統一28周年を迎えたドイツ  ②市民の祭典で出会った人たち

池永 記代美 / 2018年10月7日

今年の10月3日の東西ドイツ統一中央記念式典は、私たちの住むベルリン州が主催し、10月1日から3日まで、3日間に渡って、「NUR MIT EUCH」(直訳すると「君たちと一緒にのみ」)というスローガンのもと、市民の祭典が開かれた。 人混みは苦手だが、どうしても見ておきたいものがあったので、統一記念日の3日に出かけてみた。

「あなたはどこに住んでいるの?」という呼びかけで始まる『統一のバンド」

市民の祭典は、ブランデンブルク門の西側に広がる大きな森のような公園、ティアガルテンの一部と、それに隣接する連邦議会議事堂前の共和国広場で行なわれた。ベルリン中央駅を出て祭典の会場に向かおうとして、早速、目的のものを見つけた。それは、1万1040枚の黄色の標識を道路に貼った「統一のベルト」というインスタレーションだ。どの標識にも、地名が一つ書かれているが、ドイツに住む人なら誰でも、この標識を知っているはずだ。 ある市町村に入るときに、その名前が書かれたこの標識が必ず道路端に立っているからだ。インスタレーションの最初に、「あなたはどこに住んでいるの?」と書かれた一回り大きな標識があり、その後ろにアルファベット順に、400枚ほどの標識がぎっしり並んでいた。一番目はAachで、ドイツ各地からこの祭典に来た人たちは、自分の町の標識を探してみようと思ったはずだ。その先は標識が一枚ずつ帯のように続いていて、まるで祭典会場に私を導いてくれるようだった。

友人家族が住んでいるドイツ東南部の町Altenburgの標識を見つけて、私はさっそく写真を撮ったが,周りでも同じようなことをしている人がたくさんいた。知っている地名を見つけると少し嬉しくなったし、聞いたこともない地名を読むと、どんなところか想像してみた。しばらく歩いて気がついたのだが、地名の下に、小さな文字でその市町村の人口も記されていた。Grothusenkoogという聞いたこともない 村の人口は21人だった。そんな小さな村も、ドイツ最大の都市で人口340万人以上の首都ベルリンも、標識の大きさは同じだ。日頃、国や州といった単位で政治や経済を捉えることが多いが、ドイツという国は、実はこんなにたくさんの市町村から構成されていることを、このインスタレーションは教えてくれた。そしてそれは、 1万1040のどの市町村も、そこに住むどの人も、同じだけ価値のある大切な存在だと語っているように思えた。

祭典会場に入ってもそのベルトは延々と続いていたのだが、すべての市町村をたどって歩く時間はなかったので、入り口付近に立っていた祭典の男性スタッフからパンフレットを受け取り、会場の概要を説明してもらった。スタッフは20代から30代の人が多い様に見受けたが、この男性はずっと年配だった。なぜかそれが気になり尋ねてみると、南ドイツ出身だが、仕事でオランダ国境に近いアーヘン市に住んでいた、ところが2007年に観光で訪れたベルリンに一目惚れして、定年になった2009年に夫婦でベルリンに引っ越してきたと、教えてくれた。東ベルリン郊外のカウルスドルフという地区に住んでいるそうだ。旧西ドイツ地域からベルリンに越してくる人はたくさんいるが、市の中心部か、旧西ベルリンに住むケースが多い。「なぜ、カウルスドルフに?」と尋ねると、実は友人からも、わざわざ東ベルリンに住まなくてもいいではないかと言われたという。しかし、交通の便がよくベルリンの文化生活を満喫できるし、歴史的建造物に指定されている素敵な家を手に入れたので、大満足とのことだった。 カウルスドルフには、東ドイツの時代からずっと住んでいる人たちが多いのだが、西から来た自分たちを隣人は暖かく迎えてくれたという。考えてみると、私はベルリン滞在28年になるのに、カウルスドルフには一度しか行ったことがなく、その地域や住民のことをほとんど知らない。にもかかわらず、東ドイツ育ちの隣人たちと上手くやっていけないのではないか?などと、おせっかいにも心配したことが、恥ずかしくなった。一人でも多くの人に、ベルリンを気に入ってもらうために、ベルリン市が主催するイベントでよくボランティアをするそうだ。寒い中でも祭典の間、毎日 6時間屋外に立ってパンフレットを配っていたというから、ベルリンを愛するその気持ちは本物だ。

会場を入ってすぐの広場は、ドイツの16の州が設けたテントや小屋が並ぶ、州のコーナーになっていて、各州が名所や名物を紹介していた。百貨店の物産展のような感じで、チューリンゲン州は自慢のソーセージを、ハンブルク州は海外からハンブルク港に運ばれた紅茶を楽しめるコーナーを設けていた。 バーデン・ヴュルテンベルク州のテントの中で、突然私の名前を呼ぶ人がいるので振り向くと、友人の男性が立っていた。同州はワインの産地で、パートナーとワインを飲んでいるところだという。その友人は1948年、西ベルリン生まれ、パートナーは1955年、東ベルリン生まれ。ベルリンの壁が崩壊して10年以上経った2003年頃、二人は知り合い、長い付き合いの末、5年前に結婚したのだった。彼は初婚、彼女は東ドイツの多くの人がそうだったように、20歳代の初めに結婚、出産し、その後離婚も経験した。ベルリンの壁が存在し続けたら、二人が出会うことはまずなかったはずなので、毎年、壁の崩壊記念日や統一記念日は、二人で祝っているそうだ。彼女の両親は共産主義の信奉者だったと聞いたことがある。ところが今の夫は、 不動産をいくつか所有する資産家だ。彼女の中に、葛藤はなかったのだろうか?そして彼女は 、資産家の夫を獲得した「壁崩壊の勝者」と見られることをどう感じているのだろうか?そんなことを思いながらも、今はその話をするのに相応しい場ではないと、私は席を立った。

「歴史と想起」のコーナーに設けられた 壁崩壊から ドイツ統一までを紹介する展示

市民の祭典には、家族向けのコーナーや、食のコーナー、最新技術を紹介するコーナー、音楽を演奏するステージなどがあったが、私の興味を引いたのは、「歴史と想起」というコーナーだった。ベルリンの壁が崩壊した1989年11月9日から東西ドイツが統一された1990年10月3日までを紹介する展示をみると、いまさらながら、東西ドイツ統一という大プロジェクトのための様々な準備が、一年もしないで成し遂げられたのは、大変な偉業だったことに気がついた。今のドイツの効率の悪い行政の仕事ぶりを思うと、信じられないスピードだ。「歴史と想起」のコーナーには、ベルリンの壁の追悼記念館、東ドイツ秘密警察本部跡に作られた記念館、ドイツ歴史博物館など多く記念館や博物館がテントを出して、自分達の活動を紹介していた。国が統一されたことで、ドイツは東ドイツの歴史も、西ドイツの歴史も、引き受けることになったことを、これらの展示は示していた。

壁崩壊の11月9日から、その年の年末まで、東ドイツ市民は西ドイツで、100西ドイツ・マルクの歓迎金を銀行で受け取ることができたのだが、そのお金を何に使ったか回答するコーナーが、ドイツ歴史博物館のテントにあった。東ドイツではなかなか手に入らず羨望の的だったというバナナと書いている人が多く、ほかには当時世界中で流行していたウォークマン、経営学の教科書などという答えもあった。そこに来ていた二人連れの女性の話では、西ベルリンのあるスーパーマーケットが、トラック一杯のバナナを持ってきて東ベルリン市民に配ったこともあり、敗戦国の国民のように扱われて嫌だったそうだ。片方の女性は、資本主義国家のお金なんか受け取るまいと思ったが、結局、夫に腕時計を贈ったそうだ。最初はそんな他愛ない話をしていたのだが、その女性は実はベルリン東部にあるこの歴史博物館で、東ドイツ時代は研究員をしていたが、東西ドイツ統一で、解雇されてしまったことを教えてくれた。美術史の博士号まで取ったのに、自分の人生は壁の崩壊ですっかり狂ってしまい、「統一28年も経った今になって、あなたたちの不満を聞きましょうなんて言われても、遅すぎるのよ」と、政治家たちへの怒りの言葉を投げつけた。かつての職場だったこの博物館のテントに来たこと自体、複雑な気持ちを抱えてのことだったに違いない。

3日間を通じて、祭典には合計60万人の市民が集まったという。そのうちのたった4人の人生のごく一部に触れただけだが、いろいろな思いでこの日を向かえる人がいることを実感した。今、ドイツ社会はいろいろな意味で分断の危機にあると言われているが、「統一のベルト」が人々の心をつないでくれればよいと、願わずにいられなかった。夕陽に照らされたブランデンブルク門の前では、賑やかな音楽が鳴り響いていたが、肌寒くなってきたので、家に帰ることにした。NENAなど有名なミュージシャンが登場し、夜には花火が打ち上げられることになっており、祭典の本番はこれからだった。

 

 

 

 

 

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