なぜ原爆は投下されたか
「ポツダム宣言」の名前で日本でも知られるベルリン郊外のポツダム市に、広島と長崎の名前を冠した広場がある。 ポツダムは、1945年7月17日から8月2日にかけて米国、英国、ソ連3カ国の首脳が集まって、第二次世界大戦後の戦後処理を決めるための会談を行った地だが、会談に参加した米国のトルーマン大統領の責任のもとに日本への原爆投下命令が下されることになった地でもある。そのことを忘れないために、原爆に反対する市民運動の働きで、この街の小さな広場が「ヒロシマ・ナガサキ広場」と命名されている。
原爆投下の命令が下されたのは1945年7月25日だった。米国大統領、英国首相、中華民国主席の名において日本政府に対し日本軍の無条件降伏などを求めるポツダム宣言が表明された7月26日の1日前だ。
この広場は、会談会期中にトルーマン大統領が滞在していた高級住宅街の立派な屋敷の前を走る道を挟んで向かい側に位置する。それまで名前のなかったこの小さな広場 を「ヒロシマ広場」と命名することは、広島と長崎への原爆投下で犠牲になった人々の悲惨さを回顧し、核兵器を世界から追放するよう願うベルリンやポツダムに住む市民たちの働きかけが実って、2005年にポツダム市議会により決定された。2007年には「ポツダム・ヒロシマ広場をつくる会」が生まれ、2010年に同会の尽力で、広島と長崎から運ばれてきた被曝した石も埋め込まれた立派な記念碑が落成、除幕されている。その後、この広場の正式名は、より適切な「ヒロシマ・ナガサキ広場」に変更された。
この広場では数年来、毎年7月25日に広島と長崎への原発投下を思い、2度と同じ過ちが繰り返されることのないよう、平和を求める式典が行われている。トルーマン大統領の原爆投下命令から70年目に当たる今年も、式典があり、ポツダム・ヒロシマ広場をつくる会会長の挨拶やこの広場の持つ意義についての話、在ドイツ日本国大使からの挨拶、広島市長と長崎市長からの書簡の朗読、ポツダム市代表のスピーチ、ICAN (International Campaign to Abolish Nuclear Weapons )ドイツ支部の若い代表らによる活動報告などがあった。
日本国大使は、日本が核兵器のない世界を求めていることを強調、広島と長崎市長は原爆の悲惨さを訴えて平和を求める願いを文章に綴っていた。ただ、日本からのメッセージには、「なぜ原爆が日本に投下さることになったか」という原爆投下の背景に関する発言は一切なかった。それを語ったのはポツダム市長を代理してスピーチを行ったポツダム市の副市長のマティアス・クリップ氏(緑の党)だけだった。
同氏は、リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー元ドイツ連邦大統領がドイツ敗戦40周年記念の式典で行った有名な、過去を振り返ることの重大さを語った演説に触れ、ドイツが敗戦に至る前に何があったかについて話した。そして、「米国による日本への原爆投下の背景には、日本の中国侵略やパールハーバー攻撃があった」と指摘し、その場に集まっていた一同に、その事実をはっきりと思い起こさせた。
日本の中国侵略やパールハーバー攻撃があったからといって、それが原爆投下を正当化するものではないと思います。
確かに日本は過去の過ちを正面から向き合ってこなかったし、ドイツのように自分で自分の国を裁くということもしませんでした。それは日本の大きな問題です。
しかしそれと原爆投下は関係がないと思います。日本がポツダム宣言を受諾すると分かった後でも、トルーマン大統領は原爆投下を命じたのですから。日本はただの原爆の実験場に過ぎなかったのではないでょうか。
コメントをありがとうございました。
マティアス・クリップ氏は、原爆投下を正当化などしていません。同氏はただ、日本が戦争を始めていなければ、原爆も投下されなかっただろう、と言っているだけです。
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