「ヘイト」と「怒り」は同じか?

やま / 2015年10月25日

ベルリンで行なわれた菅直人講演会で挨拶に出た緑の党の連邦議会議員コッティング=ウール氏が、「このごろ日本では、ドイツのエネルギー転換は『失敗』だと、多くのメディアが報道している」と語ったことは、前回このサイトでもお伝えしました。このことに関連して気がかりなのは、ドイツ人の人間性を証拠としてドイツのエネルギー転換を批判する非論理的な文章を度々見かけることです。これらは、他国の市民や、違った文化に対するヘイトスピーチにほぼ近いと感じました。ところで、こういった「ヘイト」はどこから来ているのでしょうか。

「ヘイト」を持つ市民と「怒り」を持つ市民との違いについてを社会学者ハインツ・ブーデ教授は次のように述べています。

今日、社会の中間層には、不平不満を持つ人が非常にたくさんいます。常に不満を抱えている社会層があるのです。現在、国民の約10%がこの「恨み社会層(Verbitterungsmilieu)」に属していると推測されます。彼らは決して失業者ではありません。彼らの大半は高い教育を受けていて、自分では大らかな世界観を持っているとさえ信じています。しかし、心の奥では「社会は自分の本当の才能と能力を認めてくれない」と悩んでいます。

例えば52才のエンジニアがいるとします。彼は自動車の研究開発部門のある下請け企業で働いています。ある日そこに若い35才の社員が彼の上司としてやって来て、彼に色々と指示を出してくるようになります。この若手社員は経験豊富な彼を他の部署に配置換えしてしまう権限も持っています。

この社会層に属する人たちは、経済的に困っているわけではありません。ただ「自分には腹立たしいことが起きているにもかかわらず、世間はかまってくれない」と感じているのです。あるいは「失業率が下がった」とか「ドイツの経済はヨーロッパで一番安定している」など結構ずくめの記事を読むと、彼らは自分の実感との開きを感じ不満を覚えるのです。「このようなことを主張する政治家は現実をまったく知らない。マスメディアは真実を伝えていない」。不平不満を持つ人は憎しみ「ヘイト」に駆り立てられます。

こうした「ヘイト」とは異なり、「怒り」とは人々を集団にまとめ上げる現象です。それは、伝統ある労働運動の歴史を見てみれば分かります。不公平な労働条件に対して「怒る」労働者は集団組織を作り、改善のために立ち上がります。「今、我々は被搾取階級かもしれないが、いつかは権利を得る日が来る」と。

他方、「ヘイト」は個人的なものです。「ヘイト」は侮辱に走ります。「ヘイトスピーチ」はネットなどを利用して侮辱的な意見を撒き散らしていきます。「ヘイト」は個人的な意見であると同時に大衆迎合的な発言です。そして、大衆におだてられて、人は発言のマナーを忘れてしまうのです。

福島原発事故の後、メルケル政権のエネルギー政策を180度転換させたのは、ドイツに住む市民が声を上げたからでした。「チェルノブイリ、そして福島、これだけの大事故が続いてもまだわからないのか。それでも原発は安全で安いエネルギーだと信じ込ませるのか」と、原子力村に対する国民一人ひとりの「怒り」が団結して、国のエネルギー転換を可能にしたわけです。

核廃棄物の処理がまだどうなるか分からない原子力発電所は、ドイツでもまだ稼動しています。二酸化炭素を排出する褐炭火力発電もまだ止まっていません。しかし近い未来には100%再生可能な自然エネルギー社会が実現できると、あの時「怒った」市民は信じています。demo_2

 

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„Hass ist gesellschaftsfähig geworden“, Heinz Bude, DLF
http://www.deutschlandfunk.de/extremismus-hass-ist-gesellschaftsfaehig-geworden.694.de.html?dram:article_id=333862

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