ダーチャと日本の強制収容所
日本とドイツの戦後70年に関するメディアの報道を比べると、日本では日本の戦争責任を具体的に検証するマスメディアの特集記事が少なかったと感じる。そんな中で、戦争中外国人を不当に逮捕、監禁した強制収容所が日本に存在したことに光を当てたこの本は、それだけでも読むに値する。しかし、それ以上にこの本は文学的に貴重で、さらに当時の日本で暮らしていた外国人の様子や日・独・伊の関係が描かれた部分など、歴史的にも大変興味深い。
『ダーチャと日本の強制収容所』(望月紀子著、未來社刊)のダーチャが、イタリアの著名な女流作家で詩人、劇作家であるダーチャ・マライーニであるという事実にまず驚かされる。そして彼女が2歳から9歳まで日本で暮らし、そのうちの2年ほどを名古屋の強制収容所で過ごしたこと、収容所では幼い彼女も過酷な飢えや寒さに苦しみ、日本の敗戦でやっと解放されたことなど、私はまったく知らなかった。また、日本に強制収容所があったことをほとんどの日本人は知らないと思うが、これは、特高警察が厳しく見張る人権無視の強制収容所も、日本では「抑留所」という無難な名前で呼ばれていたからだが(日本の内務省などの公式記録でも抑留所となっている)、外国人たちは、はっきり強制収容所と呼んでいた。
この本の著者、望月紀子氏は、イタリアのフェミニズムを代表する作家、あるいは1968年の「異議申し立て」の旗手として注目されてきたダーチャ・マライーニの著作の多くを長年日本語に翻訳し、紹介してきた人である。マライーニはこれまで何度もノーベル文学賞の候補にあがっているとか。最近日本ではマライーニの戯曲「メアリー・スチュアート」が上演されたと聞くが、この戯曲を翻訳したのも望月氏である。氏は本書で「日本での体験がマライーニの文学にどのように反映しているかを知りたいと思っていた。それは彼女の文学の一つの大きな核になっているはずだから」、「(ダーチャ・マライーニ作品の)『牢獄からの解放』という一貫したテーマは、間違いなく収容所の体験に発している。牢獄を知らずして『牢獄からの解放』というテーマはありえないからだ。そしてそれはフェミニズムを知る以前からのテーマなのである」とこの本を書いた動機を記している。望月氏の本の中には当然ながらマライーニの作品からの引用が多々あるため、当然本書も文学的になる。本書は作家ダーチャ・マライーニの優れた伝記である。と同時に1941年12月8日、日米開戦直後に特高警察と憲兵にスパイ容疑で逮捕された北海道大学のアメリカ人英語教師レーン夫妻と北大生の「宮沢レーン事件」の詳細な記述など、当時の国家秘密法の恐ろしさにも目を向けており、現代に通じる問題を投げかける著作ともなっている。
なぜ2歳のダーチャが戦時下の日本で暮らすようになったのか、それは民族学者であるフィレンツェ出身の父親、フォスコ・マライーニがアイヌ研究のため、北大に留学したからである。のちに京都大学で教鞭をとるようになるが、詩人、作家でもあり、また世界的な登山家、写真家としても知られる。日本に関する本も英訳本『ミーティング・ウイズ・ジャパン』や自伝小説『家・愛・宇宙』などがある。『家・愛・宇宙』は、前半が日本への渡航まで、後半が「日いずる国の日々、北海道、京都、名古屋」という日本滞在記で、名古屋の項が強制収容所の記録だという。金髪で青い目をした小さな女の子、ダーチャがイタリアの港から小さな船で両親とともに神戸に向かったのは1938年10月31日のことで、彼女は2歳のお誕生日を迎える直前、父は26歳、母は25歳だった。長い船旅の途中、ナチスドイツを逃れてきたユダヤ人たちと出会い、上海でフォスコはユダヤ人問題について考え込んでいる。
母親トパーツィアはシチリア島の貴族出身の女性で、シチリアにおける最初の現代画家の一人である。シチリアの反ファシストの若い20人の画家を集めて「ファシスト組合から自立した展覧会」を開催したこともあるが、結婚後は絵を断念せざるを得なかった。ダーチャのほか、日本で生まれたユキ、トーニの3人の娘がいる。望月紀子氏は、父フォスコの著作のほか、母トパーツィアの小さなノートブックに書かれた日記、末娘のトーニ(詩人、作家、美術評論家)の著書『トパーツィアの芸術と監禁の記録』、それに2001年に発表されたダーチャ自身の作品『神戸への船』などを参考にしながら、作家ダーチャ・マライーニの人生を浮き彫りにしようと試みたのだ。
マライーニ一家が逮捕されたのは、1943年秋のことで、避暑先の軽井沢で連行され、その後自宅監禁を経て10月21日に他のイタリア人とともに名古屋の天白収容所に移送された。逮捕の理由は、夫妻がイタリアのファシスト政権サロー政権への忠誠を示す宣誓を拒否したからだった。1943年9月8日、イタリア軍が連合国との休戦を発表し、イタリアは一旦日独伊三国同盟から離脱したが、9月12日、幽閉されていたムッソリーニがドイツ軍に救出され、ナチスドイツの傀儡政権サロー共和国を樹立した。日本政府はそのファシスト政権を承認し、在日イタリア人にサロー政権への忠誠を宣誓させたのだ。マライーニ夫妻が、これを拒否したために一家は小さな子供3人とともに2年近く過酷な収容所生活を余儀なくされたのだった。自由を奪われ、特高の嫌がらせを受け、絶えず飢えに苦しむ日々だった。フォスコが特高に対し、斧で自分の左手の小指を切って待遇改善を求めるというドラマチックな事件も起こった。収容されていたイタリア人同士の連帯感や人間的な賢さも興味深い。
収容所生活に関して、望月氏がナチの強制収容所を生きのびたイタリアの作家、プリーモ・レヴィの言葉やユダヤ人哲学者、ハンナ・アーレントの著書、『イェルサレムのアイヒマン』からの言葉を引用していることも印象に残った。ハンナ・アーレントは、占領ドイツ軍が強要するユダヤ人移送などの行政措置に対して、イタリア側の責任者や直接の担当者が口先だけ同意してサボタージュをしたことを、「古い文明国民のすべてに行きわたったほとんど無意識的な人間味の所産」と評していたという。望月氏によると、こうしたイタリア人の、古い文明国民としての人間性によって、イタリアのユダヤ人の多くがアウシュヴィッツに送られずにすんだということである。
ダーチャ・マライーニは幼少時の辛い経験にも変わらず、特高の目を盗んで彼女たちに食べ物を与えてくれた親切な農家の人たちのおかげで日本に対する愛を失わなかったと、戦後70周年に当たって発表した「愛する日本よ!」というメッセージの中で語っている。
読書の秋、いろいろな意味で興味深いこの本を、じっくりお読みになることをおすすめしたい。