恥の歴史を記憶に留める - 「国民哀悼の日」に考えさせられたこと

あきこ / 2014年11月30日

ドイツでは夏時間が終わる10月下旬になると、急に冬の足音が聞こえてくる。11月に入ると、日の暮が早くなり、お天気もどんよりとした曇りの日が多い。この月は死者に思いを馳せるときで、毎年のことながらベルリンの日刊紙「ターゲスシュピーゲル」では、死んだときにどうするか、墓地の特集などを組んでいる。そして11月第3週の日曜日は「国民哀悼の日(Volkstrauertag)」となっている。

「国民哀悼の日」は第一次世界大戦で戦死したドイツ人兵士を記念するために、1919年に創設された「ドイツ戦没者墓地管理事業国民連合 (Volksbund Deutsche Kriegsgräberfürsorge)」によって始められたもので、最初の公的式典が1922年にドイツ帝国議会で行われた後、国民哀悼の日が定着するようになった。しかし、ナチス政権の成立とともに、この日は「英雄記念日 (Heldengedenktag)」と名称を変え、記念日の方針や実施方法は帝国宣伝相と国防軍に委ねられるようになった。戦後、再び国民哀悼の日としてドイツ戦没者墓地管理事業国民連合が実施することになり、1950年に戦後初めて連邦議会で式典が行われたという経緯を持っている。

11月16日、ドイツ連邦議会で行われた今年の「国民哀悼の日」の式典には、ドイツ連邦大統領、ドイツ連邦議会副議長、ドイツ連邦参議院議長、ドイツ連邦裁判所副長官、ドイツ連邦国防相はじめ、連邦議会議員、連邦軍幹部など多くの政治家、軍人、遺族が参加していた。イツ第二公共放送(ZDF)がこの式典を中継した。私がテレビをつけたときには式典は始まっており、元在独イスラエル大使を務めたアヴィ・プリモール氏の演説が行われていたが、やがて私の目と耳は画面に釘付けになってしまった。加害者である兵士の死を、犠牲者がともに追悼できるのかというのが彼の演説のテーマであった。

プリモール氏は1935年テルアビブで生まれた。フランクフルトで教師をしていた母親はナチスが政権を得る前にパレスティナに移住し、そこでオランダから移住してきた男性と知り合い結婚した。母方の親戚はすべてホロコーストで殺害されている。ヘブライ大学で政治学と国際関係論、ニューヨーク市立大学とソルボンヌ大学で国際関係論を学んだ後、外交官としての道を歩み始める。いくつかの重要なポストに就いた後、ヘブライ大学の副学長となり、イスラエルとヨーロッパの交流促進に専念した。1993年から1999年まで在独イスラエル大使を務めた。彼自身は直接的なホロコーストの犠牲者ではないため、今回の演説要請を受けたときには戸惑ったという。

プリモール氏は演説の準備に当たって二つの問いを立てたという。第一の問いはドイツで国民哀悼の日について語ることはユダヤ人にとって何を意味するのか、第二の問いは、ドイツ生まれのユダヤ人ではなくイスラエル人にとって何を意味するのかというものであった。同氏は、「このような演説は可能だろうかという問いに答えを見出そうとした」とインタビューに答えている。

以下はプリモール氏の演説からの抜粋である。ドイツ語の原文を読むこともできる。

1950年代の初め、後に首相となるゴルダ・メイアがイスラエル労働党代表として社会主義インターナショナルに参加しました。ドイツ社会民主党を代表していたのが同党議長のクルト・シューマッハーでした。ドイツにおける真のナチス抵抗者といえばクルト・シューマッハーでしょう。彼はナチス政権時代の大半(9年9カ月9日)を強制収容所で過ごさなければならなかったのです。片腕しかないシューマッハーがゴルダ・メイアを見つけて、残された手を彼女に差し伸べました。ゴルダ・メイアはシューマッハーがいかなる人物かを知っていたはずなのに、彼に背を向けました。彼がどんな人物であるにせよ、彼はドイツ人であり、メイアは彼にもドイツ人として集団の罪があると断じたのです。私たちが集団の罪ということを考えるのは、ドイツ人たちがヒトラーを民主的に権力の座に就かせ、最後まで彼を熱狂的に支援したからだけではありません。ドイツ連邦共和国が成立し、ベン・グリオンが今までとは違うドイツについて語った時でさえ、私たちはドイツと関係を持とうとはしませんでした。ドイツ人が過去を覆い隠す、さらには否定さえしようとしていると言われたからです。多くのドイツ人が「ナチスの犯罪について、あのとき私は何も知らなかった。戦争が終わったときに初めて、そのことを知った」と言っていたのです。私たちはその時、自らのアイデンティティを覆い隠そうとする人たちとは率直な対話をすることはできないと思いました。

状況は変わってきました。アイヒマン裁判 (1961年) があり、この裁判がドイツで大きな関心を引き起こしていることに驚きました。ニュルンベルグ裁判 (1945年から1946年) はドイツ人には何の関心も寄せなかったのです。もちろん、それには理由がありましたが。フランクフルトでのアウシュヴィッツ裁判 (1963年から1965年) もセンセーションを巻き起こしました。それにもまして、68年世代が両親や教師たちに対して、ナチス時代の真実を語ることを求めました。このことは、私たちにとって衝撃でした。ドイツ人はもはや隠さないのだ、真実を知ろうとしている、真実を認めようとしているのだ、と。

哀悼とはいったい何なのでしょう。哀悼とは記憶と関係します。そして記憶とは何なのでしょう。「過去を思い出そうとしないなら、その過去を繰り返さなければならないことになる」と書いたスペインの詩人ホルヘ・サンタヤーナがいます。あるいは18世紀のユダヤ教思想家バアル・シェム・トーブは「記憶の中に救いがある」と確信しました。ここに国民哀悼の日の神髄があります。

今から3年前のこの日、この場でフランク=ヴァルター・シュタインマイヤー (注:現ドイツ連邦外務相) は言いました。歴史は過ぎ去らない、記憶は烙印のようなものだ、と。彼は、記憶の重要な意味は平和を保証するものであると述べ、「平和はすべてではない、しかし平和がなければすべては無だ」というヴィリー・ブラントの言葉を引用しました。そしてこれこそが国民哀悼の日の意義なのです。

実際、ドイツは年月とともに記憶と良心の問題について、世界中の模範となりました。世界中の国が相変わらず記念碑を作り、自国の勝利、国家の英雄、科学者、スポーツ選手、芸術家、宗教者などなど、自分たちの国に栄誉をもたらすものを記念しています。自国の哀悼についても記念します。しかし、自国の恥、犯罪を記憶し、自国の恥の記憶を永遠にとどめるための記念碑を建てる国を世界の中で見出しましたか。これを行なっているのは、ドイツ人だけです。このようなドイツとなら、私は喜んでともに哀悼の意を表します。このような人たちとは喜んで記憶を呼び起こし、分かち合いたいと思います。ここにお集まりの皆様とともに、将来への責任を担っていきたいと思います。

ドイツに住んでみると、ナチスの犯罪を記憶に留めようとする記念物が街角の至る所にあることを実感する。ドイツ連邦首相府直属の連邦文化・メディア庁の文化政策の重点の一つがナチス支配下の犠牲者への記憶となっていることからも、国のレベルで過去の過ちを忘れないように努力していることがわかる。ドイツは、プリモール氏が指摘しているとおり、自国の恥の歴史と向き合う“模範的な”国なのだ。

ここで少し想像力をたくましくしてみる。日本で全国戦没者追悼記念式を衆議院本会議場で行うとどうなるだろう。そして式典で演説を行うのは、日本軍の犠牲者の子どもあるいは孫だ。これは決して起こり得ないことだろうか。加害者と犠牲者が共に過去を見つめ、共に将来への責任を担う日が来ることを夢見る私の頭の中をよぎるのが、キング牧師の「私には夢がある」という演説だ。アメリカの公民権運動の指導者だったキング牧師は、1963年8月にワシントンD.C.で行われた演説で、「私には夢がある。それは、いつの日か、ジョージア州の赤土の丘で、かつての奴隷の息子たちとかつての奴隷所有者の息子たちが、兄弟として同じテーブルにつくという夢である」と語ったのだ。この演説の日本語訳は在日米国大使館のサイトで読める。

1963年と言えば、奇しくもプリモール氏が上記の演説で言及したアウシュヴィッツ裁判がフランクフルトで始まった年である。ドイツは戦後20年近くを経て、ようやくアウシュヴィッツを刑事事件として認めたことになる。戦後70年が迫っている今、「美しい国、日本」という標語に囚われて、日本は過去から目をそむけてしまうのだろうか。

 

 

 

 

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