『チェルノブイリの祈り、未来の物語』を読んで

じゅん / 2015年12月6日

今年のノーベル文学賞はベラルーシの女性作家でジャーナリスト、ノンフィクション作家のスベトラーナ・アレクシェービッチに授与される。彼女の作品で、目下手に入れることのできる唯一の日本語訳が『チェルノブイリの祈り、未来の物語』だと知り、早速購入して読んだ。彼女が日本ともドイツとも関わりのある作家であることを私は今回はじめて知った。

スェーデン・アカデミーは10月8日の発表に際し、アレクシェービッチ氏に対する文学賞授与の理由として「多様な声を集めた彼女の著作は、我々の時代における苦悩と勇気の記念碑である」と述べた。彼女の作品のほとんどすべては、革命や戦争など世紀の大事件を体験した多くの無名の忘れられた人たちとのインタビューからなっており、そういう人たち一人一人が実際に体験したこと、彼らの苦悩や悲しみなどをじっくり聞き取り、書き取ることによって、全体としてはその時代と社会、特に旧ソ連時代の社会とポストコミュニズムの東ヨーロッパの社会の本質を浮き彫りにする歴史的な著作となっているという。現在67歳の彼女の本来の職業はジャーナリストで、公式の発表の陰に隠れた真実を執拗なまでに追求する彼女の姿勢は、体制側にとっては目障りなため、ソ連時代からさまざまな迫害を受け、現在のベラルーシの独裁的なルカシェンコ政権の下でも、彼女の作品の刊行は今なお禁止されている。

アレクシェービッチ氏は、1948年、ベラルーシ人の父とウクライナ人の母との間にウクライナ・ソビエト社会主義連邦共和国で生まれた。父親が第二次世界大戦後に軍隊を除隊すると、白ロシア(ベラルーシ)・ソビエト社会主義連邦共和国に移住する。ミンスクのベラルーシ大学でジャーナリズムを専攻し、最初はジャーナリストや教師として働いた。彼女の名前が一躍有名になったのは、第一作『戦争は女の顔をしていない』によってだった。第二次世界大戦で従軍し、男たちと同じように戦った元ソ連軍女性兵士数百人にインタビューし、初めて「女たちの戦争」の真実を明らかにしたのだった。1983年に完成していたが、「反ソ的」と批判されて2年間出版されず、ゴルバチョフのペレストロイカによって1985年に刊行された。出版後たちまちベストセラーとなり、各地で舞台化、映画化された。そのほか、大戦中に子供だった人たちに取材した『ボタン穴から見た戦争』、アフガニスタン戦争の凄惨な実態を明らかにした『アフガン帰還兵の証言』、ソ連崩壊で自殺を試みた人たちの証言集『死に魅入られた人々』などがある。

『チェルノブイリの祈り、未来の物語』は、1986年4月26日に起こったウクライナのチェルノブイリ原発事故から10年近く経ってから、事故で被爆した人たち数百人に3年がかりでインタビューし、彼ら、彼女たちの声をまとめたもので、1997年に発表された。チェルノブイリ原発はウクライナ領内にあるが、放射能の被害は隣接したベラルーシの方がはるかに大きかった。しかし、ベラルーシの住民には事故の危険は知らされず、「チェルノブイリ原発での火事は、すぐおさまった」という当局の発表を信じた人たちは、事故の後も家庭菜園で収穫したものを食べ、子どもたちは砂場で遊ぶといった普段どおりの生活を続けた。大勢の男性たちが事故収拾の作業のためチェルノブイリに召集されたが、彼らにも本当の危険は知らされず、危険な放射能に対する知識も体を守る十分な装備もないまま、事故処理作業に従事させられた。そうした事実が、一人一人の体験を通じて明らかになる衝撃的な作品である。『チェルノブイリの祈り』は30ヶ国語以上に翻訳され、各地で舞台化されているが、日本では女性講談師の神田香織さんによって講談として語られている。アレクシェービッチ氏は、2003年に日本の市民運動の招きで来日し、チェルノブイリをテーマに各地で講演した。

最初の章のタイトルは「孤独な人間の声」。「私たちは結婚したばかりでした。買い物に行く時も手をつないで歩きました。『愛しているわ』って私は彼に言う。でもどんなに愛しているかまだわかっていませんでした」。事故の消火活動で多量の放射能を浴びて亡くなった消防士の若き妻の話は、こんな風に始まる。夜中に発電所が火事だと呼び出された夫は、シャツ一枚で出動した。普通の火事だと呼び出され、警告はなかったという。翌朝7時に病院にいる夫にあったが、全身がむくみ腫れ上がっていて、目はほとんどなかったという。その日の10時に最初の死者が出、二人目は瓦礫の下に取り残されたまま、コンクリートで固められてしまった。「忘れないでください。あなたの前にいるのはご主人でも愛する人でもありません。高濃度に汚染された放射性物体なんですよ」と忠告してくれる人がいたが、彼女は気が触れたように「彼を愛しているの。愛しているの」と繰り返すばかり。そして消防署の寮に住んでいた7人の消防夫全員が事故後14日で亡くなった。遺体安置所での彼は「礼装用制服を着せられ、胸の上に制帽が置かれていた。靴は履いていなかった。足が腫れすぎて合う靴がなかったのです。制服も切られていた。完全なからだはもうありませんでしたから、普通に着せることはできなかったのです。からだじゅう傷だらけ。病院での最後の二日間は、私が彼の手を持ち上げると骨がグラグラ、ぶらぶらと揺れていた。骨とからだが離れたのです。肺や肝臓のかけらが口からでてきた。夫は自分の内臓で窒息しそうになっていた。私は手に包帯をグルグル巻きつけ、彼の口につっこんでぜんぶかきだす。ああ、とてもことばではいえません。ぜんぶ私の愛した人、私の大好きな人。大きなサイズの靴がなかった。素足のまま棺に納められたんです」。「遺体はおわたしできない。遺体は放射能が強いので特殊な方法でモスクワの墓地に埋葬されます。亜鉛の棺におさめ、ハンダ付けをし、上にコンクリートいたが乗せられます。ついてはこの書類にご署名願いたい」と非常事態委員会の人。

本来は時代の先端を行く、宇宙技術に夢をかけてきたロケット技師だが、今ではベラルーシにチェルノブイリ博物館を立て、被災者の救済などチェルノブイリに関するありとあらゆることをしているという男性のイギリス人ジャーナリストとの体験も別の意味で衝撃的だった。

私と彼は汚染地に出かけました。統計では、チェルノブイリの近くには800の放射性廃棄物埋設地があることが知られています。彼はファンタスティックな工学的構築物を期待していたようだが、ただの穴なんです。そこには原発の周囲150ヘクタールにわたって切り倒された〈赤茶けた森〉(事故後最初の2日間でマツやエゾマツは赤くなり、それから赤茶けた色になった)、何千トンもの金属や鉄類、小さなパイプ、作業服、コンクリート建造物が捨てられている。彼はイギリスの雑誌に載った写真を見せてくれました。空からのパノラマ写真。何千台ものトラクター、ヘリコプター、消防車、救急車。原子炉の近くで最大の放射性廃棄物埋葬地です。彼はその10年後の姿を写真に撮りたがっていた。写真にはかなりの金額を約束されていた。私たちはあちこち迷いに迷いながら歩き回ったのです。一人の責任者が私たちをほかにまわす、地図がないだの、許可がないだの。私たちはかけずりまわりました。この放射性廃棄物埋葬地が存在しないことがわかるまで。これは書類上あるだけで、実際にはもうなかったのです。ずいぶん前から市場やコルホーズ、個人の部品用に持ち出されていたんです。ぜんぶ盗まれ、持ち去られていました。イギリス人には理解できないことでした。信じられなかったのです。私が事実をすっかり話しても、彼は信じませんでした。

こういう箇所を読む限り「チェルノブイリと福島原発の事故をめぐる状況はまったく違う」という気がするが、女性環境保護監督官の「恐ろしいことは静かにさりげなく」を読むと、共通点、類似点があることに気づかされる。

学校でも大学でも教わったんです。原発は〈ゼロからエネルギーを生み出す夢のような工場〉で、白衣を着た人たちがすわり、ボタンをおしているんだと。チェルノブイリが爆発した背景には、こうした認識のあまさがあったのです。そのうえ情報はいっさいなし。(極秘)のスタンプが押された書類の山。(事故に関する情報を極秘にすること)、(治療結果に関する情報を極秘にすること)、(事故処理に参加した個人の放射線障害の程度を極秘にすること)などなど。うわさが広まっていました。だれかがが新聞で読んだだの、だれかが耳にしただの、西側の放送を聞いていた人もいます。当時、必要な錠剤とその飲み方を伝えていたのは西側の放送だけでした。しかし、人々の反応はもっぱらこうでした。敵は人の不幸を喜んでいる。ここじゃすべて順調だよ。

 農村の人たちがいちばんきのどくです。なんの罪もないのに苦しんでいる。子どものように。チェルノブイリを考え出したのはお百姓じゃない。彼らは自分たちなりに自然と関わってきたんですから。 それは100年も1000年も昔そのままの信頼に満ちたもちつもたれつの関係なんです。(中略)私はすぐにはわからなかった、何年かたってわかったんです。犯罪や、陰謀に手をかしていたのは私たち全員なのだということが。(沈黙)。

現在、モギリョフ女性委員会「チェルノブイリの子どもたち」代表を務める女性の話の中には次のようなくだりがあった。

 私は化学繊維工場の技師でした。うちの工場にドイツの専門家グループがいました。新しい設備の調整をしていたのです。私はよその国の人、ほかの民族がいかにふるまうかを知ったのです。事故を知ると、彼らはすぐに医者と線量計と食べ物の検査を要求した。彼らはドイツのラジオ放送を聞き、何をすべきかを知っていたのです。もちろん彼らはなにももらえなかった。すると、荷造りをはじめ、帰国の準備に取り掛かったのです。航空券を買ってくれ、帰国させてくれ。あんたがたがぼくらの安全を保証できないんだったら、ぼくらは帰る。彼らはストライキをし、ドイツ政府に電報を打った。妻や子ども(家族できていました)そして自分の命を守るために闘っていた。で、私たちは?私たちはどうふるまったか? まあドイツ人っていうのはこんな人間なのね。いつもアイロンがかかって糊がきいた服をきているけれど、ヒステリーなんだわ。臆病者よ。ボルシチやメンチカツの放射線を測っている。まあ、こっけいだこと、そこへ行くと我が国の男たちは本物の男たちよ。さすがロシア男児だわ。死に物狂いで原子炉と闘っている。自分の命が惜しくてぶるぶる震えるもんですか!素手や防水布のミトンをはめて、溶けた屋根にのぼっているんだわ。(テレビで見ました)。私たちの子どもたちは旗を持ってデモ行進に行くのよ。退役軍人、年老いたツワモノたちも。(考える)でも、これもやはり一種の無知なんです、自分の身に危険を感じないということは。

 同じようなケースは、福島でも見られた。福島原発事故が起こった時、たまたま原子炉の技術的チェックのため、ドイツ人技師たちが福島に来ていた。彼らの情報などを通じてドイツ政府は何が起こったか、つまりメルトダウンが起こったことを直ちに把握し、ドイツ大使館を関西に移転させたり、在日ドイツ人に帰国を勧めたりした。日本政府がメルトダウンを認めたのは5月になってからで、2ヶ月近くも福島の人たちは事実を知らされず、「直ちに体に影響はありません」という政治家の言葉を信じてきたのだ。ドイツの公共テレビが毎日の天気予報で、福島周辺の風向きまで伝え、放射線の動向に警告していた時に、福島で若い女性を含む市民たちがなんの防御体制もなしに家の除染活動をしている映像を見てショックを受けたことがあった。ともかく福島原発事故が起こった時のドイツ人のこうした対応を当時の日本人は「反日的」と受け止め、不快感を持った人が少なくなかった。ドイツ政府のメルトダウン情報を基にしたドイツメデイアの福島事故に関する報道を、「過剰報道だ」と非難する傾向は、今なお続いている。

『チェルノブイリの祈り』にはまだまだ引用したい重要な事実、あるいは心にしみる証言がたくさんある。311ページあるこの本の中で、アレクシェービッチ氏が書いたのは、「見落とされた歴史について、自分自身へのインタビュー」というわずか5ページの文章と終わりの方の「事故に関する歴史的情報」という、これも5ページほどの記述しかない。あとは全部人々とのインタビュー記事である。最初この本を手にした時、私は「これが文学作品?」と思わざるを得なかったが、読み終わった後は「作家の頭の中で構築されるフィクションだけが文学ではない」という気持ちになった。この衝撃的な膨大な記録を読んで、偉大なノンフィクション作家に今年の文学賞が与えられたことに納得がいったのだ。一人一人の人間の声が集まって合唱になり、ポリフォニー的な音楽を構成しているとでも言ったらいいのだろうか。ジャーナリストでノーベル文学賞を授与されるのは、彼女が初めてである。『チェルノブイリの祈り』はロシアの大勝利賞、ドイツ・ライプチヒのヨーロッパ相互理解賞、ドイツ・最優秀政治書籍賞のほか、2013年のドイツ書籍商組合平和賞を受賞している。

アレクシェービッチ氏は、現ルカシェンコ独裁政権の圧力や言論統制を避けるため2000年にベラルーシを脱出し、パリ、ストックホルム、ベルリンなどで暮らしたが、長期間ドイツに来たのはドイツペンクラブの招きによるものだった。2011年にベラルーシに戻ったが、ノーベル文学賞受賞が発表された2日後の10月10日には、ベルリンで、ドイツ記者会、在独外国記者会のメンバーとの記者会見を行った。

関連リンク:
チェルノブイリを語り継ぐベルリンの劇団
“放射能の餌食”

 

2 Responses to 『チェルノブイリの祈り、未来の物語』を読んで

  1. ヘルブラウ says:

    長年ハンブルクよりブログ「グレーは淡青」を書き、こちらのブログは当初から読ませていただています。

    この本を読まなくてはと思いながら、読書から遠ざかっていたこともあり無精していて、ここでダイジェスト版を読むことができ感謝しています。

    前にこちらのブログの紹介をし、リンク欄にも載せているのですが、これから関連したこちらの記事を転載(もちろん発信元を明記します)してもよろしいでしょうか

    文末になりましたが、
    新年の皆様の益々のご活躍を願っています!

    • じゅん says:

      コメントをありがとうございました。この記事を転載してくださって構いません。『チェルノブイリの祈り、未来の物語』を全部読むのは正直言って辛いですが、やはり読み終わると「いかに大変なことが起こったか」が実感としてわかります。

      今年もどうぞ宜しくお願い致します。