい「自由なフンボルト大学」になると良いなと思った。新しい大学になれば、フンボルト大学は惨めな過去の歴史をいつまでも背負って行く必要がなくなる。自由大学とフンボルト大学は兄弟のような関係にあるのだから、仲直りをしても良いのではないだろうか…。私一人の考えではなかったが、それは実現しなかった。東西両ドイツが統一する前には、両国間で「統一契約」が結ばれたのだが、その交渉の際に、東ドイツの代表がフンボルト大学を残すことを統一条件の一つとして譲らなかったからだと後で聞いた。

 

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