原爆忌の日に映画「わたしの終わらない旅」を見る

じゅん / 2017年8月20日

8月6日の広島への原爆投下の日にはベルリンでも、平和の鐘をつく記念行事や平和コンサートが行われたが、私は一人家で坂田雅子監督の映画「わたしの終わらない旅」を見て過ごした。坂田監督のこの映画は、母親の残した1冊の本をきっかけに、監督が原爆と原発について考える旅に出、その記録をまとめたものである。

私が最初にこの映画に出会ったのは、2014年、ベルリン在住日本人の反原発団体、Sayonara Nukes Berlin 主催の上映会で、この時は坂田監督自身が出席されて、制作に関わるお話をいろいろうかがうことができた。ただこの時上映されたのは英語版で、私にはよくわからなかったところがあったため、主催者にお願いして日本語版を貸していただいた。この日本語版を仲間内の集まりで上映したこともあったが、72年目の原爆忌にもう一度見たいと思ったのだった。

1948年生まれの坂田雅子監督は、ベトナム戦争に参加したフォトジャーナリストだったアメリカ人の夫、グレッグ・デイビスの急死をきっかけに、2007年、ベトナム戦争と枯葉剤をテーマに処女作「花はどこへいった」を完成させた。この映画は毎日ドキュメンタリー賞やパリ国際環境映画祭特別賞などを受賞した。2011年に制作された2作目の「沈黙の春を生きて」も、フランス・ヴァレンシエンヌ映画祭で批評家賞、観客賞をダブル受賞するなどしている。

1作目が夫の急死という個人的なきっかけから生み出されたように、3作目に当たるこの「わたしの終わらない旅」も、イギリス人と結婚して英仏海峡に浮かぶガーンジー島に40年以上暮らす姉の手紙、早くから反原発運動に関わった母親の残した本などが制作の動機となっている。また亡くなった写真家の夫が撮影した原爆実験の被害にあったビキニ諸島の住民の写真が紹介されるなど、いわば家族ぐるみで作られた映画なのである。

2011年3月、福島第一原発の事故が起こってしまった後、無力感に襲われた坂田監督は、1977年から反原発運動に熱心に関わるようになった亡き母親、坂田静子さんが書いた本『聞いてください』を読み直した。長野県須坂市で夫とともに薬局を営んでいた母親の生活を一変させたのは、1970年代はじめ、ガーンジー島に住む長女で監督の姉、坂田=ガーネット悠子さんからの一通の手紙だった。映画はその手紙から始まる。イギリスとフランスに挟まれたガーンジー島からは、核廃棄物再処理場があるフランスのラアーグやフラマンビルの原発がよく見える。「付近の海水は、そうした原子力施設からの廃液で汚染されている。ラアーグの核廃棄物再処理場が拡大されることになったが、将来は日本の原発からの核廃棄物もここに運ばれて来ることになった。現地では反対運動も起こっているが、それについて日本の動きを何か知らないか」というのが、手紙の内容だった。この手紙が母親を反原発へと向かわせるきっかけとなった。

坂田雅子監督は、まずガーンジー島の姉を訪ね、地元の図書館に行き、当時の状況を調べた。1976年以降2011年までの間にラアーグの核廃棄物再処理場では日本の原発からの放射性廃棄物2950トンが再処理されたという。つまり、混合酸化物燃料であるモックス燃料を作るために日本の核廃棄物からここで大量のプルトニウムが取り出されたことになる。

映画では地元の反原発運動家が「フランスの原子力施設から放射性物質や化学物質を含む廃液が海に流され英仏海峡の島々をめぐって、遠くはデンマークやノルウェーまで達している。特にラアーグの再処理工場からの排水が危険だ」と説明している。また、ラアーグの再処理場付近の川の水の放射性濃度を測り続けるA.C.R.O.(西部放射能監視協会。フランス西部、カーン大学の教授たちを中心に1990年代に、特にラアーグの再処理工場を監視する目的で創設された)のボランティアたちの姿も紹介される。ボランティアたちは「自分たちは採取した川の水をカーンのラボに送る。核廃棄物が保管されているドラム缶には防水性がなく、放射性物質が漏れるため、今でもセシウムやトリチウムが検出される」などと語っている。

監督の母親が集めた資料の中には、地元の反対運動を取り上げた1976年制作のフランスの映画「ラアーグ再処理工場」も含まれていた。その映画では、地元の人たちの次のような言葉も聞かれた。「ある日、一人の男がやって来て、ここに工場を建てるという。何の工場だと聞くと家電の工場だと答えたので、それはいい話だと思った。だけど、それは嘘だった。工場が来るのはいいけれど、原子力工場はごめんだね」。この映画の監督フランソワ・ジャックマンは、「原子物理学者、ラポンシュ氏の依頼を受けてラアーグの核廃棄物再処理工場で劣悪な条件で働く労働者たちと一緒に映画を撮り始めた。この映画の制作を通じて、原子力は未来永劫にわたって人類を脅かす危険なものであることがよくわかった。こうした現実は到底正当化できるものではない。人類には他のエネルギーが必要である」と語る。

フランスの著名な原子物理学者、ベルナール・ラポンシュ氏は自らこの映画のプロデューサーを務めたが、彼の言葉も強く印象に残った。「原子力は最初軍事目的で始まった。アメリカについでロシアが核兵器を持つようになり、核兵器を持たなければ大国とは言えない状況が生まれた。ドゴール大統領は第二次世界大戦後惨めな出発をしたフランスを強い国、大国にしたかった。そのためには核兵器が必要だと考えた。科学者の中には原子力の軍事利用に反対する人は大勢いたが、原子力の平和利用に反対する人は少なかった。以前は原子力というものがどういうものか、放射性廃棄物がどういうものか、皆よくわかっていなかった。再処理工場で働く労働者は、再処理のことは知っていても原子炉のことは知らず、私は原子炉のことは知っていたが、核廃棄物の再処理やその危険性については知らなかった」などと語っている。

フランスでは1967年に国は放射性廃棄物の管理責任を放棄し、ラアーグの民間企業インフラトン社に任せた。当時労働組合の代表がインフラトン社の社長に「廃棄物の保管場所がいっぱいになったらどうするつもりか」と聞いたところ社長は「それは私の責任ではない」と堂々と答えた。その結果廃棄物は地元と労働者が“相続する“ことになってしまったという。アクティビストの一人は、ラアーグで「あちらはANDRA(放射性廃棄物管理機関)の敷地、こちらはアレヴァ社の敷地です。美しい芝生の丘と見えるかもしれないが、この下には、約100キロのプルトニウムが埋まっています。5〜6キロのプルトニウムがあれば長崎に落とされた原爆ができます。200トンのウランも埋まっています。これらの危険性は300年、500年、800年、1000年、いやもっと経っても消えません」と話していた。プルトニウムの半減期は2万4000年で、再処理工場で出る高レベル放射性廃棄物はガラスとともに融解してステンレス製のキャニスターに注入、固化させて地層に保存するが、ガラス固化体が崩壊しないという保証はないし、地層が動かないという保証もない。

フランス西部の町カーンに本部を置くA.C.R.O.のホームページは「フランスの原発周辺では白血病が増えており、特に15歳以下の子供たちの白血病は倍増している」と警告している。それなのになぜフランスでは反原発運動がドイツほど高まらないのだろうか?A.C.R.O. の会長、ダヴィッド・ボウレさんは、「ラアーグでの最悪の汚染源はお金です。お金が人々の心を汚染しています。小さな村、ラアーグにはなんでもあって、大都市カーンの町にはないプラネタリウムまであります。村はお金持ちで雇用の場もあります。再処理工場からの収入がいいので、人々は放射能の危険性に目をつぶっているのです」と話している。

こういう調子でこの映画を紹介すると、この原稿はいつまでも終わらないことになる。坂田監督はこの後、1946年に始まったアメリカの原爆実験のため故郷を追われたマーシャル諸島ビキニ環礁の島の人たちを訪ね、その苦しみと悲しみを取材、アメリカの人権無視の実情を追求する。故郷の島を追われた住民は、故郷の島が未だに高度の放射能に汚染されているため故郷に帰れず、伝統的な生活も守れずに不自由な生活を強いられている。彼らはアメリカ政府に対して島の除染を要求したり、十分な補償を求めて訴訟を起こしたりして闘っているが、その訴えは未だに聞き入れられていない。

坂田監督はまた、ソ連が1945年から1989年までの間に470回も核実験を繰り返したカザフスタンの実験場を訪れ、被害の実情を取材する。日本の四国の広さに相当するこの地域では150万人の人に影響が出、多数が死亡し、現在でも多くの人がガンその他の病気に苦しみ、先天性異常が続発しているという。しかし、被害の全貌は明らかにされていないのが現実である。

アメリカは1946年から1958年までの間にビキニ環礁で23回の核実験を行ったが、最も規模が大きかったのは1954年3月1日に行われた水爆実験「ブラボー」で、日本の漁船も被害にあい、マグロ漁船第五福竜丸の乗組員23人が被爆し、久保山愛吉さんが亡くなった。同じく第五福竜丸の乗組員だった大石又七さんの政府批判の言葉は痛切に響く。大石さんは事故を巡る日本政府のアメリカとの裏取引を弾劾する。のちに日本の外交文書で明らかになったことだが、日本政府はアメリカ政府に被害の正当な要求をせず、200万ドルの見舞金だけで了承し、その代わりに日本への原発の早期導入を要求したという。市民の間に起こった原爆反対の動きも「原子力の平和利用」という声にかき消されてしまったという。大石さんは「あの当時みんなが原子力の危険について本当に勉強していたら災害の多い日本に54基もの原発を作ることはなかったのではないか、そのことが本当に悔やまれます」と語っている。

坂田監督は重いテーマを巡る番組の終わりに、高速増殖炉「もんじゅ」のナトリウム事故の後、1995年5月に日本で開かれた第2回原子力政策委員会の円卓会議の様子を伝えている。そこに市民代表として出席した母親の坂田静子さんは「原子力のマイナス面がこれだけ明らかになった以上、原子力基本法、つまり国策を変えるべきだと思います。国策もあやまることがあることは、私たちの世代が身を以て体験しました」と訴えた。その2年後に静子さんは亡くなられたが、最後まで原発のことを気にかけていたという。2011年3月には福島原発で過酷事故が起こったが、今もって「国策の誤り」は訂正されていない。

この1995年の原子力政策委員会の会議に出席した国際政治学者、舛添要一氏(2014年2月から2016年6月まで東京都知事)が「チェルノブイリは遠いウクライナ、ヨーロッパの事故だが、今原発建設ラッシュに沸くアジアでこうした事故が起こったら日本は54基の原発を全て止めざるを得ないだろう。国民感情が到底許さない」と発言していたのに大いに関心をそそられた。私は彼に向かって「今はどうお考えですか?」と質問したい気持ちにかられる。

坂田監督の耳には、この映画を撮り終わった後も母親の警告が響く。「原子力の危険について訴え続けた母の遺志をつぐ旅は終わらない」という言葉で映画は終わる。できるだけ多くの人がこの映画を見て、原子力の危険性について真剣に考えてほしいと私は思った。

なお、映画「わたしの終わらない旅」についてのお問い合わせは、〒164−0001東京都中野区中野5−24- 16 中野第2コーポ210株式会社シグロまで。Tel.03-5343-3101, E-Mail: siglo@cine.cop.jp

 

 

 

 

 

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