ドイツ全国乗り放題!9ユーロチケットの是非

池永 記代美 / 2022年8月27日

ドイツでは今年の6月1日から8月31日までの3ヶ月間、全国の地下鉄、バス、路面電車、近郊電車 (S-Bahn) 、中距離列車 (Regionalbahn) が1ヶ月間乗り放題でたった9ユーロ (約1230円) という、超格安チケットが 導入されている。「交通史上最大の実験」や「夏のメルヒェン」と呼ばれているこのチケットが、なぜ誕生し、どのように利用され、どんな問題を明らかにしたのかを紹介したい。

たった9ユーロと、安さを強くアピールするドイツ鉄道による9ユーロチケットの宣伝

まずこのチケットがいかに割安かを理解するために、ベルリンの 交通料金と比べてみたい。ベルリンの公共交通機関は全て、ベルリン州が経営するベルリン交通営団 (BVG) か、ベルリン州とブランデンブルク州が共同経営するベルリン•ブランデンブルク交通連合 (VBB) が運営している。そのため、どの交通手段でも同じチケットが利用でき、地下鉄からバスや路面電車に乗り換えても、その都度チケットを購入する必要はない。それは便利なのだが、チケットは決して安くはない。 ベルリン市内を移動するには3 ユーロ (約410円) 、ベルリンの隣にあるポツダム市などに行くには3.8ユーロ(約520円) のチケットが必要だ。これらのチケットは120分間有効なので、何度も乗り降りできるのだが、同じ方向にしか移動できないという厄介な規則があり、1枚のチケットで一つの区間を往復することはできない。観光客なども利用するベルリン市内24時間乗り放題のチケットは8.8 ユーロ (約1200円) 、ベルリン市内1ヶ月乗り放題の定期は86ユーロ (約1万1780円) だ。

「9ユーロ」、「ドイツ全国で有効」という文字以外は、普通のチケットと代わり映えしない9ユーロチケット。自動販売機でも窓口でも購入可能、電子版もある。名前の記入が必要で、他人には譲れない。

9ユーロチケットが誕生した背景には、ロシアのウクライナ侵攻がある。ロシアから多くのエネルギー源を輸入していたドイツでは、この戦争によりエネルギー価格が高騰した。例えば戦争が始まって2〜3週間後にはガソリンは25%、ディーゼルは40%ほど値上がりし、その結果、物流コストが上昇して物価全般を押し上げた。そこでドイツ政府は4月27日、ガソリンなどにかかる燃料税を6月1日から3ヶ月間引き下げることを閣議決定した。この閣議では国民支援策として、自動車通勤をする人のガソリン代の控除枠を広げ、再生可能エネルギーの賦課金を廃止して電気代を値下げすることなど諸策が決まったのだが、その一つが9ユーロチケットの導入だった。オーラフ•ショルツ連邦首相 (社会民主党/SPD) が率いる連立政権の中で、自由民主党 (FDP) は車利用者に有利な支援策を推奨し、SPDと緑の党は9ユーロチケット導入に向けて積極的に働きかけた 。このチケットは市民の経済的負担を軽減するだけでなく、自家用車から公共交通機関に移動手段を替えようという動機付けにもなると期待されたからだ。車の利用が減れば、温室効果ガスの排出量も減ることになる。

チケット導入の6月が近づくと、テレビや雑誌が9ユーロチケットを意識した様々な特集を組むようになった。海や渓谷など美しい景色の楽しめる路線はどこか、ドイツ南部のバイエルン州から北部のバルト海までどのように乗り継げば9ユーロチケットの使える中距離列車だけを利用して行くことができるか、といった旅心を誘う記事もあれば、日頃鉄道を利用しない人のために、中距離列車では座席の予約ができない上に食堂車もないことを警告する記事もあった。 6月2日にドイツ公共第一テレビ (ARD) が発表した世論調査機関infratest dimapの調査によると、「インフレ対策として9ユーロチケットは良いアイデアだ」と回答した人は64%、「チケットを必ず購入する」、もしくは「多分購入する」と答えた人は46%だった。9ユーロチケットは相当のヒット商品となることが予想された。

9ユーロチケットが導入された直後の6月上旬には三連休もあり、ドイツ鉄道 は北海やバルト海のリゾート地に向かう列車を増便 して対応したが、ドイツ各地で人が乗れないほど列車が混んだり、ホームが人で溢れて危険な状態になったりという現象が起きた。このような混雑は7月以降も週末にはよく見られた。ある友人はベルリンから隣のブランデンブルク州の都市に向かう中距離列車に乗ったが、混みすぎているからと途中の駅で列車が停まり、他の交通機関を利用できる人は列車から降りるよう促されたそうだ。自転車を持ち込もうとした人が乗車を拒否されたり、車椅子の利用者が人混みの中で動きが取れなくて困ったりするという事態も、あちらこちらで起きたそうだ。

地域によっては異なる色の列車もあるが、赤い色が特徴の中距離列車。9ユーロチケットでは、ドイツの新幹線ICEや特急IC、欧州の都市間を結ぶECには乗れない。©️Deutsche Bahn AG/Georg Wagner

 

私自身6月中旬、ドイツ西部を流れるモーゼル川沿いの町に行く用事があり、一部の路線で9ユーロチケットを利用した。乗り換え駅が大混雑していたため、もう少しで乗り継ぎの 列車に乗り遅れそうになり、通路や階段の幅が狭い駅は、大量の乗客に対応できないことを痛感した。幸い私が乗った列車自体はそれほど混んでおらず、窓際の席を確保でき、モーゼル川やブドウ畑の景色を楽しむことができた。途中で車掌が検札に来て、私のBVGの定期を機械で読み取ったところ、ベルリンから何百キロも離れた場所なのに有効なチケットとして認められて、安心かつ感心した。私は 9ユーロチケットが導入される前に定期代を1年分まとめて払いこんでいたが、6月から8月の3ヶ月間はその定期が9ユーロチケットとして扱われ、 払いすぎたお金は戻ってくることになっているのだ。

ショルツ首相は最近行われた市民との対話で、9ユーロチケットは「自分たちのアイデアの中で最高のもの」と称賛した。全国で60以上ある地域公共交通機関が形成するドイツ交通連合 (VDV) によると、8月8日の時点で合計3800万枚の9ユーロチケットが売れたという。それ以外にも私のように地元の交通機関の定期を持っている人がドイツ全国で1000万人いるというから、9ユーロチケットの恩恵に預かった人はもっと多いことになり、数字の上では成功したと言えるだろう。しかし、エネルギー高騰対策としての市民への経済的支援、また、公共交通機関への交通手段の移行など温暖化対策の側面で、本来の目的は達成したのだろうか?

ドイツ連邦統計局の調査から、今年の6月に鉄道を使った移動は、コロナ前の2019年6月より42%多かったことがわかっている。このことから9ユーロチケットを利用して中距離列車で移動した人が増えたと言えそうだ。しかし、その多くは通勤客ではなく、週末の余暇のための利用者だったのではないだろうか。というのも、VDVがミュンヘンで行なった調査では、自家用車から公共交通機関に移動手段を変更した人は2%から3%に過ぎなかったことが判明したからだ。ベルリン工科経済単科大学で交通学を教えるクリスチァン•ベットガー教授も、9ユーロチケットには交通手段を替える効果はほとんどなく、もともと公共交通機関を利用していた人の利用頻度が高まっただけだと指摘している。

6月のある土曜日の混み合う駅。乗り降りする乗客が多いため、駅では通常より長い停車時間が必要になり、ほとんどの列車が予定より遅れていた。

導入が決まった時点で、9ユーロチケットにはすでに様々な批判が寄せられていたが、このチケットは公共交通機関が抱えていた問題をさらに浮き彫りにしたと言える。それは例えば、交通網が整っていない地域では、駅が遠かったり運行するバスや列車の本数が少なかったりして、公共交通機関での移動は不便すぎるという問題だ。テレビのニュースで、車なら職場まで1時間弱で行けるが、公共交通機関を使うと2時間以上かかるという男性が紹介されていた。9ユーロチケットは彼の日常生活に何のメリットももたらさないので、買うつもりはないとのことだった。ある村の村長は、「9ユーロチケットは都市に住む人のためだけの政策だ」と批判していた。しかしドイツ最大の都市ベルリンでも、中心部から離れると、電車やバスが20分に一度しか来ない所が結構ある。電車が遅れたり、故障などで運休になることも多いし、乗ろうと思った車両の扉が壊れていて開かなかったり、車内にゴミが散らかっていて、不快な思いをすることもある。こんな状況を鑑みると、公共交通機関を魅力的にするにはチケットの値段を下げるより、そのお金を路線やダイヤを充実したり、線路や駅を整備したりするために使うべきだという意見は説得力がある。また、お金の使い方に関しては、裕福な人も社会的弱者も同じように支援するのではなく、必要とする人だけに9ユーロチケットを提供すれば、もっと長い期間提供できるのでは、という指摘もあった。

環境面での効果に関しては、VDVとドイツ鉄道が委託した調査では、9ユーロチケットは二酸化炭素の排出量を180万トン削減すると予測しているそうだ。 導入前には、2130万トン削減できるという予想もあったので、これは自慢できる数字ではない。しかし、交通システムの転換について研究するシンクタンク「アゴラ•交通転換」のフィリップ•コーゾク氏は、まだ評価を下すほどデータが十分揃っていないと、慎重な態度を示している。

このように9ユーロチケットの是非について様々な意見があるように、その今後についても意見は分かれている。8月8日に報道週刊誌「デア•シュピーゲル」が発表した世論調査機関Civeyの調査では、「9ユーロチケットの継続に賛成」とした人が55%で、「反対」の34% 、「わからない」の11%を大きく上回った。しかしドイツの金庫番であるクリスチァン•リントナー連邦財務相 (FDP) は、この3ヶ月の9ユーロチケットのために25億ユーロ(約3425億円)かかり、「これを続ける予算はない。続けるとすれば、他の予算を削らなければならない」と、継続に反対している。同じ政権与党のSPDや緑の党、それに野党でも左翼党は継続に賛成だ。ただし、9ユーロという値段が相応しいかどうか、意見は分かれている。例えば 緑の党は、地域ごとに有効な月29ユーロのチケットと全国共通の月49ユーロチケットを提案している。

「期待された効果はもたらさなかったが、多くの人が公共交通機関の利用を日常生活に取り入れたのは良いことだった」と語るのは、上述のVDVの調査を行ったミュンヘン工科大学のクラウス•ボーゲンベルガー教授だ。公共交通機関の料金は、もちろん公共交通機関のあり方を左右するのだが、それは交通政策だけでなく、社会政策、経済政策、環境政策でもある。「交通史上最大の実験」から、ドイツはどんな結論を導き出すのだろうか。

「9ユーロチケットを救え!」と、チケットの継続を求める署名運動が始まっており、現在約35万筆の署名が集まっている。

 

 

 

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