“放射能の餌食” - 原発労働者
4月25日にオーストリア・ラジオでショッキングなタイトルの番組が放送された。このサイトでもすでにおなじみのユーディット・ブランドナーさんが、チェルノブイリと日本で、それぞれ原子力発電所での仕事に携わった人たちをインタビューして作った「放射能の餌食。原子力発電所内の労働者」(Strahlenfutter. Arbeiter in Atomkraftwerken)というタイトルの約1時間の番組である。
番組のインタビューに登場したのは、日本から斎藤征二さんと林哲哉さん、ウィーンからスヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチさんとユーリー・アンドレエフさんである。ブランドナーさんは、原発労働者への取材を実現するために多くのリサーチを行なったが、なかなか取材にはいたらなかった。福島原子力発電所に作業員として入り、現場の様子を描いた漫画家との取材がようやく実現しかけた矢先、出版社から取材キャンセルの連絡が来た。さらに仙台でホームレスの世話をしている神父とインタビューする案もあったが、これも立ち消えになった。ブランドナーさんの3年越しの粘り強い努力が実り、2014年の初夏、かつて原発労働者として働いていた斎藤征二さんとのインタビューが実現したという。「原発で働く人たちはジプシーと呼ばれ、何かの理由があって、あちこちからやって来た人たちだ。何の保障もないまま、危険な作業に従事している」と語る斎藤さんは、岡山生まれで75歳。父親は戦死。いつ、どこで、どのように亡くなったのかは不明だ。1967年から美浜発電所1号機の建設作業を始め、それ以後、各地の原発で配管工として働いた経験を持つ。
斎藤さんは、健康上のリスク、雇用システムや賃金の問題など、原発労働者が直面する問題を詳しく語る。彼自身、甲状腺の摘出手術、心筋梗塞を患い、脊髄、骨髄にも異常があり、インタビュー直前には目の手術を受けたばかりだという。斎藤さんは自分自身の体調異常だけではなく、死亡した仲間の労働者たちの状況、原発での事故についても詳細に記録してきた。また、仲間たちがどのような形で雇用されたのかについても記録し、雇用の多重構造についても明らかにした。斎藤さんは仲間を説き伏せ、1981年7月1日労働組合「原発分会」を結成した。この組合は輸送業に携わる労働組合の傘下にあり、権利を持たない下請け企業のパート労働者や日雇い労働者の組合として初めてのものであった。組合を結成したときには、斎藤さんの妻までがいろいろな嫌がらせを受けたという。「玄関のガラス戸が割られました。いろんな嫌がらせがあったのですが、一番多かったのは無言電話です。労働組合を作ることの何が悪いのか、自問しました。そして腹立たしくなりました。闘い続けるしかないと思ったのです」と斎藤さんはインタビューで語っている。そして、労働組合の成果を次のように述べる。「最大の成果は、小さな事故でも隠ぺいできなくなったことです。安全が問題視されるようになりました。それまでは電力会社が隠していたことが知れわたり、原発についてほとんど何も知らなかった市民たちにとっても問題が明らかになったことです。これは私たちの最大の成果です。また、3次や4次の下請け会社の作業員たちにも、年末の一時金や雇用保険といった、ある程度の社会的保障がされるようになりました」。斎藤さんはしかし、福島の原発事故収束作業に従事する作業員たちの現場での労働条件は、斎藤さん自身が働いていたときから全く変わっていないことを指摘する。番組のナレーションは語る。
斎藤さんが語る原発労働者の状況は、1977年に発表されたロベルト・ユンクの著書『原子力帝国』の記述と一致する。ユンクがフランスのラ・アーグにあるプルトニウム抽出のための再処理工場を調査した労働条件と、斎藤さんが話す労働条件はほぼ同じだ。ユンクは同書の中でラ・アーグの再処理工場について、「未だかつてないほどにここの仕事は不安を覚えさせた。労働者はここでは健康だけではなく、言葉や自己決定の権利を奪われている。『砲火の餌食(Kanonenfutter、犬死にさせられる兵士を意味する)』という表現を自らの状況に転嫁させて、労働者たちが自らを『放射線の餌食』と言っている」と記述している。
続いて登場するのが、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチさんだ(彼女の作品は『チェルノブイリの祈り』という題で邦訳が出ている)。ブランドナーさんは、ウィーン・ブルク劇場での朗読会のためにウィーンに来ていたアレクシエーヴィッチさんに取材した。番組の中では、インタビューと『チェルノブイリの祈り』が引用される。「多くの人々は起こったことを戦争だと受けとめましたが、これは全く新しい形の戦争、新しい顔を持つ戦争だということを示すことが私には重要だったのです」とアレクシエーヴィッチさんは語る。
次に登場するのが、チェルノブイリ事故の収束作業を指揮したユーリー・アンドレエフさんである。ソ連軍の中佐であったアンドレエフさんは1948年4月26日、チェルノブイリ事故が起こった当時、リクビダートルの司令官としてカオスの現場を指揮した。1993年、ウィーンのリスク研究センター (Institut für Risikoforschung) の客員教授として招待されたアンドレエフさんは、以後ウィーンに留まり現在に至っている。片肺となったアンドレエフさんは現在77歳、緑が見えるウィーンの街はずれの住居に、妻とネコ、ソ連を思い出させる品々とともに住んでいる。「チェルノブイリでの作業については、何週間でも話せますよ。ただ、一週間もすれば、あなたがウンザリするでしょうね。とても長い話です。ものすごく面白いという話ではありません。とても興味深いところもあり、危険なところもあり、つまらないところもあります。人生みたいなものでしょう」と語るアンドレエフさん。本人が「話せば長くなる」と言うように番組でも彼の話に多くの時間が割かれるが、それは番組放送日が29年前のチェルノブイリ事故の前日ということとも関連があるのだろう。彼の語ったことをすべて書くことはできないので、いくつか印象的なものを紹介しておきたい。
私はチェルノブイリで初めて原子炉の近くに行った人間です。私は実務的な人間です。英雄ではないし、イデオロギー的なスローガンは嫌いです。技術者として、問題があれば何とかしたいと思います。チェルノブイリで何かをしようと思えば、まず、何が起きたのかを理解することが重要でした。当時、原子炉周辺の放射能は致死量にいたっていました。さらに高濃度の放射線もありました。それでも、行くしかないと決断しました。
当時のソ連政府は、どうしたらいいかわからないときは、いつも軍隊を呼びつけました。こうしてチェルノブイリに「軍科学センター」が設置され、200人の最高の専門家が集められました。4月28日、軍用車両で専門家たちがやってきました。「何をしたらよいのか」という私たちの質問に「わからない、何をすべきか君たちで決めなさい」という答が返ってきました。
まるで戦争状態でした。男たちは皆召集されました。公的任務、軍務に就いた経験がある人間はすべて召集され、職務に就かされたのです。何が起きたかを理解していた人たちは、外国に逃げるか、身を隠しました。そういう人たちもいたということです。学者たちも召集され、この最初の段階で役に立ちそうな人々は、すべて呼び寄せられました。運転手や建設作業員、それにお墓を掘るための人手も集められたのです。私たちが着いたとき、周囲の汚染は毎時10~15レムでした。
私たちがチェルノブイリに出発する前夜、軍の医療部隊の隊長はとても神経質になっていました。彼は私のところにやってきて言いました。「これは決死の任務ですね。多量のプルトニウムがあって、これほどのプルトニウムを浴びると、生き延びることはできないでしょう」と。私は彼に、「我々は軍人です。遅かれ早かれ壕から飛び出し、攻撃に出向かないといけない状況に直面します。もちろん殺されることもあるかもしれません。でもどうしようもないでしょう。我々は軍人なのです」と答えました。
チェルノブイリ以前と以後では人間が変わってしまう様子を見ました。最初の夜、原発火災の消火に当たった消防隊員たちやリクビダートルたち、彼らは人格が変わってしまいました。ロボットが壊れてしまったところで、彼らは防護服なしで作業したのです。彼らは高濃度汚染については、何も知らされないまま、放射線を浴びてしまいました。この隠ぺいと引き換えに、彼らは死ぬ前に、政府から授与された証明書とメダルを喜んで受け取ったのです。
1987年末までにチェルノブイリではおよそ20万人のリクビダートルが投入された。そのうち約千人が事故直後の致死量の放射線を浴びた。残りの人たちは、より低い量の放射線を浴びた。それ以後、WHOの調査では60万人から80万人の人が収束事業に従事したとされているが、正確な人数は把握されていない。彼らの約半数しか登録されていないからである。しかもデータが完全なわけではない。「リクビダートルたちは集団自決さえ考えていた」というアンドレエフさんは、インタビューを次のように締めくくった。
霊安室で「軍服をどのように着衣させるか、ご覧になりますか」と尋ねられたので、もちろん見たいと答えました。観兵式のときの軍服が着せられ、帽子は胸に置かれていました。足が膨れ上がっていたため、足に合う靴は見つけられませんでした。遺体はボロボロと崩れかけているので、軍服も切り離してからでないと着せられなかったそうです。彼が病院にいた最後の2日間、腕を持ち上げると骨があちこちに揺れていました。肉は骨から離れていました。肺と肝臓の一部は口から飛び出し、自分の内臓のために窒息しかけていました。私は手に布を巻きつけ、彼の口の中に手を突っ込んで、内臓を引き出しました。この悲惨さは、話しても、書いても誰にも伝わりません」。
2014年5月、ブランドナーさんは日本で知人のジャーナリストの紹介を受け、外国人記者のインタビューに応じてもよいという人に会った。林哲哉さんだ。彼は長野県飯田市に住む42歳の建築作業員で、福島原発で2回働いた後、故郷に戻り、今は太陽パネルの製造工場で働いている。林さんは、「自分の国が危機に陥ったなら、何とかしたいと思う気持ちから福島での仕事に携わる決意をした」と言う。放射線量の低い場所での仕事を希望したにもかかわらず、林さんが配置されたのは5分しかいられないという非常に線量の高い場所であった。林さんを雇った下請け会社に、「最初の話と違う、危険ではない場所での仕事という話だった、なぜ最初に言ってくれなかったのかと話したところ、即刻解雇された」という。その後、林さんはもう一度福島に行き、2週間働いた。それは、彼が解雇された最初の会社とは違う下請け会社を試したかったからだ。2度目の会社は、確かに年間線量を超えない作業を斡旋してくれたが、支払いの段階で給与が当初の話とは違っていた。下請け会社が日給を中間搾取していたのである。仲間の作業員と話したところ、誰もが同じ経験をしていたという。現在、林さんは非正規雇用者の労働組合である派遣ユニオンを通じて、危険手当の支払いを求める労働審判を起こしているが、その結果がどうなるかはわからない。先例がないからだ。数千人の原発作業員が林さんと同じような経験をしているが、法に訴えたのは今まで林さんただ一人である。二度と職に就けないことを恐れているのかもしれない。林さんは語る。
僕だって不安ですよ。でも僕が黙ってしまえば、何も変わらない。やましいことはありませんから。逆に、僕が名乗りをあげることによって、相手方は僕に何かをすることが難しくなると思います。偽名や別名を使うほうが危険でしょう。名前を名乗り、顔を見せるほうが、安全だと思っています。もし僕が何も語らなかったら、何も変わらないでしょう。この状態で終わらせたくないのです。
福島の原発作業に携わる90%は日雇い労働者。彼らが年間線量を超えれば、次の日雇いがやってくる。線量を超える。また次の労働者といった繰り返しの中で、林さんは、いずれ労働者が不足する事態が来ると考えている。廃炉までには30年、40年がかかる。林さんは、「こんなやり方で労働者を確保することはできません。そして、作業員がいなくなったら、それは日本だけではなく、世界も巻き込むことになるでしょう」と語る。
スヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチさんは、福島事故の前に北海道を訪れ、泊発電所の職員と話したことがあると言う。その時のことを彼女は、「日本の原発に比べれば、ロシアの原発は牛小屋みたいなものでした。そして日本人は『ロシアで起きたようなことは、ここでは起きませんよ』と言いました」と述べている。
「進歩は自己破壊的な道を進むものです。まだ何かが起きるでしょう。いわゆる進歩と呼ばれるものは私たちに闘いを挑むのです。私は過去について書きました。でもそれは未来であることがわかったのです」というアレクシエーヴィッチさんの言葉で番組は終わる。