孤独な警告者:詩人 若松丈太郎

あきこ / 2015年4月19日

3月の初めウィーンを訪れ、ラジオ・ジャーナリストのユーディット・ブランドナーさんに会った。ほぼ10年ぶりの再会である。この間、彼女は福島原発事故後の日本で取材を重ね、「Japanレポート3.11」とその続編「フクシマ2013 - Japanレポート3.11」を出版している。また、オーストリア・ラジオを通じて、3.11後の日本についての興味深い番組を放送している。今回の再会の直前にも、彼女が取材した南相馬在住の詩人若松丈太郎氏についての番組が、オーストリア・ラジオで放送されることを知った。

3月2日に放送されたブランドナーさんの番組は、「私は予言者ではない。ただ注意深かっただけだ - 詩人若松丈太郎と福島の原発大惨事」というタイトルだ。彼女から手渡された番組のCDを聞いた。まず2011年5月、福島原発事故後に書かれた若松さんの詩「ひとのあかし」の前半部の朗読、番組タイトルに続けて、詩の後半が朗読される。さらに、「私は言葉で闘うしかない。詩や文章を書くことしかできない」という若松さんの言葉が続く。最初の数分を聞いただけで、若松丈太郎という人物に引き込まれていく。

福島からバスで約2時間、ブランドナーさんが南相馬までのバスの中から見た風景、ブランドナーさんを迎える若松さんの様子など、音声だけなのに情景が目に見えるようだ。福島原子力発電所から25キロメートル離れたところに、若松さんの自宅はある。1994年8月に書かれ、1996年に出版された作品「神隠しされた街」は、チェルノブイリ原発の事故を福島と関連付けた連詩である。若松さんの詩を英語に訳したアーサー・ビナード氏が、若松さんにこの詩は予言だと言うのに対して、「わたしは予言者ではまったくない。ただただ観察して、現実を読み解こうとしただけのこと」というビナード氏との対話が引用される。

若松さんはチェルノブイリを訪問し、無人となったプリピャチ市を見て、「もし福島原発に事故が起きれば自分たちにも同じことが起きるであろうと考えた」という。「神隠しされた街」の以下の部分が朗読される。

ラジオで避難警報があって
「三日分の食料を準備してください」
多くの人は三日たてば帰れると思って
ちいさな手提げ袋をもって
なかには仔猫だけをだいた老婆も
入院加療中の病人も
千百台のバスに乗って
四万五千の人びとが二時間のあいだに消えた

原発事故直後の気持ちを尋ねられた若松さんは、「自分が書いたことが当たったなんて喜ぶべきでことではない。やっぱりそうなったという気持ちもあったが、とても複雑な気持ちで、一言では言い表せない」と語る。詩人の自宅がある南相馬市の原町区は、原発から25から30キロメートル離れたところにあり、特定避難勧奨地点に指定された。プリピャチとその近辺3村から合計4万9千人が避難したが、この人数は原町の人口と同じだと「神隠しされた街」に書かれている。

若松さんは1935年生れ、広島と長崎に原爆が投下され、日本が戦争に敗れたとき、10歳だった。そして、同年秋、学校が始まったとき、「まず、それまで使っていた教科書に墨塗りをさせられた。長い箇所は、そのページを切り取るように言われた。今までこれこそが正しいと言ってきた同じ先生が、墨を塗れと言う。ころりと言うことを変える。それはとても大きなショックだった。これからどうして生きていけばいいのか」と悩んだ若松少年は、中学に入ったときから詩作を始める。福島大学で日本文学を学び、高校の教師をしながら詩を書き続けた。最初の詩集「夜の森」が1961年の福島県文学賞を受賞し、その後も受賞を重ねた。若松さんは、「この生き方でいいのだ。みなと一斉に同じ方向を向かなくてもいいのだ。自分は自分の考え方をもって生きていいのだ」という確信を得た。原点には教科書の墨塗りがあるという。

やがて、彼は原発反対に積極的に関わるようになる。電力会社の宣伝によって、住民は原子力エネルギーに賛成を高める中、若松さんは孤独な警告者として「みなみ風の吹く日(1992年11月)」を書く。

たとえば
一九七八年六月
福島第一原子力発電所から北へ八キロ
福島県双葉郡浪江町南棚塩
舛倉隆さん宅の庭に咲くムラサキツユクサの花びらにピンク色の斑
点があらわれた
けれど
原発操業との有意性は認められないとされた

たとえば
一九八〇年一月報告
福島第一原子力発電所一号炉南放水口から八百メートル
海岸土砂 ホッキ貝 オカメブンブクからコバルト六〇を検出

たとえば
一九八〇年六月採取
福島第一原子力発電所から北へ八キロ
福島県双葉郡浪江町幾世橋
小学校校庭の空気中からコバルト六〇を検出

たとえば
一九八八年九月
福島第一原子力発電所から北へ二十五キロ
福島県原町市栄町
わたしの頭髪や体毛がいっきに抜け落ちた
いちどの洗髪でごはん茶碗ひとつ分もの頭髪が抜け落ちた
むろん
原発操業との有意性が認められることはないだろう
ないだろうがしかし

若松さんの詩とインタビューを織り交ぜながら、番組は進んで行く。1971年に福島第一原子力発電所が稼働を始めたとき、彼は仙台のある雑誌社から依頼を受けて、同原子力発電所での取材を繰り返した。「そこでおかしいと思ったのは、原発が道路や電車から見えないところ、人口が少ない場所に建設されていることであり、東北電力ではなく、福島から数百キロも離れた東京にある東京電力が運営していることだった」という。人の目に見えない場所に建設し、原発は安全で安価な電力を生産すると喧伝する電力会社。原子力発電所が何度も事故を起こしていながら、それを隠し続ける電力会社。隠しきれなくなると小出しに発表したり、弁解や言い訳を重ねたり、事故から時間を遅らせて発表する電力会社。若松さんは、1970年代から見られたこのような電力会社のやり方が、福島原子力発電所の大惨事以後も全く変わっていないと憤る。

2013年9月、南相馬では大量の放射性物質が放出されたにもかかわらず、電力会社も市役所も政府も何も言わず、住民は知らされていないという。若松さんは福島の原発事故以後の状況を「核災」と呼び、この災害を引き起こしながら責任を取ろうとしない犯罪に、「核罪(かくざい)」という新しい概念を与えた。そして、「この『核罪』と共通するのが、第二次世界大戦に対する日本の戦争責任の取り方だ。原発の再稼働を始めようとしている日本が、福島で起きた『核罪』の追及をきちんとやらなければ、また同じことが起こる」と若松さんは予言する。「これは許せない」という若松さんの言葉の後、「みなみ風の吹く日」の最後の部分が朗読されて番組は終了する。

この録音を聞くまで、私は若松丈太郎という詩人のことを全く知らなかった。ネットを頼りに調べ、いろいろな情報を得た。2014年12月25日付の朝日新聞が若松さんについて、次のように書いている。

若松さんは「核災」「核発電所」という呼び方にとことんこだわる。「人災であり、犯罪であるのに、原発事故という言い方は納得いかない。原子力エネルギーという言葉には、核爆弾と同じ構造をもちながら平和利用に見せかけるうさん臭さがある」。

敗戦直後、教科書に墨塗りをさせられた体験を原点に、戦後70年を生き抜いてきた若松さんは言葉で闘いを続けてきた。植物や昆虫など、言葉を持たない生き物が見せる変化を「ただただ観察し」、そこから「現実を読み解こうとし」、そして詩という形で警告を発し続けてきたのだ。ブランドナーさんとのインタビューで、最後に「再稼働すれば、また同じことが起きる。それは許せない」と語る若松さんの言葉を私たちは警告として受け止めなければならない。「核罪」を追及することなく、「核発電所」を再稼働させてはならない。

上記のオーストリア・ラジオの番組では、若松さんの詩から「ひとのあかし」、「神隠しされた街」、「みなみ風の吹く日1(1991年11月)」が朗読された。「神隠しされた街」と「みなみ風の吹く日1(1991年11月)」は、コールサック社のサイトで読むことができる。

関連リンク:
http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/400/109863.html

 

 

 

 

 

 

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