イギリスのEU離脱に思う

永井 潤子 / 2016年7月3日

Brexit(イギリスのEU離脱)を巡る国民投票で、離脱派が多数を占めるという「まさかの結果」に、私も大きな衝撃を受けた。大方の人たちと同じように、イギリス人のEUに対する不満がどんなに大きくても、EU 離脱によるマイナス面を考えれば、少数差で残留派が勝つものと予想していたからである。国民投票を実施することで、国内の離脱派の怒りや不満のガス抜きをし、同時にEUに対しては離脱をチラつかせることでEU内でのイギリスの地位を有利にしようとしたキャメロン首相の目論見は、完全に失敗したことになる。

EUからの離脱という国民投票の結果を受けて、イギリスの通貨ポンドが暴落したのみならず、世界中の株価が一時大巾に下落するという影響が出た。こうした現実と今後は金融シティーとしてのロンドンの価値が下がり、EUの連邦銀行のあるドイツのフランクフルトの価値が上がりそうだなどという報道に、EU離脱に賛成投票をした人たちの間にも動揺が見られるとも伝えられる。そうしてみると、離脱の客観的な影響を理性的に考えることなく、「イギリス独自の誇り高き道を選ぶべきだ」とか「ドイツが支配しているEUはナチスが支配しているのと同じ」といった離脱派の旗振り役の感情的な主張に影響されたイギリス人が多かったということになるのだろうか。

拡大を続けてきたEUの歴史で初めて離脱国が出たという歴史的な出来事に、私は忘れかけていた何十年も前のことを改めて思い出した。私が旧西ドイツの公共国際放送局ドイチェ・ヴェレ日本語課の職員として働くため、当時放送センターのあったケルンに来たのは、1972年5月のことだった。仕事を初めてしばらく経った頃だったと思うが、ドイツのニュースを日本語に翻訳していて、びっくり仰天したことがあった。「イギリスはヨーロッパではない。島国で、島国の人たちは独特のおかしな考え方をする」というようなことを、ドイツの政治家が発言していたからだ。「イギリスこそヨーロッパの中心」となんとなく思い込んでいた当時の私は、「そのイギリスがヨーロッパではない」と聞いて、びっくりしたのだった。その頃のヨーロッパでは、イギリスをEC(EUの前身、ヨーロッパ共同体)に参加させるべきかどうかという議論が高まっていた時で、フランスやドイツなどヨーロッパ大陸のEC原加盟国の間では、島国、イギリスの加盟に反対する人たちがかなりいたのである。結局イギリスの加盟は翌1973年1月に認められたが、それまでにフランスのドゴール大統領(当時)によって2度にわたって加盟申請を拒否されている。

ヨーロッパの統合はもともとイギリスのチャーチル元首相のアイディアで、第二次世界大戦が終わった直後の1946年9月19日にスイスのチューリッヒで行った演説が、発端になったと言われている。この演説で彼は「我々はヨーロッパ合衆国のようなものを作らなければならない。ただし、大英帝国は独自の世界大国としての地位を維持しなければならない」などと語っている。しかし、統合の具体的な歩みは、1952年にフランス、ドイツなど6カ国でECSC(ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体)が発足したことで始まった。ヨーロッパ大陸で2度も世界大戦を引き起こした反省から、フランスと当時の西ドイツは、紛争の原因となりうる資源(石炭と鉄鋼)を共有することで、平和への一歩を歩み出そうとしたのだった。1958年にはEEC(ヨーロッパ経済共同体)、1967年にはEC(ヨーロッパ共同体)が発足したが、世界の先進国としてのプライドの高いイギリスは、自国の主権にこだわり、当初これらの組織に加盟しなかった。

そのイギリスが方針を変えて加盟申請をしたのは、1961年のことだった。当時イギリスの経済は低迷し、「英国病」という言葉が流行語になるほど、社会全体に閉塞感が広がっていた。その頃のイギリスは、ヨーロッパと結びつくことによって、そうした事態を打開し、経済回復を図ろうとしたのだが、ドゴール大統領の反対にあい、最初の加盟申請から12年後の1973年になって、ようやく ECへの加盟が認められたのだった。1993年にはEU(ヨーロッパ連合)が発足し、加盟国は28カ国になったが、イギリスはEUの統合から一定の距離を置き、自国の利益を優先させる態度を貫いてきた。EUを象徴する二つの重要な協定、国境での入国審査なしで域内を自由に移動できるシェンゲン協定と単一通過のユーロ導入協定に参加せず、自国の通貨ポンドを維持してきたことに、イギリスの立ち位置が示されている。政治統合への動きをますます加速させるEUと自国の主権尊重と経済重視のイギリスとの間には、亀裂が一段と深まり、政権与党内の権力闘争も加わって、今回の国民投票へと繋がったという経緯がある。

イギリスに対する違和感を私自身が特に感じたのは、イラク戦争のときだった。イラク戦争に反対するフランスやドイツなど大陸諸国の意向に反して、イギリスはアメリカのブッシュ政権のイラク戦争に積極的に参加したが、EU加盟国との関係よりアングロ・サクソン同士の特別な関係を優先させたことが強く印象に残った。(後にイギリスのブレア元首相は、「イラク戦争参加は誤りだった」と謝罪したが)。また、イギリスはEU 内で自国の特権を主張するエゴイスティックな国という印象も強かったので、「EUから出たければ、さっさと出て行けば」などと思ったことも1度ならずあったのだが、実際にBrexitという結論が出されてみると、自分でもびっくりするほど狼狽してしまった。

私が特に気の毒だと思うのは、ヨーロッパ人としてのアイデンティティを持って育ってきた若いイギリス人たちが、突然ヨーロッパ大陸へのはしごを外されてしまったことである。これからはイギリスの若者たちがEU加盟諸国の大学で勉強することも、これらの国々で働くことも、これまでのように自由には行かなくなるだろう。EU脱退派は、イギリスの過去の栄光を忘れられない年齢の高い層に多く、若い人たちには残留派が多いと言われ、今回の国民投票では若い有権者の75%がEU残留に一票を投じたと伝えられる。 若い人たちの希望に反して、国民投票は僅差でEU脱退という結論を出したが、EU 脱退の影響を実際に受けるのは何と言っても若い世代である。若い人たちの間では失望と怒りの声が渦巻き、国民投票のやり直しを求める人が多いとも聞くが、一方で彼らに対して「自業自得だ」という冷たい声も聞こえてくる。投票した若者に限ってみれば75%という圧倒的多数が残留に投票したが、若い層の投票率そのものが低かったのだ。今回の国民投票の投票率は全体では72%だったが、1番投票率の高かったのは65歳以上の83%で、最も低かったのが18歳から24歳までの36%、ついで低かったのが25歳から34歳までの58%だったという。投票しなかった若い世代が、その結果に怒る資格はないということだろう。7月2日にはロンドンで、EUからの脱退に反対する人たちが、再度の国民投票実施を求める大規模デモを行ったというが、その要求が受け入れられる可能性は少ないとみられている。

高齢者ほど投票率が高く、若者ほど投票に行かないという傾向は、日本でも同じではないだろうか。7月10日の参議院選挙は、今後の日本の進むべき道を決定する重要な選挙である。政権与党側が3分の2を獲得することを許してしまえば、憲法改正(改悪)への道を開くことになり、その悪影響をもろに背負わなければならないのは、若者たちである。日本の若い人たちが、イギリスの若者の二の舞にならないよう、今回の国民投票の結果から学んで、こぞって選挙に出かけ、高齢者たちを見返して欲しいと、高齢者に属する私は切望する。ちなみに在外邦人たちの投票は7月3日までで、私もベルリンの日本大使館での投票を早々と済ませた。

 

One Response to イギリスのEU離脱に思う

  1. 折原(埼玉県) says:

     条件がそろっての本来の意味での国民投票は、意義があるはずですが、その怖さがでた国民投票でした。首相の失政といっていいでしょうか。投票率が低かった若者にも責任はあるにしても、これから社会を作り、生きていく若者への思い、同感です。
    基本的には若者を信頼し、期待してはいるのですが、必要な情報を制限され、管理されがちな社会体制が壁としてあります。日本の民主主義の底の浅さです。政権の狡賢い情報とメディアの統制と自主規制が憂うべきものとしてあります。投票に向けてのメディアの報道が、以前より、ずっと減っています。去年から活躍するSEALDsなどの若者たちが、野党の共闘を訴え(ご存知のように32の一人区で野党共闘ができました)、選挙に行こう、などと一生懸命に呼びかけているのは救いです。