「慰安婦」発言で浮かび上がる日独の次元の差 2)
6月10日、ドイツ連邦法務省のナチ時代からのつながりに関する研究調査の結果が、一冊の本として、ひときわ改まった雰囲気の連邦広報局で発表された。(詳しくは「『慰安婦』発言で浮かび上がる日独の次元の差」参照。)この調査に携わった、同省とは関係のない外部の歴史学者や法律学者からなる特別委員会のメンバー、調査の依頼主である連邦法務相に加えて、著名なホロコースト犠牲者である90歳のジャーナリスト、ラルフ・ジョルダーノ氏が出席し、長い、力強い講演をしたからだ。同氏は「現在連邦法務省が同省の過去の過ちを明らかにしようとしている努力は、自分が生涯テーマとして努めてきたこと、自分からのドイツ国民への政治的遺言に重なる」と述べた。こんなシーンが日本で考えられるだろうか。
ジョルダーノ氏は、祖父がシチリア島出身の音楽家でドイツに移り住んでおり、その息子とユダヤ人でピアノの先生だった母との間に、ハンブルグで生まれた。1933年4月、ジョルダーノ氏10歳の新学期のはじめから、ドイツの学校ではアーリア人と非アーリア人の区別が導入された。1935年の夏、それまで親友だったハイネマンから「お前とは、ユダヤ人だからもう遊ばない」と言い切られたのは12歳の時。1938年11月、ナチが行ったユダヤ人の商店や教会に対する大虐殺を15歳で経験した。16歳の時に“国家に危険な発言をした”ために秘密国家警察に連行され、21歳の時には“人種的不名誉”を理由に訴えられ拘禁されている。1945年5月の終戦は、母や兄弟と一緒に隠れ住んでいた地下室で迎えたという。22歳の時だ。
戦後長らく新聞・テレビジャーナリストとして活躍してきた同氏は、ドイツ人の多くが、過去の恥ずべき犯罪を反省せず、ドイツ社会が犠牲者に対し償いも行わず、そしてナチ政権の共犯者に再び要職に就くことを許してきた事実を、早くから「第二の罪」と呼んで厳しく批判していた。その事実を、この度発表された書籍『ローゼンブルグ城・連邦法務省とそのナチの過去 — 現況(Die Rosenburg Das Bundesministerium der Justiz und die NS-Vergangenheit – eine Bestandsaufname )』が370ページに渡り明るみに出している。
演説でジョルダーノ氏は、「連合国により戦争犯罪を裁いたニュールンベルグ裁判やそれに続いたいくつかの裁判で、有罪とされたのはごく一部の責任者で、その後に裁判にかけられた多くの人たちは、直接に殺害に手を貸した現場の下級役人などだった」と語る。「しかも、当時の法律で許されていたこと以上のこと、例えば、囚人を足で蹴って殺したり、母親から赤ん坊を奪い取って壁にぶつけて殺したりした人だけが罰せられた」と言う。
これに反し、スマートに背広をまとい卓上や会議で殺害を計画した人たちは、罰せられなかったばかりでなく、後に出世街道を歩くことが出来た。例えば、これは意図しなかったのかもしれないが、1960年に施行された法改正の結果 、ユダヤ人殲滅計画の中枢であった帝国安全本部の役人に対する1969年の裁判では、一人も有罪にすることが出来なかった。「また、ナチ政権下に、記録されているだけでも3万2000人の政治犯に対し死刑を言い渡した裁判官は、誰一人として戦後ドイツの連邦裁判で有罪の判決を受けていない。」とジョルダーノ氏は強く批判した。これを同氏は「完璧な殺人の歴史」と呼ぶ。数々の不正な判決を下してきたナチの「国民裁判所と称した組織は、ナチ政権の横暴を遂行するための暴力の道具であって、法治国家における裁判所ではなかった」という決議文をドイツ連邦議会が採択したのは、ドイツ連邦共和国の建国(1949年)から36年経った1985年のことだった。
ジョルダーノ氏は今回発表された本を読んで、何度も安堵の息をもらしたという。
同氏は、ドイツが血を流すこともなく東西に分かれていた国を統一し、国粋主義に陥ることもなかったことを奇跡と称し、まれに見る成功物語だとする。しかし、近年ドイツ社会に大きな衝撃を与えたネオナチによる連続殺人事件を、深く憂慮している。この事件は、ネオナチグループが約10年間にも渡り10人の殺人を働いてきたというもので、警察の怠慢により一昨年になりやっと発覚した。同氏は「過去の影はどこまで届くのだろう」と問う。
「そしてドイツには今なお過去の事実を忘れない、忘れられない人間のいることを知るべきだ」と語る。戦後ドイツの築き上げてきた「堅固な民主的共和国、民衆的な法治国家が傷つけられようとしている。それは私が生きるための糧、息する空気であり、私の人生を支える貴重なもの、私が安心して生きていける唯一の社会形態だ。だから民主主義を攻撃する者を私は許さない」と呼びかけ、「私は今また、戦線に立っている」と続けた。「そして法務省とこの委員会の存在に同志を見付けた」とも付け加えた。
同氏がよく訊かれることは、戦後なぜドイツに留まったかという質問だという。「ドイツは私に行きたいか、行きたくないかと訊かなかった。私はこの国に釘付けされている。この国が私を離さなかった」と同氏は答える。だからドイツに留まったという。「ユダヤ人の復讐の天使としてではなく、またドイツ人を裁く者としてでもなく、ドイツ人として、ドイツのユダヤ人あるいはユダヤのドイツ人として、ドイツ人であるという重荷を背負って、この重荷を捨てられない、捨てたくないドイツ人として格闘し、苦しみながら生きて来た。心から反省する者に対しては和解の準備をもって接する。他方、忠告を無視する行為は絶対に受け入れることが出来ない」。
講演が終わると、会場に居合わせた政治家、役人、学者そしてジャーナリストたちが一人、また一人と立ち上がって拍手をした。最後には出席していた100人ぐらいの人たち全員が立ち上がって拍手を送った。
「過去に眼を閉ざす者は、未来に対してもやはり盲目となる」。リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー第6代連邦大統領の言葉だ。日本も過去の歴史を究明し、そして過去の罪を認め、あのようなことが決して二度と起こらないようになると良いと思う。そうすれば近隣諸国との友情も築けるようになるだろう。日本では、近隣諸国との利害関係の面から、謝った方が得だという意見もあるようだが、短期的な損得の話ではない。