ドイツの女性参政権100年に思う

永井 潤子 / 2018年12月2日

ドイツの女性参政権100年の記念式典でスピーチするメルケル首相©️Bundesregierung/Steins

「ツバメが1羽飛んで来たからといって、夏が来たことにはなりません。私が首相だからといって、男女平等が実現しているわけではありません。社会の各分野で完全な男女平等を実現するべきですが、そのためにさらに100年待つようなことがあってはなりません」。こう強調したのは、この13年間、ドイツの連邦首相の地位にあるアンゲラ・メルケル首相で、並みいる女性たちから拍手喝采をあびた。11月12日にベルリンの歴史博物館内のホールで開かれたドイツの女性参政権100年を祝う記念式典でのことだった。

今年の11月には第一次世界大戦終結100年とドイツでの共和国誕生の歴史を記念する公式行事がいろいろ行われたが、ドイツの女性たちも、女性が参政権を得て100年経ったことを各地で祝った。ドイツの連邦家庭・高齢者・女性・青年省は、これを機会に「女性参政権100年」のキャンペーンを実施し、現在の社会での女性の地位をさまざまな観点から検証した。そのクライマックスが11月12日に行われたベルリンでの記念式典で、超党派の女性政治家たちや社会各層の女性たちが参加した。

ドイツの女性たちが参政権を得たのは、いわゆる11月革命の結果だった。第一次世界大戦がキールの軍港の水兵の反乱がきっかけで終わり、ドイツ皇帝ヴィルヘルム二世が退位を余儀なくされた直後のことだった。1918年11月9日、のちにワイマール共和国の首相に就任する社会民主党のフィリップ・シャイデマンが、ベルリンの帝国議会の建物の窓から共和国誕生を宣言したが、その3日後の11月12日、シャイデマンら社会民主党と独立社会民主党による臨時政府(人民代表委員会政府)は、男女の普通選挙権の導入を決定した。ドイツの目覚めた女性たちは、19世紀後半から女性の参政権を要求して運動してきたが、第一次世界大戦の敗戦と11月革命の結果として、その目標が実現されたのだった。この時ドイツの女性たちは、選挙権だけではなく、被選挙権、つまり自ら政治家になる権利も取得した。

それからちょうど100年後の11月12日にベルリンで行われた記念式典には、ニュージーランドの労働党党首で首相のジャシンダ・アーダーンさんが、ヴィデオ参加した。現在38歳の彼女は、今年6月に第一子(女児)を出産し、世界で初めて首相在任中に産休をとった政治家として話題になったが、実は世界で最初に1893年に女性に参政権を認めた国が、このニュージーランドなのだった。アーダーン首相は、現在世界で女性が首相の地位にある国は、わずかに全体の5%に過ぎない、ドイツはその数少ない5%に含まれるとお祝いの言葉を述べた。

この記念式典でのメルケル首相のスピーチは、慎重な発言をするいつものメルケル首相とは一味違って、はっきりした言葉が目立った。2005年11月以降首相の地位にあるメルケル首相は、自分自身をフェミニストとは思っていないそうだが、女性の首相としての存在感が、若い女性たちに与えた影響は大きい。そのメルケル首相が政界や経済界、社会各層の完全な男女平等の実現を要求し、自分の属する政治の世界、さらには自ら率いる保守政党の現状をはっきり批判したのを聞いて、私は目をみはる思いがした。

ドイツ各地で女性市長が少なく、各州議会でいまだに女性議員が4分の1に達しないところがあるという現実は、衝撃的です。また、国政段階でも今期の連邦議会での女性議員の比率は30.7%で、前期の37.1%からかなり減ってしまいました。これはキリスト教民主同盟(CDU、注:党首はメルケル首相)とキリスト教社会同盟(CSU)では、女性議員が5分の1にすぎないこと、また、候補者リストによる比例代表の方では女性が多いものの、小選挙区の候補者がほとんど男性だったということが原因です。さらに、「ドイツのための選択肢(AfD、注:右翼ポピュリスト政党で今回連邦議会に初進出した)」では90%が男性であることなどが影響しています。現在女性議員の方が多いのは左翼党と緑の党だけです。

ジュースムート元連邦議会議長(左端)ら女性政治家と話し合うメルケル首相 ©️Bundesregierung/Steins

ドイツでは、1988年、西ドイツの国民政党、社会民主党(SPD)が議員の女性候補者を今後10年の間に最低40%にするべきだという女性割当制(クオーター制)を導入した(最初は33%でスタートして1998年に40%に)。当時国民政党のSPDが男女平等を実現するための具体的な措置を決定したことは、画期的なことと評価された。それ以前に環境保護政党の緑の党は、1979年に党を結成した際に、議員の候補者と党役員の少なくとも半分は女性にすることを決めた。これは50%のクオーター制を導入したのと同じだと見られているが、当初は小政党だった緑の党の例に大政党のSPDが従った意義は大きかった。同じく国民政党であるCDUでもリタ・ジュースムート連邦議会議長(1988年〜1998年)が中心になって割当制の導入をはかったが、男性党員の反対にあって、なかなか実現しなかった。結局統一後の1996年になって30%の女性割当制を最初は5年の期限付きで導入した。しかし、その割当制は義務を伴うものではなく、努力目標のような漠然としたものに過ぎなかった。2000年4月にCDU の党首に就任したメルケル首相が特に党内の女性の地位向上に努力したとは私には思えなかった。そのメルケル首相が、実は完全な男女平等を望んでいて、いまでも一部に反対のある女性割当制導入すら過渡的なものに過ぎないと考えていることが、今回初めてわかったのだった。

メルケル首相は、10月28日に行われたヘッセン州議会選挙でCDUが大幅に得票を減らした責任を取って18年間その地位にあったCDU党首を辞任すると発表したばかりだが、そのことで、気持ちが自由になったからだろうか、自分の属する党の実情についてもはっきりと批判した。こうして見ると、メルケル首相は長年党内の女性の地位に不満を持っていたようである。

なお、今期のドイツ連邦議会議員の数は709人(男性491人、女性218人)と過去最大に増えたが、女性の比率はメルケル首相が述べた通り30.7%で、過去20年間で最低という低さだった。その結果国際ランキングでドイツは前回の21位から45位に転落した。CDU・CSUに続いて女性議員が少ないのは自由民主党(FDP)だが、FDPの女性議員たちは、自分たちは割当制で選ばれた議員ではないと誇りを持っており、同党の男性党員はもとより女性党員も割当制には反対している。その結果女性議員の数は少数に留まっている。女性の議員の方が多い緑の党や左翼党に続いて伝統的に女性が多いのはSPDだが、今回は党自身が選挙で振るわず、女性議員の割合は42%にすぎなかった。

旧東ドイツ出身のメルケル首相が記念式典で、旧西ドイツの法律について次のように述べたことも、私には目新しいものだった。

旧西ドイツの民法の女性差別的な法律が最近まで残っていたことにも驚きます。旧西ドイツでは結婚している女性が働きたいと思った場合、夫の許可が必要でした。その必要がなくなったのが、ようやく1977年になってからなどというのは、今日の視点から見ると、信じがたいことです。

旧東ドイツ出身ということをほとんど強調しないメルケル首相だが、旧東ドイツでは90%以上の女性が働いていて、結婚した女性が働くのも当然と考えられていた。この発言でも私はメルケル首相の本音を初めて聞いたという思いがした。

ドイツの女性参政権100年を祝う女性首相のスピーチを聞きながら、私はかつての経験を思い出していた。日本の土井たか子さん(日本社会党)が1993年に日本で初めての女性衆議院議長に就任した後、当時のドイツ連邦議会の女性議長、リタ・ジュースムートさんを表敬訪問した時のことだ。まだ連邦議会がボンにあった頃だが、当時ケルンに本社のあったドイツの公共国際放送、ドイチェ・ヴェレの日本語放送で記者として働いていた私は、時間がないお二人に短いインタビューをした。まずジュースムート議長にマイクを向けると、「女性の政治家が少ないという点では、日本もドイツもまったく同じ問題を抱えていることがよくわかりました」。これに対し、土井さんは「同じ問題を抱えていることは確かなのですが、そのレベルが全然違うことを痛感させられ、本当に情けなくなりました」とがっくりした表情だった。その頃土井さんはマドンナ作戦と称して女性政治家を増やそうと尽力していて、事実、その成果も少しは上がっていたと思うのだが、今は土井さんのような政治家もいなくなり、日本の女性議員の数は依然として異常に少ない。

日本の女性たちが参政権を獲得したのは、第二次世界大戦が終わった後の1945年12月のことで、以来70年以上が経過したが、女性政治家の少なさでは、日本は先進国中最低で、国際比較では196カ国中160番目という情けなさだ。いまだに県議会議員の中に女性が一人もいないところがいくつもあるという。安倍政権は「すべての女性が輝ける社会」というかっこいい目標を掲げてはいるが、こうした実情が変わる気配は何も見られない。長年「女性議員を増やそう」という運動を続ける日本の女性たちからは、失望の声が聞こえてくる。この分では彼女たちがたとえ「100年河清を待った」としても、日本の男性支配の構造は変わらないのではないだろうか。

参考記事:メルケル時代の終わりの始まり

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